月別アーカイブ: 5月 2014

『ローマ、そして龍馬への旅』

ローマのテルミニ駅近くに宿をとり、ローマ時代の遺構と、ルネサンス・・・・そしてバロックのほとばしるパッションを浴びるようにして、私はローマの街を駆け巡った。今回の旅は、ミケランジェロベルニーニを中心に置き、ヴァチカンでは、望外にルオーフォートリエの近代絵画の秀作も見ることが出来た。かくして、都合12日間のイタリアの旅は終わり、私は東京へと戻った。今回の充電がイメージという形を取るには、今しばらくの時間を要するであろう。

 

コレクターの三宅俊夫さんの企画で、私の版画・オブジェを含む三宅さんのコレクション展がふくやま美術館で開催され、講演を頼まれていた私は久しぶりに広島を訪れた。事前に三宅さんから、講演のテーマを小さく10くらいに分けて頂いていたので話がテンポ良く進んだ。聴講者の方々はもとより美術が大好きな方ばかりなので、こちらも熱が入る。以前に、広島の画廊で個展が開催された時も、多くの方が来られ講演は盛況であった。県民性としての知的好奇心が強いのであろうか、私も引きずられるようにして熱く語ったのであるが、本当に楽しく、かつ貴重な体験であった。

 

夜は三宅さんのご好意で尾道に宿をとった。やはり私の作品を多く収蔵しておられる小塚一昭さんが、講演を聴くためにはるばる長野から来られており、翌日の行動を一緒にする事になった。翌朝から三宅さんに案内して頂き尾道の風情を楽しんだ。瀬戸内海の海を前に尾道の街は横に長く在り、その背後に急な斜面の山が高くそびえている。その様を志賀直哉が小説の中に記している。

 

 

「・・九月末の或る日、五百マイルばかりある瀬戸内海に沿うた或る小さい市(まち)へ来た。(略)・・・・景色はいい所だった。前が展けて、寝転んで居て色々なものが見える。すぐ前に島がある。其処に造船所がある。朝からカーンカーンと槌の音をさせている。その声が市の遥か高い所を通って直接に私のいる所に聞こえて来る。」

 

『暗夜行路』を執筆した旧宅が、山の中腹に今も残っている。この旧宅を志賀直哉の文学ファンは数多く訪れているが、その書斎は入口から見るだけで、部屋に上がる事は出来ない。しかし、私は何故か上げて頂き、志賀が執筆した机の前に座り、その窓から、眼下の海へと広がる尾道の眺望を楽しんだ。しかし、何故上げてもらえたのか!?・・・その理由を、この旧宅でガイドをされているオバちゃんに聞くと、時折、妙なオーラを持った人が訪ねてくる事があり、そういう時に限って何故か書斎に上げて、「志賀直哉」をより体感してほしくなるのだという。「そうそう、ちょっと前にはこの人達にも見てもらったのよ」といって、来館者の芳名帳を持ってきて見せてくれた。そこには、(いとうせいこう)(みうらじゅん)の二人の名前が記されていたのには笑ってしまった。私は見せて頂いた御礼もあり、そこで販売している『暗夜行路』を一冊買い求めた。すると頼んでもいないのに、(これは記念です!!)と云われ、前と後のページに真っ赤なデカいスタンプを赤々と押されてしまったのであった。これもオバちゃんの好意の表れなのであろう。その後、車で浄土寺に行き、小津安二郎の名作『東京物語』のラストシーン、日本映画史上、最も美しいラストシーンと云われる、原節子笠智衆が佇んだ場所を、寺の人に尋ねて確認することが出来た。壁が出来て、灯籠は別なものに変わったが、眺望は同じく、そこには切ないまでの〈永遠〉が、今も息づいているように思われた。

 

 

午後は三宅さんの車で、鞆の浦(とものうら)を訪れた。万葉集大伴家持たちが歌い、近代では谷崎潤一郎が恋の歌を詠んだ風情ある港町である。若い人にはジブリの宮崎駿が「ポニョ」の構想を練るために1ヶ月間、滞在した場所としても知られるが、私には何といっても龍馬が暗殺される7ヶ月前に、この地の船宿の「桝屋清右衛門」宅屋根裏部屋に潜伏し、紀州藩を相手に作戦を練った〈いろは丸事件〉の地として心が騒ぐ場所である。しかし伏見の寺田屋(寺田屋は焼失し、今の建物は復元)へ行く人は多いが、この地まで訪ねてくる人は意外に少ないらしい。龍馬が実際に潜んでいた、そのままの部屋が完全に残っているのは、実はここだけなのであるが……。龍馬がここに潜伏したのは、紀州藩から暗殺される危険性が高かったからであるが、部屋に残るもう一つの小さな隠し部屋・隠し階段を見ていると、その危機的な緊張感がリアルに伝わってくる。龍馬はここで、妻のおりょう宛に一通の文を書いており、その写しが、実際に書かれた机の上に展示されている。文を読んで私は笑い出してしまった。おりょうを安心させる言葉の後に、〈ところで、あなたはいまごろどうしているかしらん・・・・〉というラブレターの内容なのである。

 

 

それを読んでいると、龍馬に扮したガイド役の一人の若い女の子が部屋に入って来た。桔梗の紋入りの羽織・袴・そして刀。完全に龍馬になりきっている。刀を見せてもらうとズシリと重い。ガイドをするにしても大変だろうな・・・・と思ったが、どうも本人はカッコいいと思っているようである。私は調子に乗って、おそらく龍馬通でも知っていない或る逸話を教えてあげた。「京都の霊山墓地の龍馬の墓所には、中岡慎太郎と藤吉(一緒に殺された)の墓もあるが、実はもう一人の人物の骨も密かに埋められているけれど・・・・それが誰か、さぁ、わかるかな?」という問いをすると、そのなりきり龍馬の女子の顔が硬直した。「・・・・それは、おりょうの骨だよ。」と話すと、周りにいた数人の見物人たちもいっせいに私を見て、「・・・・それマジッすか!?」と言って、話に乗って来た。「本当だよ。おりょうの遺言を妹夫妻が実行して明治30年代に一部を分骨しているわけ。しかし状況を考えて墓は立てていないけどね・・・・」と私は語った。「仕事柄、龍馬の事はいろいろ勉強したけれど、今の話が一番インパクトがありました!!」と、その女の子は語った。階段を下りていく私に、その龍馬なりきりの女子が、低く野太い声で「あっ、ありがとうございましたぁ!!」と云ったのは面白かった。

 

江戸時代からの常夜灯、三階建ての女郎部屋、そして夕暮れの波ひとつ無い夢のような瀬戸内海の海の広がり・・・・。一泊二日の僅かな時間ではあったが、多くの想い出が残った広島の旅はかくして終わり、私は東京へと戻って行った。これからは、6月7日から富山の「ぎゃらりー図南」で開催される個展の準備が待っているのである。

 

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『滞欧日誌—ヴィチェンツァ ・フィレンツェ』

旅の続きである。ジェノバからミラノへと戻り、次の列車でヴェローナへと向かう。ここはフィレンツェへの直行列車が発つ場所であるが、ヴェローナのホテルに荷物を預けてすぐに、ヴィチェンツァへと私は向かった。

 

ヴィチェンツァは、ルネサンス後期の建築家パラディヨ(1508~1580)の建築物が多く遺り、「陸のヴェネツイァ」と称される“世界遺産”の街である。ここに来た目的は二つあった。一つは20年前に訪れて以来、何故か私のイメージの原点とも云うべき存在にこの街はなってしまったのである。とにかくヴィチェンツァの街の事を想い浮かべると、イメージが次々と生まれてくるのであるが、その理由が何なのか・・・自分でも解らない。その理由を突き止めに来た事が一つ。今一つは、キリコの形而上絵画の着想が、ここに遺るパラディヨ作の「オリンピコ劇場」という異形な建築物(誇張された遠近法を持っており、それはキリコの絵の舞台そのものを思わせる。)と深く関わっていると推測し、その裏付けを取りに来たのである。キリコ開眼の秘密に気付いているのは、私と画家のダリだけであるが、その詳細については、6月下旬に求龍堂から刊行される私の本に詳しく記しているので、それを御覧いただきたい。まるで完全犯罪の犯人(キリコ)を追いつめていくような内容になっている。乞うご期待!!

 

ヴィチェンツァの滞在は5時間ばかりであったが、この白く美しい街は20年前と変わらず私を優しく受け入れてくれた。そして再びの、そして、また新たなるイメージの充電になった。この先の街にはヴェネツィアがある。しかし私はヴェローナへと戻り、翌日フィレンツェへと旅立ったのであった。フィレンツェへ着いた時、この街には珍しい霧雨が降っていた。タクシーでホテルへと向かう。着いたホテルは16世紀後半に建てられたホテル。つまりミケランジェロの晩年時に建ったホテルで、街の中心に在るシニョーラ広場に面した路地を入った所に在る。夜、ホテルの窓からそのシニョーラ広場を眼下に見る。ボッティチェリの内面をも狂わした怪僧サボナローラが焼かれた場所が、その眼下に見える。その広場を透かし見れば、ダ・ヴィンチやミケランジェロの姿が今も現れそうなスリリングな気持ちにさせる光景である。

 

その広場を右に曲がればすぐにウフィツィ美術館が在り、その先にはアルノ河の流れがあり、ポンティ・ヴェッキオの橋が昔日のままに在る。私は自著の『「モナリザ」ミステリー』(後に文庫化されてタイトルは「絵画の迷宮」)の中で、「・・・窓外にアルノ河の夜が見える。先程見たヴェッキオ橋の美しい姿は、今は水面の黒と溶け合って、闇の沈黙の中にその姿を沈めている。対岸に明滅する人家の灯りが朧にゆれて、僅かに私の郷愁を突いてくる。・・・」と書いたが、「モナリザ」を迷宮の絵画の極に見立て、ひたすらにダ・ヴィンチの足跡を、まるで永遠に解けない完全犯罪の真相を追うように執筆に取り組んでいた、その当時が懐かしい。フィレンツェもまた好きな街であるが、滞在は僅かに二日間しかなかった。そして、旅の最終地であるローマへ旅立った。ローマは過去二回訪れているが、二回とも思わぬアクシデントに出会っており、私にとってローマは鬼門の場所であるが、それゆえに魅かれる所でもある。私はその二回のアクシデントから想を立て、銅版画集『ローマにおける僅か七ミリの受難』を制作し刊行した。その版画集は、刊行直後から人気があり、二ヶ月くらいで早々と完売となってしまった。完売の記録としては最も早いのではないだろうか。ヴィチェンツァ・ローマ・・・、そしてかつて訪れたパリやロンドンでの日々。そこで実際に起きた事件や体験を基に、それを虚構に立ち上げているのであるが、私を支持されるコレクターの方々は、自らの直感を基に、私が作品に暗示した〈謎〉のごときものの秘めた物語性を鮮やかに汲み取っているのかもしれないと思う。私という作者は謎の発信者であり、それを見て、更にはコレクションされる方々は謎の受信者である。そしてそこにはイメージにおける共犯関係というものが成り立ってくる。「コレクションするという行為もまた創造行為である」と強く語る私の根拠がここに在るのである。

 

 

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『滞欧日誌・ジェノバ』

私は子供の頃から目敏く、ちょっとした物音でも目が覚めてしまう。頭もすぐに切り替わる。侍のような心構えと云えば響きはいいが、要するに眠りが浅いだけである。5日の未明であるが — 瞬間ピシッという、何かが裂けるような音で目が覚めた。しかし、それだけである。ただその直後から言いようのない不穏な気配が漂っているのを覚え、薄目を開けたままでいた。それから1時間ばかりが経った頃、やはり、やはり、敵はやって来た!!

 

・・・・かなり大きな地震である。すぐにTVをつけて見ると、東京千代田区が震度5弱、私の所は4であった。(汝にとって最も親しき隣人の名、— それは死である)という自明な事は解っていても、やはり急襲は少し困る。外圧による死ではなく、内圧による、得心を覚える死でありたいと願っている。しかし、そう上手く事が進まないのもまた事実。せめて今日は、生きている事の証しとして、旅日記のPART②を書くことにしよう。

 

ミラノから列車でジェノバへ行く。この地は美しい港町で趣があり、私もオブジェで『ジェノバの朝』『ジェノバから届いた三通の手紙』と題した二点の作品を作っているが、この日の目的は美しい港町ではない。その逆の方角にある山間に作られた荘厳なる墓地・スタリエーノ(staglieno)を訪れるのが目的なのである。

 

15年以上前に、バブルの崩壊と入れ替わるように日本でメメント・モリ(死を想え)がブームとなり、栃木県立美術館と町田市立国際版画美術館でも『メメント・モリ展』が開催されて話題となった。私もオブジェを中心に出品しているが、しかし、普段は全く死を直視しないこの国において、メメント・モリは一過性のものに過ぎないが、西欧の美術史はまさにメメント・モリの変奏の歴史であるとも云えるであろう。

 

かつて、雑誌『ブルータス』の編集長であった及川哲也氏は、氏の独自な感性で、このスタリエーノ墓地に〈メメント・モリ〉の極みを見出し、日本人として最も早くこの墓地を訪れ、取材し、撮影をして写真集も刊行している。私も現地の及川氏から手紙を頂き、この地で撮った唯美的で不気味な写真も送って頂いた。しかし、不難な旅行ガイドブックには今も載っていない。このスタリエーノを私が後日訪れようとは、その頃は予想もしていなかった。(唯、頭の隅には何故か、ひっかかっていたが・・・・。)

 

墓地彫刻(墓に側して彫られた記念碑的な彫像)は、イギリスやフランスにはほとんど無く、何故か北イタリアに散在しているが、このスタリエーノ墓地はその中でも突出して数が多く、また質の高い彫像が多い。私がこの地を訪れるのは、もちろん今後の製作の為の充電であるが、それにしても、バロック・ロココ・ルネサンス様式の異なる彫像が、中心の墓地を囲む薄暗い廻廊の中に延々と続く様は、荘厳を越えてやはり不気味である。訪れた日はイースター(復活祭)であったので、墓参客が数人ばかりいて正直ホッとしたが、平日の無人の日であったならば、さすがに好奇心の強い私でも嫁入り前の乙女のように身を固くしたであろう。〈日本人の美術家・ジェノバの墓地で刺殺さる!!〉も面白いが、まだもう少しは生きていたい。それ程までに、この墓地の面積は広く、かつ迷宮のように入り組んでいる。

 

私が訪れたのは正午近くであったが、約四時間ばかりの時を私はこの墓地で過ごした。薄暗い廻廊に沿って次々と在る大理石の彫像の意匠に見入っていると、彼方でパタパタという乾いた羽音が聞こえて来た。全くの静けさの秩序を唯一乱すその音は、幾羽もの鳩の飛翔する姿であった。鳩は何かに怯えたように、時折、その群れが私の頭上をかすめ飛ぶ。その怯えの源を辿っていくと、そこには、地上の墓石を鋭く突き刺す天窓からの強い光があった。雲間をぬって、時折強い光が、この暗い廻廊の墓石の一点を強く刺すようにして天上から差し込んでくる。それに怯えた鳩たちが、光が強く差す、その度ごとに飛び立っているのである。それは、鳩の姿を借りた死者の魂の暗い動きとも見て取れた。やはり、この場所には安逸ならざる〈気〉が確かに蠢いている。私は墓石にはめられた夥しい数の死者の様々なる生前の顔写真を見ながら、それを実感したのであった。

・・・・私はこの日に体感した、鳩の翼の異様な羽音、そして光、幾何学的なこの墓地の全様・・・それらの全てを貴重な詩的体験として享受した。体験は時の経過と共に沈潜し、間違いなく昇華され、そして必ずや作品として現れる事を、私は確信した。この日のジェノバ行で得た物は、予想以上に大きいものとなったのであった。

 

《お知らせ》

今月の13日(火)から18日(日)まで、広島のふくやま美術館1Fのギャラリーにて、尾道在住の画廊主にしてコレクターの三宅俊夫さんの企画で、『版と表現の実験展 ― 視えるものの奥にひそむもの』が開催されます。私の作品のコレクションもかなりな数を所有されておりますが、同展では、駒井哲郎池田満寿夫加納光於横尾忠則瑛九 … と云った方々の作品も展示され、版画という方法論でしか表現出来えないイメージの形を検証的に問う意欲的な展覧会になっています。この展覧会を記念して、私の講演が17日(土)の1時から3時まで当美術館の2F会議室で開催されます。小津安二郎の『東京物語』の舞台でもある当地は、私の両親も一時住んでいた地であり、情緒に充ちた水と光の豊かな所。詳しくは、www.artarekore.comを御覧ください。

 

 

掲載した画像は全て、墓地で配布された資料から転載しております。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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