月別アーカイブ: 12月 2013

驚異の北斎展ー名古屋ボストン美術館ー

あのピカソが晩年に至って辿り着いたのが〈北斎〉であった事は、あまり知られていない。ピカソは日々の中で時折、突き上げるようにして「・・・・やはり北斎はすごい!!」という呟きをくり返していたのである。

 

その北斎展が名古屋ボストン美術館で来年の3月23日まで開催されている。この展覧会が出色して意味があるのは、ボストン美術館の浮世絵作品は今まで門外不出であったために、保存状態が極めて良く、それが今回ようやく公開される事にある。・・・・・というわけで、私はその北斎展を見に名古屋ボストン美術館の内覧会を訪れた。展示構成に工夫が配され、北斎が画狂人へと、つまりは近世最高の画家へと変貌していく過程がスリリングに見てとれて、得る物の多い展覧会であった。北斎の内に既にして在った強度な感性は、「ベロ藍」と呼ばれている合成顔料「プルシャン・ブルー」の強度な青がこの国に入った事で、水を得た魚のように天才の独歩を始める。北斎71歳の頃である。そして翌年(1831年)に「富獄三十六景」が始まり、89歳で亡くなるまで、天才の軌跡は急なる上昇を遂げていく。常に停まる事を良しとしなかった北斎にとって、まことに「ベロ藍」の登場は天恵のようなもので、私はこの展覧会で、初刷りでありながら、今までどの展覧会でも見る事の出来なかった、まさに当時そのままの生々しい北斎の「青」に対面出来たのであった。会場内で、館長の馬場駿吉さんと美学者の谷川渥さんとの三人で暫し話を交わした。谷川さんは北斎の、夢の中の百の橋を描いた版画をコレクションしている由。この作品は北斎の幻想画家としての面を代表する作品であり、そこに私はこの美学者の鋭い慧眼を見てとった。

 

夕刻に名古屋を出て京都へと向った。磯田道史(いそだ・みちふみ)氏の『龍馬史』を読んで以来、機会を見て訪ねてみたいと思っていた松林寺を見に行く事にしたのである。松林寺・・・あまり聞いた事の無い名前ではあるが、その寺こそは、京都見廻組の頭であった佐々木只三郎が下宿していた所であり、その横には、若年寄で幕府最高の頭脳の持ち主であった永井玄蕃の屋敷があった。龍馬が永井に大政奉還の必要を説くために足繁く訪れていた場所である。(ちなみに永井の玄孫にあたるのが作家の三島由紀夫)。つまりその地は、指名手配中の犯人(龍馬の事)が、白昼堂々と警視庁の長官に会いに来たような場所であり、その横の松林寺は、龍馬を暗殺した刺客たちが、その血刀を下げて深夜に戻って来た場所なのである。夜、木屋町で食事をして、高瀬川河畔の「花屋旅館」に宿をとった。この旅館は明治期に建てられた趣のある建物で、映画監督の故・新藤兼人氏も常宿にしていた。十年以上前から私もまた常宿にしているが、この宿の女将の話が面白く、高瀬川を真横に見ながらの朝食が実に美味しい。交通の便が最良で一泊7500円(朝食付)は安い。このブログをご覧の方にはぜひお勧めしたい宿である。

 

翌日、京阪電車で先ずは御所に行き、蛤御門→京都所司代跡→そして件の松林寺→三十三間堂→そして血天井と宗達の絵で知られる養源院を見て、横浜へと戻った。松林寺辺りはかつて聚楽第が在った場所で、源氏物語の舞台ともなった地。掲載した画像に映っている石段は、当時の名残りを残す遺構であるが,私はその石段を踏みながら、リアルで生々しい感概を覚えたのであった。龍馬暗殺。・・・・想像力を持ってすれば、146年前の時などは、僅かな昔日の事なのである。

 

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『偽』

今年1年間の日本のありようを漢字一文字で表わすのは、京都・清水寺の大僧正の仕事であるらしいが、毎年「?」という違和感を覚えていた。今年もやはりそうだった。今年は「輪」であるという。私だったら、〈歪〉〈空(から)〉〈虚〉〈脱〉〈偽〉〈疑〉・・・・・などが浮かぶが、まぁ今年は『偽』がふさわしいだろう。そう思っていたら、何と韓国も『偽』を挙げていた。知らなかったが、中国や韓国でも一年の世相を漢字一文字で表わす習慣があるらしい。中国の今年のそれは知らないが、想うに孤立の『孤』であろうか・・・・・。

 

今年の後半は偽装問題が次々と明るみに出たが、たとえばエビ料理を例に挙げれば、普通のエビの味をブラックタイガー風にするのは、調理上の当然のテクニックとしてあるのだという。又、それを見破れない私たちの文化の底の浅さも、つまりは浮き彫りになるわけで、これは現代の日本を正に映した事象のようにも思われる。

 

偽装と直結するとは言えないが、例えば骨董市に行くと、明らかに偽物の棟方志功の版画などがあったりするが、警察が踏み込んだといった話は聞いた事がない。また逆に店主がその価値を知らず、おかげで私は月岡芳年の『英名二十八衆句』を二点、信じられない安価で入手出来た事もある。芥川龍之介・江戸川乱歩・三島由紀夫といった面々もコレクションしていた逸品である。さて、ここに掲載した書は勝海舟と山岡鉄舟の書であるが、各々に二十八万と十五万の値が付いていた。本物であればかなりする物であるが、高からず安からず、つまりは(掘り出し物感)を揺さぶる絶妙な価格である。因みに手元にある勝海舟の手紙の資料と比べてみたが、どう見ても別人といった観がある。

この話をもっと膨らますと、例えば伏見にある〈寺田屋〉はどうであろう。薩摩藩の侍同士が殺し合った寺田屋事変・龍馬の常宿・幕府の役人に囲まれた時、おりょうが全裸で階段を駆け上がって急報した際に入っていたという風呂までが今に残るという龍馬ファンならずとも必見の場所である。今日まで残っていることの不思議を、むしろ奇蹟と熱く感じながらこの地を訪れる人は今も絶えない。大の龍馬ファンで知られるタレントの武田鉄矢氏などは学生時に訪れて興奮の延長で一泊したという。私も学生時に訪れて、熱く高揚しながら階段の手摺りをさすったものである。しかし、史実に照らせば、寺田屋があった辺りは全て、鳥羽伏見の戦の時に焼けて全てが灰燼と化している。この事を知った時はさすがに〈あの時の青春を帰せ!!〉という怒りと虚しさが突き上げたが、今は、まぁ良いかという想いになっている。一種のテーマパークと見れば、それも諒とする感じであるが、そう思わせるのは、つまりは龍馬の魅力の投影のようなものかもしれない。しかし、京都の壬生にある新撰組屯所のあった八木邸の子孫は、かつて私にこう言った事がある。〈うちのは間違いなく本物で、寺田屋はんとは違いますからね!!〉と。・・・・・。しゃべり方は柔らかい分、その内に京都特有のトゲを覚えたものである。

 

赤穂事件から今年で310年以上経ったが、浪士たちの墓所である泉岳寺は今も線香の煙が絶えない。ここにある資料館には、かつては赤穂浪士たちの遺品と称する物が、ザクザクと展示されていた。吉良邸前の米屋に潜入していた浪士(確か・・・前原伊助と神崎与五郎であったか!?)の話はスリリングであるが、その米屋の看板までもが展示されているのを見た時には、私は興奮のあまり脳内出血をしたものである。しかし、さすがに各方面から疑惑を呈されるようになってからは自粛したらしく、最近訪れた時は、展示物が五十分の一くらいに激減していたのには唖然としたものである。おそらく客寄せの為に明治の頃に、浅草の道具市あたりで、夕暮れ時に住職か誰かが、それらしい物を買い集めていたのであろうが、その姿を想えば〈切なさ〉すら漂ってくるものがある。偽装に対する言葉を書けば〈いっそ知らずにいたかった〉、そして〈知らぬが仏〉という言葉になろうか。知らぬが仏、・・・・・まことに古人は含蓄のある、うまい言葉を考えたものである。

 

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『北の大地にて』

飛行機に乗るたびに思うことであるが、離陸時のあの感覚は他には変え難い、一種の性的恍惚感のようなものがある。ある程度の高度に達して向きを変える瞬間、飛行機がゆらりと揺らいで、貧血のように頼りなく思う時がある。一瞬思う、落ちるのでは?・・・・という感覚、あれがたまらないのである。その瞬間に、私は決まったように思う事がある。飛行機が飛ぶのは〈揚力〉の力だというのは実は嘘で、やっぱり、機長や乗客全員の総力による〈気力〉で飛んでいるのだと・・・・。

 

「雪原に映える、美しい白樺林」

というわけで、私は先月末から五日間の日程で北海道を訪れていた。豪雪で知られる岩見沢にある北海道教育大学で集中講義をするためである。札幌に宿をとり、毎朝、岩見沢間を特急列車で往復する日々が始まった。最初の二日間は快晴であったが、三日目は吹雪であった。車窓から見る白樺林、そして遠景の平野のすべてが白一色となり、風景の総てがかすんで何も見えなくなってしまった。私はその様を見ながら、昔日の、まだ小学生であった頃の自分を想い出していた。

 

私が生まれた北陸の福井も、その頃は未だ冬の厳しい豪雪地帯であった。映画の『八甲田山・死の行進』の何人もの兵士が寒さで死んでいく場面が実にリアルに感じられるような,一寸先が全く見えない吹雪の中を、集団登校のまとまった小さな影が学校(が在ると思われる方向)に向かって必死で進んで行く。呼吸をすれば、冷たい風と雪が口中に襲うように入ってきて息すらも危うくなる。先頭の子供は見えず、唯、自分の前を行く,2、3人の後姿の影について行くのである。灰白色の平野に道はなく、私たちは凍った田んぼの上の積雪を踏みしめながら、一歩また一歩と進んで行くのである。その途中で、突然、前にいた子供の姿がズボリと沈む。張った氷が割れて泥田の水の中に沈み始めるのである。その両脇を私たちは無言のままに抱え上げ、年下の子供を引き上げる。この土地に生まれた事の宿命を皆で受け止めるかのように誰もが無言。・・・・そして無言のままに、再び歩き出すのである。

タレントでモデルの〈みちばた三姉妹〉は、小学校の後輩になるらしいが、彼女たちの頃は気象体系が変わって、福井も豪雪地帯ではなくなってしまった為に、一転して冬の登校も気楽なものであっただろう。・・・・・・・・想えば、その冬の厳しさに鍛えられたのは、結果として良かったと思う。一度しかない人生、これ全て自己責任。だから自主的な姿勢で人生をプロデュースしていく気力が、それと知らずに自分の中に宿っていったのだと私は今にして思うのである。

講義の方は学生達の関心度がとても高く、手応えを覚えながら進める事が出来た。今回の私の講義を企画された、教育大学教授の福山博光さんは知的な考察対象の幅の広い方であり、今日の美術における問題点において共有するところが多く、私は自分からの希望で、授業のわくの中に福山さんとの対談も組み入れてもらう事にした。福山さんは既に私の作品(オブジェ・版画)も数点コレクションされており、今回、授業の参考にと持参したオブジェも即座に気に入られてコレクションに新たに加えて頂いたのは、望外の喜びであった。福山さんとは、長いおつき合いが今後も続いていくという嬉しい予感が私にはある。ともあれ、今回の北海道行は、充電となる得難い体験であったといえよう。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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