先日の14日、鎌倉近代美術館で開催中の加納光於展のオープニングに出掛けた。加納さん、名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美術家の中西夏之さん、深夜叢書の齋藤愼爾さん、美学の谷川渥さん、そして詩人の阿部日奈子さん他、久しぶりにお会いする方々が数多く訪れていた。
中でも中西夏之さんとお会いするのは澁澤龍彦氏の何周期目かの法事の時以来であるから、何年ぶりであろうか。その時は、北鎌倉は雨であった。皆がそぞろに寺へと向かう中、私と中西さんは相合い傘でその列を歩いていた。途中、話が中西さんの銅版画の近作に及び、私はこの20才年上の天才に苦言を申し上げた。「・・・あの作品に使ったアクアチント(松脂の粒)の粒子をもっと細かくして、薄い硝酸液で時間をかけてゆっくりと腐食して,インクにもう少し青系を加えれば、側面から濡れた叙情性が入り、主題と絡まって、版画史に残る名作になる筈でしたが、何故乾いた作品にしてしまったのでしょうか!?」という問いである。すると中西さんは「・・・その事は刷った後で気付きました」と語った。あぁ、中西さんもやはり気付いていたのか。・・・そう思いながら、私たちは次の話題に移っていった。
・・・ふと見ると、前を歩いていた人達が見えない。中西さんは論客である。私もよくしゃべる。話にお互いがのめり込んでいて、私たちは迷ってしまい、東慶寺が見えたので、その門に入り、奥へと入って行った。・・・いつしか雨が止んで、蝉しぐれがかまびすしい。しかし、・・・人影はまるで無い。中西さんが静かに一言、「私たちはどうやら、行くべき寺を間違えてしまったようですね。」・・・私たちは来た道を戻り、あてもなく歩いていると浄智寺の門が見えた。おぉ、そうだった!!・・・澁澤さんの墓はここに在るのであった。既に法事が始まっていて、皆、厳粛な顔をしている。遅れた私たちにコラージュ作家の野中ユリさんが、「遅いわねぇ、何処に行っていたのよ!!」と、真顔で叱られてしまった。話は戻るが、個人的な意見を更に述べさせて頂ければ、私はもっと中西さんに、独自の版画思考(手袋の表裏を返したような反転の思考)で、もっと版画(特に銅板画)を作って欲しかったと、つねづね思っている。この国の版画家たちにあきらかに欠けているのは、知性、ポエジー、エスプリ、独自性、・・・つまり表現に必要なその一切の欠如であるが、先を行く先達として、荒川修作、加納光於、若林奮・・・といった各々の独自性の中に、中西さんの版画の独自性が特異な位置としてあれば、よほど興があり、又、中西さんの表現世界も、より厚みが増したであろう。
まだ美大の学生の時に、当時の館長であった土方定一氏に呼ばれてこの鎌倉近代美術館を訪れたのが初めてであったが、その頃のこの美術館は、土方さんの力もあって、海外の秀れた作品が見れる企画が続いて活況を呈していたものであるが、今は老朽化が激しい。驚いた事に、鎌倉に長く住んでおられる加納さんの個展は初めてとの由。十年前に見た愛知県立美術館での加納さんの個展は充実していたが、今回は展示に今一つの工夫とセンスの冴えが欲しかった。展示はそれ自体がひとつの加納光於論であり、解釈であらねばならない。特に加納さんのオブジェは私とは異なり、素材へのフェティッシュなまでの想いの強さは無く、無機的。一緒に作品を見ていて美学の谷川渥さんとも話したのであるが、加納さんの作品には、そこに実質としての主体が無く、ありていに言えば、『アララットの船あるいは空の蜜』に代表されるように、それは観念の具であり、何ものかが投影された、それは影でしかない。その影としてのありように、加納さん独自の知性とポエジーの冴えがあり、作品は云はば主語捜しの謎掛けである。しかし、展示の仕方が、あまりにも無機的な、博物館のようで今一つの工夫が見られなかったために、無機的なものが相乗して、「見る事とは何か!?」というアニマが立っておらず、又、「間」を入れたスリリングな興が立たず、それに会場は寸切れのように狭く、ともかくも残念に思った次第である。美術館は葉山の方に一本化されて移るらしいが、色彩にこだわっておられる加納さんの展示は、むしろ明るい葉山でこそ開催されるべきではなかっただろうか!!
加納さんと私の資質の違いを示す話を書こう。・・・・・・以前に横須賀線の電車で、加納さんと私は同じ横浜方面へと向かう為に席に座って話をしていた。すると突然、加納さんは私に「あなたは、作品に秘めた本当の想いが他者に知られては、たまるかという想いはありませんか・・・?」と問うてきた。私は閃きのままに、次なる構想が立ち上がると、それをガンガンと人にも伝える。果たして、後にそれを本当に作るかどうかは不明であるが、とにかく言葉が、未だ見えないイメージを代弁するかのように突き上げて出るのである。その私を以前から見ていて、加納さんは遂に問われたのであろう。そして私は返答した。「全開にして語っても、なお残る謎が私の作品にはあります。それが私の作品の真の主題です」と。加納さんは寡黙の人。私は◯◯である。
この御二人の先達に、私は各々の時期において少なからぬ影響を受けて来たものである。そして御二人の作品も私はコレクションしている。中西さんのオリジナル作品『顔を吊す双曲線』を私が所有している事を中西さんに告げると、とても嬉しそうな表情を浮かべられ、私もまた嬉しかった。この作品は今もなお、私に対して挑戦的であり、私がこの作品の前に立つ時は、手に刀を持っているような感覚を今も覚えてしまうのである。・・・・とまれ、加納光於展は始まったばかり。源平池を眺めながら、古都鎌倉の秋にしばし浸るには、ちょうど良い時期ではないだろうか。



1年間の留学の機会を得て、最初の目的地としたのはスペインのバルセロナであった。研修先になってくれた、画家のタピエスの版画工房が用意してくれた「チキート」という名の、理由ありの日本人が経営する宿が、私の拠点であった。この宿は日本人の旅行者が多く、様々な人々が出入りしている。


・・・・何故、福井さんはあすこに私を連れて行ったのだろうか?私はつらつらと考えながら、そしてようやく気がついた。〈アヴィニョン通り〉・・・・確かにその名前が付いた場所。ならば間違いない、あの淫売宿こそは、かつて青年のピカソが訪れた場所であり、彼はそこでの体験を元にして、あの、20世紀絵画の幕開けとも云える『アヴィニョンの娘たち』を1907年に描いた。まさにその場所に、福井さんは私を連れて行ってくれたのである。そこがピカソのインスピレーションに与えた波動は美術史における謎であるが、あの場所には磁場の強い〈何ものか〉が確かに轟いていたのを、私は思い出していた、(これから行く所はバルセロナで最も古く、100年以上前からの所だから・・・・。)行く途中に、そう云えば福井さんは、そうも話してくれていた。しかし・・・その福井さんは何処に消えたのだろうか。
堀川の流れる岸辺に真鍋の家は在った。二階に上がると二間をぶちぬいて、レーシングカーセットが輝いて見えた。私は青色が好きなので青い車を。真鍋は赤い車をとって競争が始まった。玩具の域を超えた凄まじい疾走音、臨場感、・・・・・私の向かい側で興奮している真鍋の顔。・・・・・私は悔しかったのか、車の限界ギリギリの速さにした。私の心を映したように青い車は場外に飛び出し横転した。車輪が虚しくカラカラと廻っている。そして私は考えた。(このまま何度応募してもたぶん外れるだろう、だから普通に正面から攻めても無駄である。一発必中で手に入れる手は無いものか!?そして閃いた。一通の手紙を編集部に書いて送ろう!!私がとった作戦 ― それは少年の無垢を装った「純情」であった。
先日のTVのニュースで、秋田書店にいた女性編集者の内部告発で、封印していた「或る事」が表面化した。漫画の人気投票を子供たちから送らせて、人気の無いものは連載途中でも打ち切りにしている事は昨今はもはや寒い常識となっている。問題は、子供たちの直な意見を聞く為に、応募者に景品を毎回抽選で選んで送っていると発表していたのが、全くの嘘であり、雑誌で公表している当選者名も、そのほとんどが実在しない名前をその女性編集者に作らせて、公表していたのだという。耐え切れなくなったその人が上司に意見を言うと、(これは昔からずっとやっていた事なので、当然のことなのだ)と言ったという。そして最悪なケースに発展した。その常識ある女性編集者は、景品を盗んだとして出版社から一方的に解雇されたのである。先述した友人の尾村や真鍋の例もあるから、その頃はそういう虚偽は無かったのであろう(いや、無かったと思いたい!!)私が問いたいのは、その出版社で働く編集者たちである。自身の胸に問うてみて、ひたすら巨大な儲けの具と化した唯の暴力過多の漫画を発信していく事に、自分の子供たちに誇れるあなたの人生の意味や形は、はたしてあるのかと。






