月別アーカイブ: 9月 2014

『10月の個展を前にして』

前作の『モナ・リザ」ミステリー』に続き、拙著『美の侵犯 ―蕪村 X 西洋美術』が、日本図書館協会からの選定図書に選ばれた。全国に数多くある図書館という啓蒙の場に本が置かれる事で、いろいろな人に読み継がれていく事は意味深い事である。出来れば若い世代にも広く読んで頂きたいものである。

 

さて、拙著の全30篇であるが、読まれた方は、そこに登場するほとんどの芸術家たちの幼年期に、後の表現者へとなる伏線が潜んでいる事に気付かれたかと思う。………… 俳人の与謝蕪村は私生児として生まれ、蕪村の幼い時に、母は狂ったままに入水して自死を遂げている。同じく私生児であったダ・ヴィンチは、4歳の時に母と生き別れ。マグリットは10代前半に母親が入水自殺。ダリは生地に近いスペイン・カダケスの風景と幼年時代に固執し、コーネルも失った幼年期の記憶に固執、エルンストも幼年期に遊んだゲルマンの黒い森をイメージの原郷とし、クレーも幼年期の庭の記憶を、万象を映し出す原器とし、キリコも少年時に見たパラディオ(16世紀)の建築物にイメージの原点を見出し、…… ミケランジェロの遺作もまた、マリアとキリストの主題を借りながらも、そこには、6歳の時に亡くなった生母と自分の合体像を刻みこんでいる ………… etc。

 

かくして見ると、私が時々引用するピカソの言葉 ― 「芸術とは幼年期の秘密の部分に属するものの謂である。」という言葉が、いかに表現の本質に言及したものであるかという事に納得し、得心がいくのである。

 

私は銅版画のみに専心していた20代から、思えば独自的な考え方を持っていたかと思う。その契機になったのは、クレーが日記に記した〈私は版画家だけにはなりたくない。〉と、単眼を持った表現者に落ちていく事の危険を痛烈に自戒した言葉に接した事が大きい。…版画に関わる者たちが皆、判で押したように、既存の版画技法、単眼の狭い認識、…つまりは批評意識を欠いた版画家になっていく中で、私は「銅板という硬質な素材を通してしか立ち上がらない表現をしたい!!」という自覚を強く持っていた。故に私は自分の事を版画家だと思った事は一度もなく、それが自分の表現を独自的にして来たように思われる。そしてオブジェやコラージュを作り出すようになってからは、「人間の記憶を揺さぶる装置」としてのオブジェやコラージュを作り出し、美術という概念を超えて、「視覚による詩の表現」の顕在化を願い、特に最近はそれを強く意識して制作を続けている。個展会場における数十点もの作品。それを人々はじっくりと見ながら、自分の中の〈何か〉と共振したかのように、作品を選びコレクションしていく。それは私の作品を通して、その人たちが、自らの記憶の原郷に在る、切ないまでのノスタルジアとの〈鏡〉に映すがごとき出会いであり、コレクションされた後に、その長い秘めやかな対話が成されていくのである。作り手だけでなく、人々もまた内面に〈詩人〉としてのもう一人の自分を有しているのである。そして、私はその出会いを演出する人間なのである。冒頭に記したように、表現の本質が〈幼年期の秘密の部分に属するもの〉であるならば、私の〈人間の記憶を揺さぶる装置を作っている〉という自覚は、極めて根元的なものであるという確信へと繋がっていく。以前に刊行した拙著『「モナ・リザ」ミステリー』を書いた時は、ダ・ヴィンチの思考を通して〈暗示〉というものの強さと重要さを、私は彼の諸作や手稿から学んだが、この度の『美の侵犯 ―蕪村 X 西洋美術』では、その登場人物たちの作品背景やピカソの言葉を通して、私は自分の認識と方法論が、何ら間違ってはいないという事を改めて確認する事となったのであった。

 

メディアを通しての美術の今日の状況、その舞台裏の内実の不毛さをよく知るだけに、私にはそれらが表象のぺらぺら、幻のうたかた、対岸の小さな風景として霞んで見える。まぁ、つまりは一度しかない人生をどう生きるかに尽きるのであるが、少なくとも私は表現に関わる者として ………… かなり醒めている、と思う。この醒めた視点を与えてくれたのは、若い時分に読んだ小林秀雄の『様々なる意匠』であった。それと前述した『クレーの日記』。ちなみに今、私が読んでいるのは、拙著を刊行した求龍堂が昭和4年に出した『ドラクロワの日記』である。「『ドラクロワの日記』は長い間、私の枕頭の書であった。」と、三島由紀夫は日記で告白しているが、醒めた孤独者のみが享受出来る馥郁たる精神の豊饒を何よりも伝えてくれる事に於いて、この本は実に素晴らしい。私が持っているこの『ドラクロワの日記』は一部の研究者を除いては、今や版元の求龍堂にも無い絶版となって久しい貴重本である。私はこの本を求めて二十五年以上が経ち、ようやく最近、幸運にも入手出来たのであるが、5年ばかり前にパリで再版した時は、たちまちベストセラーになった本である。私はこの再版を求龍堂に度々薦めている。もし刊行の際はぜひとも一読をお薦めしたい本である。

 

さて、10月22日から日本橋の高島屋で開催される私の個展も、いよいよ会期が近づいて来た。既にコラージュは50点以上完成し、イタリアで撮影した写真の現像が終わり、今は、オブジェの制作に集中している。私は自分のオブジェを、「立体犯罪学」とも別称で名付けている。立ち上がるポエジーと、何やら不穏な、秘められた物語の気配。その両立と、完成度の高さを必ず入れるという、アクロバティックな試みの日々が続いている。

 

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『書評という反響』

七月に刊行した拙著『美の侵犯 ― 蕪村 × 西洋美術』の書評が、この九月に入ってから各紙・誌で目立って書かれるようになって来た。作者として何より嬉しい事である。先月は共同通信社から書評が各紙に配信され、産経新聞では美術評論家の中村隆夫氏が書かれた。そして九月は美術新聞や雑誌に載り、『現代詩手帖』、来月は『婦人画報』『俳壇』などに書評が載る予定である。わけても『俳壇』は俳句に関わっている全国の俳人たちが読む本なので、私としても興味深い。『俳壇』に長文の書評を書かれたのは、短歌の第一人者である水原紫苑さん。評論においても優れた慧眼の人であり、私は今から楽しみにしている。

 

今回のメッセージでご紹介したいのは、今月の14日に東京新聞の書評欄に、俳人で文芸評論家・また、出版社の深夜叢書の社主でもある齋藤愼爾氏が書かれた拙著への書評である。齋藤氏の人と作品については、吉本隆明倉橋由美子・相澤啓三・春日井建・宗左近・谷川雁・五木寛之・久世光彦…といった鋭い論客諸士が興味深い論考を書いているが、齋藤氏は私がその存在を強く意識している《眼の人》である。この本を出すにあたって、最も読んで頂きたい人として考えたのは、前述した水原紫苑さん、そして齋藤愼爾氏と久世光彦氏であった。亡くなられた為に、久世さんに読んで頂けないのは本当に残念であるが、この御二人に読んで頂き、しかも書評まで書いて頂けるというのは全く想像だにしていなかっただけに、今、私は望外の喜びと、強い手応えの中にいる。齋藤氏は今月末に出る『出版ニュース』でも書評を書いて頂いた。こちらは長文の書評ゆえに、私は今、嬉しさと共に、それを読む事の強い緊張の中にいる。

 

 

 

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『木田元さんを悼む』

哲学者として第一人者である木田元さんが、この晩夏に逝かれた。享年85歳であるが、生涯現役の人で、最近の『文藝春秋』9月号誌上でも徳岡孝夫氏と対談されており、「あぁ、木田さん、お元気だな…」と思っていただけに、その突然の逝去の知らせに、ただただ驚いている。そして私の手元には〈北川健次様 木田元〉と達筆で書かれた献呈本『最終講義』(作品社刊)があるが、それが形見となってしまった。

 

木田さんは拙書『「モナ・リザ」ミステリー』の中にも実名で登場する。私がダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に関する本を執筆中に、直感から推測、そして実証へと移る段階で推論の壁にぶち当たってしまった時、私を京都大学大学院教授のS氏に会えるように段取りを計ってくれたのが木田さんであった。私は仮説を実証へと形にしていく為には、唯その為だけに必ず、その専門の詳しい人に会って裏付けを取る。机上の空論ではなく、刑事が「現場百回」を実行するように、自説の〈裏〉を必ず取るのが私の執筆における流儀なのである。私の、その実証主義を木田さんは、〈面白い奴め〉と思われたのか、この国における発達心理学の専門家としてはこれ以上はない最高の人と話をする機会を作って頂いたのであった。そして京大でS氏と納得がいくまで話し合えた事で、拙書の『モナ・リザ』の本は、予期せぬ人物、神戸の児童連続殺傷事件の「少年A」や三島由紀夫、そしてダ・ヴィンチを、脳の『扁桃体』をめぐる不気味なトライアングルとして絡めて展開する事になり、内容に唯の美術書の域を超えた膨らみが出来たのは、これ全て木田元さんのお陰といっても過言ではないのである。

 

最近、刊行した拙書『美の侵犯―蕪村X西洋美術』も、作品制作と並行しながら、蕪村の俳句の解釈、西洋美術の諸作の〈裏〉を徹底的に詰めながら執筆を続けたものである。そこを論者の中村隆夫氏(美術評論家)は確かに見て、先日掲載された産経新聞の書評でも、その点に言及し、書評の最後に「蕪村の句に対する読みの深さと鋭い直感力によって結びついた作品との意外な関係性の発見、それを納得させるための論理にぶれはなく、しかも随所にちりばめられたエピソードがスパイスとして利いている。(略)本書は蕪村の句に親しむことが出来るのはもちろんだが、美術家としての北川健次の思考回路の有り様が端的に示されていて興味深い。推理小説を読み進めていくようなスリリングな本である。」と書かれている。木田さんにもぜひ読んで頂きたかったと思っているが、これはもはや、仕方のない事である。

 

4月のイタリアの撮影の旅から帰国後、私は今秋の10月22日~11月10日まで、日本橋の高島屋美術画廊Xで開催される個展『Stresaの組鐘―偏角31度の見えない螺旋に沿って』の為の 制作に春も夏も集中して来た。アトリエでの孤独な作業に華やぎがある時は、言うまでもなく、手応えのある作品が出来た時である。今日私は、『ロココ ― あるいは天球の鳥籠』という作品を作った。コラージュからオブジェ、そして別な表現法へと、試みの日々がまだまだ続いていく。

 

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