月別アーカイブ: 10月 2010

『不思議な若者』

私が初めて個展をしたのは、24歳の時であった。その折り、画廊主から美術家連盟なるものに入る事を推められた。美術家の著作権などを守る団体である。しかし推薦人が二名必要だという。一人は池田満寿夫さんがなってくれたが、もう一人の名が必要である。そこで画廊の番頭のK氏が、版画家の森義利さんが良いというので、日本橋だったか?ともかく森さんの仕事場を訪れた。初対面であったが、森さんは私のことを気に入ってくれて、推薦人を快諾してくれた。好々爺にも映ったが、しかし、その眼光は鋭い。話をしていると、そこにお弟子さんが現れてお茶を出してくれた。見ると、私と同じ位の若さであったが、その所作に無駄がなく、森さん以上に目が鋭い。(まさかそんな筈はあるまいが)記憶の中では、羽織袴の姿であったような気さえする。池田さんや美術評論家の坂崎乙郎さんは私を見て「君は神経が表に飛び出している!」と語っていたが、その若者は更に私の上を行く。「・・・・ここは江戸か!?」——-私は本気でそう思ってしまった。お茶を出すと、若者はスッと去り、その場から消えた。「・・・何者だろう!?」同世代のせいもあったが、私はその若者の事が気になり、強い印象となって記憶に焼き付いた。陰明師や井伊大老暗殺を胸に秘めた水戸の脱藩浪士、或は禁門の変事の長州の若き侍、——– そんなイメージがその若者にはあり、ずっと気になったままに、時が過ぎ去っていった。「——-はたして、あの若者は今、何処でどうしているのだろうか・・・?」

 

さて、話は変わるが、先日養清堂画廊から版画家の西岡文彦さんの個展案内状が届いたので見に行った。西岡さんは版画家であると同時に美術書を何冊も出しており、特にダ・ヴィンチに関する解釈は、その切り口に妙があり、以前から私の好きな書き手の一人である。西岡さんとは今まで面識がなかったが、今日行こうと思ったのには理由があった。前述したが、今、私のモナリザ論を基に番組の企画が動いている。それに絡めて、私は「モナ・リザ」についての或る仮説を最近立てており、西岡さんの意見をぜひ伺いたいと思ったのである。画廊に行くと運良く西岡さんは在廊していた。そして、「北川さんですか」と声をかけてきてくれた。「実は僕は、以前にあなたと会っていますよ」と西岡さんは話して来た。「・・・?」と私は思ったが一瞬で理解した。ずっと気になっていた、あの謎めいた若者が、西岡さん、その人だったのである。「北川さんはあの時、お土産に和菓子を持って来たんですよ。」そんな細かいことまで、西岡さんは覚えていたのであった。そして、短い時間であったが、ダ・ヴィンチの話をして私達は別れた。長い間の胸の中の謎が一つ消え、伺って良かったと思った。

 

西岡さん、森村さん、そして私の書く文が美術史家の文と比べて説得力があり、ユニークで面白いのには理由がある。それは私達が実作者である事で、歴史を越えてその主題の舞台裏に現場主義的に入っていけるからである。それと、着眼点に想像力の自在な飛躍があるからだと思う。私は今、与謝蕪村と西洋美術の連載を書き、別な主題の選書の刊行を用意している。西岡さんは、現在は何を主題に執筆しているのであろうか。ともあれ、次なる西岡さんの本の刊行を私は楽しみにしている。

 

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『陰影礼讃と共に』

先日の個展に来られた国立国際美術館の学芸主任の中西博之さんから『陰影礼讃』の招待状を頂いていたのを思い出し、何気なく見ると、まさに今日が最終日!!急ぎ六本木の国立新美術館へと向かった。

 

 

この展覧会名は、文豪の谷崎の作品名から借りたものだが、国内の各々の美術館の収蔵作品も、比較文化論的に機知で括れば、なかなか見応えのある展覧会も可能だという事を示す企画と見た。ただ、多角的に「光と影」を切り口としたといっても、成程と思うのもあれば、何故これが?と思うのもあり、今一つの作品選択に精度があれば、と惜しまれる。本展では、高松次郎が何故か浮き上がるように話題になっているようだが、展示されている『影』の作品と下絵を観て、私は35年前のある光景を思い出した。当時はコンセプチュアルアートが大流行し、美大生の周囲の友人達も、未消化なままに、この流行に乗ろうとかぶれていた頃である。当時、高松はスター的存在のようにあがめられていた。・・・そんな或る日の夕刻、銀座の松坂屋裏で、私(当時は学生)は、高松とすれ違ったのである。彼は下を向いたまま、呪文のように聞き取れぬ言葉を呟いていたが、薄暗がりで見るその顔は、げっそりとやせ細り(もともと細面ではあったが、それにしても・・・)、目は窪み、あたかも狂人のような何かが憑いたような相を呈していた。「あぁ『歯車』を書いていた頃の芥川と似ている」———–19歳の私はそう思った。そして、私も半ば興味を持っていた「コンセプチュアルアート」が、言葉の持つ自縄自縛の危険水域を孕んでいる事を直感し、その一瞬で身を引いた。・・・・・今、目の前に在る『影』を見ながら、遠いその日の事をふと、私は思い出していた。

 

本展の中で、主題とは別に、私は一人の画家に目を止めた。須田国太郎である。以前から気にはなっていたが、この捕らえにくい人物は小説のモチーフとして面白い。————-あらためて、そう直感したのである。この男の中にある暗くて静かな〈矛盾〉に目を注げば、意外な主題が立ち現れるのではないだろうか。この直感は、今日訪れた一つの収穫として育ててみたいものである。

 

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『迷宮の愉楽ーヴェネツィアに』

10月6日(水)、名古屋の電気文化会館 ザ・コンサートホールで、夜の7時から馬場駿吉氏の連句による『迷宮の愉楽ーヴェネツィアに』が開催される。馬場氏は名古屋ボストン美術館館長で美術評論家であると共に、秀れた俳人としても知られている。その馬場氏の連句『水都孤遊ーアンリ・ド・レニエ頌』に、作曲家として国際的に活躍するマリーノ・バラテッロ氏(ヴェネツィア在住)と、現代音楽作家の水野みか子さんが作曲した新作の世界初演がなされるのである。演奏はマリーノ・バラテッロ本人の指揮で愛知室内オーケストラ。又,ソプラノはロリアーノ・マリン、テノールはフィリッポ・ピナ・カスティリオーニ(共にヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場を拠点として活躍中)の歌が花を添える。そして、私が〈映像〉として参加する。

 

2009年の2月10日、私は厳冬のヴェネツィアに着き、その1週間後に馬場氏がヴェネツィアに入った。私は主に撮影、馬場氏はこの地に句想を求めての旅であった。先日の高島屋の個展で発表した写真は、約1000枚近く撮った内の極一部に過ぎない。私は写真を全て収めたCDを馬場氏へお送りし、氏の選択にそれを委ねた。一点自立としての写真の発表とは異なり、馬場氏の俳句、そして音楽が加わる際には、私の写真は全く別な意味性を帯びてくる。私は5日のリハーサルに立ち会うために前日に名古屋へ行き、そこで初めて、自分が撮影した写真が巨大な映像となっているのを目にするわけで、今、次第に興奮と興味が高まって来ているのである。京都のギャルリー宮脇に続き、名古屋のMHSタナカギャラリーでも4日から私の個展が開催されるので、先ずはギャラリーに行き、それからリハーサルに行く予定になっている。10月6日の夜、名古屋にヴェネツィアの幻想の魔的な花が妖しく咲くであろう。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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