月別アーカイブ: 11月 2012

『澁澤龍彦』

28日の夕方に北鎌倉で美術評論家の中村隆夫氏と同行の方々と待ち合わせて澁澤龍彦邸を訪うた。20数年前に初めてお伺いしてからおよそ5回目くらいの訪問になろうか。既に澁澤氏はおられぬが、奥様の龍子さんの美味しい手料理とワインを頂き、尽きない会話が続いて、けっきょく辞去したのは夜半であった。

 

かつて一度だけ澁澤氏とは銀座のバルハラデンというお店でお会いしているが、その時に見たダンディズムの極の姿は私の目に焼き付いていて離れない。二人だけの至福の時を邪魔するように入って来たのは岡本太郎であった。澁澤氏は全く岡本太郎を無視して悠然とパイプの煙をくゆらしていたが、無視された方の岡本太郎の虚ろな姿は、この男特有の自意識を根こそぎ折られたようで、彼の仮面の奥の脆い素顔を見た思いがした。内実、最も認めて欲しい人物から完全に拒否された時、人は時として、そのような表情を不覚にも露呈してしまう。

 

私が20年前に1年間ヨーロッパを廻っている時に携えていたカバンの中には、いつも澁澤氏の著書『ヨーロッパの乳房』が入っていた。そして氏が訪れたスペインのグラナダやセビリヤ・・・・、イタリアのローマや、ミラノの北にあるイゾラ・ベッラ島などに行った折りには、氏の本を開いてその描写を読み、眼前の実景と比べては、氏のエッセンスを我が物とすべく、それなりの修行のような事をした事があった。私はそれを通して眼前の奥にある「今一つの物」をつかみとる術を、それなりに掌中に収めていったように思われる。

 

夥しい数の書物に囲まれた澁澤氏の書斎は、今も研ぎ澄まされたような気韻を放って、あくまでも静かである。机上の鉛筆削り器には、削られた木屑がびっしりと詰まったままであるのを私も中村氏も共に気付いたが、そこから龍子さんの澁澤氏への想いが伝わってきて胸を打つ。この空間は今でもふらりと澁澤氏が現れて執筆をはじめても自然なくらいに、時間が永遠に止まったままなのである。かくも超然とした絶対空間。高い知性と鋭い眼識によって万象を巨視と微視との複眼で捉え得た稀人の牙城。ここにはサドの直筆の手紙や、外国で求めた硬質なオブジェ、それに危うい種々の物と共に、四谷シモン、加納光於、金子国義中西夏之池田満寿夫加山又造たちの版画がある。若輩ながら私の版画もここには在るが、それらを眺めていると、澁澤氏は版画の中でもよほど銅版画が好きであった事が見てとれる。明晰さと硬質さは氏の資質を映したものであるが、それは銅版画の本質と相通じるものがあるように私には思われる。

 

昨今の文学者や美術家はプロとして食べていくのが難しい為に、大学教授などに安定の道を求め、結局時間に追われ(たという理由で)感性の鋭さを失っている。しかし、この館の主である澁澤氏は見事に筆一本で人生を全うし、その死後には珠玉のような全集が残り、今もそしてこれからも若い世代たちにも影響を与え続けながら読み継がれている。私も何とか筆一本で今まで生きて来たが、氏の生き様は誠に範であり、力強い精神的な支柱である。かつて澁澤氏は自分の性格の最も好きな部分は何かと問われた際に、「自信」と答えている。私の答もまた同じである。「自信」ー これなくして芸術の闇に入っていく事などおよそ不可能な事であろう。夜半になり、書斎から庭を見ると、この高台からはその向こうに鵺(ぬえ)が横行しているような闇が広がり、彼方の山すそには澁澤氏が眠っている浄智寺の墓所が遠望できる。それらの全てに真っ暗な夜の帳りが下りて、いつしか鎌倉の夜は深い静まりの中にあった。

 

 

 

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『志賀直哉』

私は、最後の文豪 ー 志賀直哉に会い損ねた事があった、と云えば、人は驚いて「お前は一体何歳なのか!?」といって笑うであろう。しかし私は、そして時代は、実際にかすったのであった。それについて以下に少し記そう。

 

1970年。私は多摩美術大学に入り、川崎の溝の口に在った男子寮に住んでいた。同室は現在は服飾デザイナーとして国際的に活躍しているYであった。80人ばかりいた寮生は皆、個性が豊かで蛮カラの気風が残っていた。その寮生の中の私の1つ先輩に小谷文治さんという油画科の人がいた。或る日突然、全身の半分をタテに、頭髪、まゆ、ひげ、身体の毛すべてを剃り落し私達を喜ばしてくれたりした。しかしその気質は真面目であり、後年、美術教師として故郷の岡山に帰ってからは、ずいぶんと生徒達に慕われたという事を後に風の便りに聞いた。或る日、私が部屋で寝転んでいて天井を見ていると、その小谷さんが突然部屋に入って来て、「北川、明日よかったら志賀直哉に会いにいかないか!?」と切り出したのであった。その時、初めて知ったのだが、小谷さんは随分と志賀直哉を愛読しており、渋谷に未だ存命中なのでどうしても訪ねたいが一緒に来ないかと言うのである。「……志賀直哉ですか、三島由紀夫なら行きますけどねぇ……」私が気乗りしない返事をすると、小谷さんは残念そうな顔をして出て行った。

 

二日後の夜に寮の食堂で小谷さんを見掛けると、随分と嬉しそうであった。聞くと、小谷さんはやはり翌日に渋谷の志賀直哉に会いに行き、運良く在宅していた志賀直哉に許されて部屋に入り、一時間ばかり話をしてきた由。もちろんアポなしの、まるで刺客のような訪問ではあったろうが。(… やはり行けば良かったかな)ー 私は少し後悔したが、この後悔は、後に自分が文筆業もやるようになって次第に大きなものとなっていった。文体のエッセンスを盗むべく、あの正確な観察体の眼差しの極意について、後年の私は無性に知りたくなったのである。この年の秋に三島は自決し、翌年に志賀直哉も亡くなって、新聞は昭和の最後の文豪の死を大きく報じていた。その辺りから、文学も美術も大物が出なくなり、各々の扱う主題もまた小さくなっていった。

 

今になって、ふと思うことがある。小谷さんは何故私を誘ったのか…と。その頃の私は、文芸評論では伊藤整が抜きん出て良い事を語っていたからなのか……。後年になって、横浜に住んでいた私のところに深夜、小谷さんから電話が掛かって来た事があった。電話の声は思い詰めたように暗く鋭かった。電話の話では、小谷さんは教師を辞めて、やはり絵画で自分の才能を試してみたいのだという。聞くと、今、静岡のドライブインから電話をしているとの事。これから会いに行くので、作品を見てくれないか… という話であった。既に美術家としては身を立てていた私だが、何様でもない私が、先輩の絵を見て意見を言う…という、その不自然なニュアンスが何となく気になっていた。しばらく待ったが…結局小谷さんは現れなかった。そしてまた月日が流れていった。……小谷さんが既にこの世にはいない人であるというのを知ったのは、大学から送られてきた卒業生名簿の消息欄であった。古い手帖に書いてあった小谷さん宅の番号に電話をすると、奥様が出られ、その後の軌跡を知らされた。小谷さんは結局故郷の岡山に戻り、教職を務めながらその早い生を閉じたのであった。未だ40歳前後頃ではなかったろうか。小谷さんを思い出すと、いつも決まって浮かぶ想像の場面がある。それは小谷さんが志賀直哉と向かい合って対話をしている場面である。論客であった小谷さんは何を尋ね、志賀直哉はどう答えたのか……。それはもはや答えのない永遠の謎として二人は鬼籍に入って既に久しい。「やはり一緒に志賀直哉に会っておけばよかった!!」私が18歳の時に落として来た青春時の悔いのひとつである。

 

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『個展 – 私の現在』

三週間続いた日本橋高島屋本店の美術画廊Xでの個展がようやく終了した。世の不況にも関わらず、出品点数82点の内、50点以上の作品がコレクターの方々のコレクションとなっていった。昨今の美術表現の傾向は、薄く脆く、ぼんやりしたイメージの芯のない傾向へと向かっているが、私は芸術とは強度で美と毒とポエジーこそ必須であると考えている。そしてマチスが美の理念とした言葉「豪奢・静謐・逸楽」ー つまりは、眼の至福たる事を範とし、その実践をしているという意識は強烈にある。しかし、そうは言ってもやはり実際にコレクションを決断されるというその行為に対しては本当に感謝したいと思っている。かつて池田満寿夫氏が語ってくれたように、「コレクションされるという事が、作品に対する最高の批評」なのである。

 

さて、今回も様々な方と会場でお話する機会があった。この国の最大のコレクターといっていい東京オペラシティの寺田小太郎氏は、毎回の個展でコレクションして頂いているが、今回は三点のコラージュを求められた。その後、私と寺田氏は一時間ばかり会話を交わした。この国の現在の混迷の元凶は、明治新政府において西郷隆盛の農本主義が廃された事に拠るという自説を語ると、実は寺田氏もまた同じ考えを持っておられた事に驚いた。そして日清・日露で勝ってしまった事がこの国の軌道を狂わせたという話になり・・・・寺田氏の豊富な体験談を伺って、私はずいぶんと教わる事となった。

 

有田焼十四代の今泉今右衛門氏とは、芸術作品の表象にある肌(メチエ)が如何に決定的に重要なものであるかについて、分野の垣根を超えて共通な眼差しをみられた事は意義深いものであった。メチエが持つエロティシズム・魔性・暗示されたイメージの豊饒、・・・・そして気品。ちなみに、この当然なメチエへのこだわりに眼を注いでいる美術家は、私の知る限り皆無であるといっていい。

 

さて掲載した作品写真は今回の出品作『ベルニーニの飛翔する官能』である。この作品をコレクションしたのは、短歌の第一人者、水原紫苑さんである。水原さんは、あの白州正子さんが「稀に見る本物の歌人」と高く評価した才人。このコラージュは危うく妖しいエロティシズムに充ちた難物であるが、さすがに天才の眼は、一瞬でこの作品に意味を見た。水原さんの購入が決まった後に売約済を示す赤いシールがタイトルの横に貼られた。その後、この作品を購入したかったという人が8人続いたが、その全員が女性であった事に私は作者として驚いた。男性は作品に理論的な意味付けを試みるが、女性は直感で作品の本質を見抜く。女性の感性たるや恐るべしである。

 

今一つの画像作品は、詩人の野村喜和夫氏がコレクションを決められた。野村氏は現代詩の第一人者として、昨今最もその評価が高い。先日は歴程賞を受賞し、この春は萩原朔太郎賞を受賞するなど、刊行する詩集や評論集のことごとくが注目の的となっている。野村氏は個展の度に私の作品をコレクションされているが、その選択眼は確かであり、私の作品の中でも代表作となるような重要な作品ばかりを必ず選ばれている。来年の一月には詩人のランボーを主題に絡ませた、野村氏と私の詩画集が思潮社から刊行予定となっており、作品は既に作り上げている。さて先述した水原紫苑さんや野村氏といった表現者の人にコレクションされる事には今一つの更なる楽しみがある。それは御二人に見るように、短歌や詩の中で私の作品が変容して再び立ち現れる事である。既に野村氏は今年の「現代詩手帖」の巻頭で、それを実行し、水原さんも近々の作品の中に詠まれる由。ともあれ、今年の個展は全て終了し、私は束の間ではあるが休息となる。しかし、このメッセージはしばらく休んでいた分、書きたい事が多くある。乞うご期待である。

 

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『個展始まる。』

日本橋高島屋本店6階の美術画廊Xで私の個展『密室論 – ブレンタ運河沿いの鳥籠の見える部屋で』が始まった(11月19日まで)。美術画廊Xでの個展は今回で四回目。作品総数80点以上から成る大規模な個展である。この画廊は広いので、毎回、入り口にテーマに沿ったディスプレーの展示をする。今回は掲載したとおり白木の窓の中に、石にプリントしたダ・ヴィンチの衣装のデッサン、定規などを構成した。

 

展示の中心は、コラージュ作品である。このコラージュという方法論の祖はシュルレアリスムの画家マックス・エルンストをその始まりに見る人は多いが、さにあらず、実はわが国の扇面図屏風に既にその祖が見てとれる。しかし、コラージュという技法は美術の分野に在って、妙にその立ち位置が定かではない。今まで、野中ユリさんをはじめとして試みる人は多かったが、澁澤龍彦のテクストなど・・文学者の文章に共存する形が多かった。つまり一点で自立した完成度を持つコラージュ作品がほとんどわが国では皆無であったのである。今回、気概のある私は真正面から御するようにして、この技法に挑んだ。その結果はご覧になって判断して頂くしかないが、評判は上々で、展覧会としての手応えはかなり強く伝わってくる。その手応えの例として、たとえば初日に御一人で6点の作品(コラージュ・オブジェ・版画など)をコレクションとして求められた方がおられ、私を驚かせた。前回この画廊で作品をご覧になられた方々は、一変して全く別なイメージ空間が広がっている事に驚かれているが、展覧会を、或る期間に限定して開示された解体劇と考えている私にとっては当然の事である。そして、作家の多くの個展が、前回と同じワンパターンと堕していることへの私なりの批判もある。やはり表現者は常に変化し、更なる新たなイメージの領土を深めながら次々と開拓していくべきではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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