月別アーカイブ: 10月 2012

『モナ・リザ異聞』

IPS細胞を使った世界初の治療をしたと主張していた森口尚史という男。共同通信社と読売新聞の軽卒な報道により一瞬間ではあるが、世の中が沸き立った。しかし次第にすべてが嘘である事が明るみになるにつれ、この森口という男の薄っぺらな顔がライトを浴びてクローズアップされてきた。「人は見た目で判断してはいけない」という言葉と「男の顔は履歴書」という言葉が対としてあるが、このインチキ中華料理店のオーナーのような顔をした男を見る限り、「人は見た目である程度判断できる」という事になろうか。また一方で、ノーベル医学生理学賞を受賞した京大の山中伸弥教授の相貌は「男の顔は履歴書」を裏付けるように、その表相からでさえ、密度のある知性が伝わってきて好感が持てる。

 

かくもレベルが異なって見える二つの顔を新聞で見比べていて、最近似たような事があったなぁとふと思い、ある事に思い至った。それはやはり新聞報道で知った、ダ・ヴィンチ作による「10歳若いモナ・リザ」の絵が出て来たという報道である。ポーズも同じで、炭素により年代検定の結果、ダ・ヴィンチ自身が「モナ・リザ」(ルーヴル蔵)より10年前に描いたものと専門家が断定したという。私は大笑いした。その専門家って誰なんだ!?・・・一度その御仁の顔を見てみたいものである。一見して知の密度がダ・ヴィンチとは異なる他者によって描かれた薄っぺらな顔。おそらくこの場合の他者とは、不肖の弟子であったサライあたりであろうが、使われた絵の具の炭素鑑定で同時代のものであった、故に本物・・・と云うが、、、ダ・ヴィンチの工房に居て弟子が師と同じ顔料を使って絵を描けば、それはダ・ヴィンチと同じ成分になるのは当然である。それに何より、この10歳若い「モナ・リザ」の絵は、6月まで日本の文化村ミュージアムで展示されていて、ダ・ヴィンチ周辺の絵と記されていたのと同一の物である。とはいえ、「専門家が判断した」と新聞の活字で表記されていると、たいていの人は自分の眼よりも、そちらの方に判断の重きを置いてしまうようである。変だと思いつつもそう思ってしまう。この類いを例えるならば、高価な医療機材を備えた病院の医師に似ているか。眼の前で高熱の患者がいたとして、自分は変だと思っても機材の方が「異常なし」と出た場合、そちらを信じてしまうようなものである。ちなみに、機材の精度が進むのと反比例して名医は減り、平均60点くらいの医者が増えているという。

 

さて、ダ・ヴィンチの専門家を自称する方々もおそらくは知らないであろう、ひとつの逸話をここに記そう。それはこのような話である・・・1452年4月15日、フィレンツェ近郊のヴィンチ村にレオナルド・ダ・ヴィンチは生まれた。そして数日して洗礼を受ける際に立ち会い人として、村の女達が10人ばかり同席した。幼な子である未だ生まれたばかりのレオナルドを見つめる女達の目、目、目・・・。私は以前に刊行したダ・ヴィンチ論を書く際に、この女達の名前までも古文書を追って調べた事があった。・・・そして女達の中に「モナ・リザ」という名前があるのを見つけた時に、何やら不気味な感慨にとらわれた。「モナ・リザ」・・・つまりは唯の、リザ夫人という女性が同席していただけの話なのであるが、私の感性は、そこに映像的な不気味さを供なって、何やらダ・ヴィンチの生涯における一種呪われたような運命をさえも見てしまったのであった。このささやかな逸話だけで、ひとつの短編が書けてしまうのである。

 

私の個展が休みなく続いているが、今年最後の個展が、10月31日より11月19日まで日本橋高島屋の美術画廊Xで三週間にわたって開催される。今はその制作も数点を残すばかりとなった。今回の個展のイメージの舞台はイタリアのパドヴァ近郊にあるブレンタ運河である。個展のタイトルは『密室論 – ブレンタ運河沿いの鳥籠の見える部屋で』。次回のメッセージはこれについて書こうと思う。

 

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久しぶりに横浜を離れ、越後湯沢を経て、秋の深まりを見せる日本海側に出て富山の地を訪れた。今回で七回目となる私の個展が開催されているぎゃらりー図南に行くのである。今回の個展は『Muybridgeの緑の線上に沿って』。連続写真を撮影したマイブリッジへのオマージュを込めた連作を中心とした三十点近い新作の展示である。

 

ぎゃらりー図南は開廊して20年になる。オーナーの川端秀明氏は開廊当初から私の作品に興味を持たれ個展を開催したいという希望を抱いておられたが、東京の方の画廊と契約をしている作家だと思われていた由。しかし、八年前に友人の版画家A氏を通して打診があった際、私はハッキリと、自由な立場であり、唯、信念のある画廊、そして美意識の高い人物とのみお付き合いをしている旨をお話しした。版画家のA氏は私の信頼している人である。A氏のご紹介ならば確かな人であろうという直感を抱いていた。実際にオーナーの川端秀明氏に御会いしてみると、私はたちまち旧知のように打ち解けた。そればかりか価値観までも共通し、私はもっと早くに川端氏と出会っていなかった事を悔やんだ。そればかりではなく、第一回目の個展から数多くの作品が、この画廊のコレクターの方々にコレクションされて大成功をおさめたのである。回を重ねる度に私はコレクターの方々とも御会いする機会があったが、その方々のコレクションされている私の作品は数多く、昨年の秋に福井県立美術館で開催された個展の際には、〈個人蔵〉としての相当数の作品をお借りする事になり、私も美術館もずいぶんと助けられたのであった。作家の多くは発表の場を東京中心にのみ考えていて、結果として窮しているが、私の持論は、日本全国に何処に眼識の高い人がいるかわからない。そして、事実かなりの数で存在しているという事を、私は体験している。そしてそこには、実に素晴らしい出会いの数々が待ち受けているのである。

 

 

 

日時: 作成者: kitagawa | コメントは受け付けていません。

『24歳の手紙』

中長小西での個展が盛況のうちに終了した。新しく作ったばかりの新作オブジェの多くがコレクターの方々のコレクションに入り、私は表現者としての手応えを覚えながらアトリエに戻った。

 

部屋の明かりをつけると、6枚からなるFAX文が届いていた。発信先は池田満寿夫美術館。先日、個展会場に来られた学芸員の方から、池田満寿夫氏の遺品の中から私が氏に宛てて書いた手紙が出て来たという話を聞かされており、ぜひ読んでみたいという私の希望を受けて送られて来たのである。それは、新宿の中村屋で氏と初対面を果たした直後に書いた手紙であった。以後、何通もの手紙を私と氏は交わしているが、氏から届いた何通かは今も私の手元にある。・・・・読んでいく内に今の私と24歳時の私が重なり、銅版画に自分の存在の意味を見出していた頃の自分が立ち上がってくる。手紙には、写真家アジェへの想い、美術家たちの認識の低さへの怒り、自分の文体といえるものを早く確立したい事への焦り、メチエへのこだわり、今作っている作品の事・・・・などが青年らしい気負いで綴られている。この手紙を出した直後に、池田満寿夫氏は私をプロの作家にすべく、初の個展をプロデュースし、美術評論家の中原佑介氏がコミッショナーとして、私を東京国際版画ビエンナーレ展の日本の代表作家に推薦されるなど、いきなり作家としての地歩を固められたわけであるが、手紙はそれ以前の、いわゆる夜明け前の気分に充ちていて、我が事ながらいじらしい。長い時を経て突然現れたこの手紙は、「初心忘るべからず」という意味でも、実に好機な物なのかもしれない。そう、初心忘るべからず。先人達の残したこの言葉の含む意味は大きい。

 

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