ダ・ヴィンチ

『暗いトンネルを抜けると、そこは……』

①……最近まで使われていた「地球温暖化」という言葉が終わり、新たに「地球灼熱化」という言葉に変わった事をご存じだろうか?……灼熱、この言葉は凄い。もはや万事休すである。この言葉による警告を発したのは国連総長との由。……まぁ言葉がどう変わろうと、人類自滅のカウントダウンはとうに進んでいる事に変わりはない。数年前のブログに書いたが、それは人々の楽観的な予測を越えて加速的に、かつ容赦なく早まっているという事である。

 

……「永久凍土」と云われたシベリアやアラスカの広大なツンドラ気候地帯では、今、ボトボトと溶けた大量の水が流れだし、もはや停める術はない。……ダ・ヴィンチが、最初は「人類は火で全滅する」と手稿に書き、後に火を水に修正して大洪水の素描をとり憑かれたように描いたが、火を灼熱と解せば「人類は火と水によって間違いなく全滅する」と終にはなるのであろうか。核の外圧やAIによる人間の内面の家畜化を視るより早く、大洪水と灼熱の一気襲来は早晩に来る具体的なものがある。

 

 

②先月末に不覚にもコロナに感染し、陽性がわかった夜には、熱が40度近くに上がり危なかったが、二年前に開発されたラゲブリオカプセルという重症化を防ぐ新薬を処方されたお陰で、翌日は一気に平熱に下がり、喉の炎症も忽ち治まった。しかし四日間は静養して外出を自粛したので、本(主に怪談話)ばかり読んでいた。その時は泉鏡花、小泉八雲ではなく、岡本綺堂の『影を踏まれた女』、内田百閒『サラサ―テの盤』『東京日記』、そして川端康成の短篇集等を読んで過ごした。拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)でも書いたが、『サラサ―テの盤』を原作にした映画が鈴木清順監督の名作『ツィゴイネルワイゼン』である。直接的な怪奇物語でなく、鎌倉の夜の闇から派生した妖しい気配が通奏低音のように流れる不思議な映画で、この世とかの世が交わる怪異譚である。

 

撮影場所は八幡宮、小町に在るミルクホ―ル、切通し、暗い谷戸などを上手く取り込んでいた。映画を観て数ヵ月後に、映画の中で病院として使われていた実在の建物(湘南サナトリウム)が老朽化で解体されるという報を新聞で知り、その翌日は、私は早々と、鎌倉と逗子の間の小坪に在るそのサナトリウムの建物の中にいた。……サナトリウムは閉鎖されていたが、まだ一部は外来患者の往診を行っていた。……アポ無しで訪れた私は「○○大学の建築科の助手ですが、この建物が解体される事を新聞で知り、拝見させて頂きたくやって来ました」と言うと、北杜夫風の温厚そうな院長が「いいですよ。ゆっくりご覧下さい」と許可がおり、私は廃校になった小学校のような広大な建物の中を観て廻った。かつては多くの結核患者で埋まっていた建物の中は今は無人で、渡り廊下を歩くと鎌倉と逗子から吹いてくる海風が涼しかった。

 

私はこのサナトリウムで、今でも信じがたい光景を見て唖然とした事があった。……或る病室の真ん中で蝶の死骸を見たのであるが、蝶の死骸は十羽ばかり(種類は大小様々)、それが実に綺麗な一直線に並んで死んでいたのであった。……正に、このサナトリウムでロケをした『ツィゴイネルワイゼン』の映画の画面そのままに、眼前に耽美極まる幻のような光景が、あたかも私を待ち受けるようにして在ったのである。…………「死者も夢を見るのか?」「腐りかけがいいのよ。なんでも腐って……」……記憶に残っているその映画の幾つかの台詞が甦って来た。……そしてその時、私は思ったのであった。「はっきりと見える幻もまた在るのである」と。

 

 

……次に読んだのは『川端康成異相短編集』(高原英理編・中公文庫)。本中の『死体紹介人』『蛇』『赤い喪服』……等は再読であるが、その中の『無言』という短篇は初めてであった。……ノ―ベル賞受賞後の川端は全く小説が書けなくなってしまったが、その後の自分を予言するような小説の出だしはこうである。

……「大宮明房はもう一語も言わないそうである。六十六歳の小説家だが、もはや一字も書かないそうである。……」からの出だしを読み進めていくと「!?」と驚いて、本を落としそうになった。……先ほどの湘南サナトリウムの話の続きを思わせる事が書いてあったのである。

 

……鎌倉と逗子の間の名越切通しの傍に小坪トンネル(名越隧道)という、多くの人々が霊を視てしまうという、あまりにも有名な、いわゆる心霊スポットなるものがある。実は鎌倉の長谷に住んでいる川端康成が興味を持ち、深夜にタクシ―をその場所に停め馴染みの運転手と共に数時間、霊の出現を待った事があった。長時間待った後に「やっぱり出ないね……」と川端が話すと、運転手が震えながら「先生、先生の横に……います!!」と語ったという話は有名である。川端には見えなかったが、運転手は女が川端の真横に座っているのがありありと見えたのだという。

 

この話を聴いた私は、早速、小坪トンネルへと赴いた。以前に行った湘南サナトリウム(結核患者が数多く亡くなったという)は既に無くなっていたが、そこから近い所に、そのトンネルはあった。

訪れたのは夏の午後である。トンネルは二つ並んで在るが、その向かって左側が件のトンネルである。中に入り端を歩いて行くと、背後に強い「気」を感じたので振り向くと、何とまさかの黒塗りの霊柩車と遺族を乗せた車が2台、静かに私の横を抜けて行くのであった。

 

そして先方出口の陽射しの明るい所を抜けると、霊柩車は左上へと上がるのが見えた。(……坂が在るのか?)……霊柩車がこのトンネルの上に何ゆえにと思っていると「後に付いて来い!」という、誰かが私を喚ぶような気がして、私は好奇心のままに霊柩車の後から坂を登って行くと、そこは古びた暗い火葬場であった。川端の小説には、こう書いてある。

 

「……鎌倉から逗子へ車でゆくには、トンネルを抜けるが、あまり気持のいい道ではない。トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂もある。夜中に火葬場の下を通る車に、若い女の幽霊が乗って来るというのだ。」

 

……小説ではトンネルの手前に火葬場がとあるが、実際はトンネルの真上、名越切通しの近くにそれは在る。……川端は小説の中で馴染みの運転手に幽霊の実体験をいろいろ訊く語りが続き、「どのへん?」「このへんでしょう。逗子からの帰りで、空車ですね」「人が乗ってると、出ないの?」「さあ、私の聞いたのは、帰りの空車ですね。焼き場の下あたりから、ふうっと乗るんですか。車をとめて乗せるわけじゃないんだそうです。いつ乗るかわからない。運転手がなんだか妙な気がして振りかえると、若い女が一人乗ってるんです。そのくせ、バック・ミラアにはうつってないんですよ。」

 

…………二人の会話はなおも続くのであるが、運転手の話によると、見たのは一人二人ではないという。そして女の霊は決まって逗子方面から現れ、鎌倉の町へ入って、ほっとするといなくなるのだという。

 

さて、私は先にこの小説の冒頭で、後の川端自身、つまり小説を書けなくなった自身の姿を暗示・予言していると書いたが、もう1つ、暗示している事がある。……この『無言』という小説が書かれたのは昭和二十八年の『中央公論』。川端54歳の時であり、19年後に73歳で逗子マリ―ナの自室でガス管をくわえたまま自殺するのであるが、その川端を焼いた斎場が、このトンネルの真上に在った、件の火葬場なのであった。今では綺麗でモダンな斎場に変わっているらしいが、私が見た時は、昼なお暗くて哀しい感じがする、惨めな感の漂う、つまりは川端康成の孤独な生涯にあまりにも相応しい火葬場であった。

 

……この小坪トンネルの幽霊が出るという話。川端が書いた時から逆算すると少なくとも80年以上も前から目撃者がおり、語り続けられていた事になる。……このトンネルの近くには古い墓地や史蹟が多く、また私が探訪した、死の病と云われた結核患者も数多くいた湘南サナトリウムからも近い。……こう書いていると、秋の寂しい時にまた行きたくなってしまうから、困ったものである。……コロナ感染後の静養には、もっと力が入ってメンタルに良い、例えば司馬遼太郎あたりが良いのであるが、つい手がそちらの方向の小説へと向かってしまう私なのであった。

 

 

 

 

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『……ブログの連載、十二年目に突入!!』

……ふと来し方を思い返すと、このブログの連載も12年近く続いている事になる。……早いものである。今まで『未亡人下宿で学んだ事』や名優勝新からこっぴどく説教された『勝新太郎登場』など、たくさんの自称名作のブログが生まれて行き、未知の人達とのご縁も増えていった。ネットの拡散していく力である。……多くの読者に読まれている事はなによりであるが、時折、意外な角度からオファ―が来て驚く事もある。

 

……以前のある日、電車に乗っていると突然フジテレビのニュ―ス番組制作部から電話が入り、『モナリザ』の古い写し絵が発見されたので、今夕、ダ・ヴィンチについて番組の中で自説の推理を自由に喋って欲しいという話が飛び込んで来た。訊けば私のブログを毎回読んでおり、また私の本の読者でもあるという。……この写し絵(推察するに弟子のサライが描いた)に関しては私も興味があったので快諾して自説を喋った。……また先日は、TOKYO・MXTVから連絡が入り、これもまたダ・ヴィンチについて、樋口日奈(乃木坂46)やAD相手に番組の中で喋って欲しいので、市ヶ谷のソニ―ミュ―ジックビルに来て欲しい……という突然の話。これは私の日程が合わず、代わりに知人のダ・ヴィンチ研究家のM氏を紹介したが、さぁその後どうなったであろうか……。

 

……また、最近、二つの出版社から、私の今までのブログから抜粋してまとめた本を刊行したいという話を各々頂いたが、これは私のブログに対する趣旨とは異なるのでお断りした。樋口一葉日記や作家達の戦中日記と同じく、私的な備忘録―生きた証しであり、また読者の日々の気分転換になれば……という思いで書いているので、このままが一番いいのである。

 

 

しかし、そういった角度とは違う、このブログへの反響といったものもある。……というのは、昨年に刊行した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』を私のサイトで購入出来る方法を載せたところ、購入希望者が一時期ほぼ毎日のようにあり、合わせて200冊以上、署名を書いてお送りする日々が続いたが、さすがに最近は落ち着いていた。

 

……しかし、何故か2週間くらい前から再燃したように詩集の購入を希望される方からの申し込みがまた入るようになり、この2週間で新たに40冊ちかい数の申し込みがあり、詩集の見開きに黒地に銀の細文字でサインを書き、相手の方の署名・日付も書いてお送りする日々が続いている。

 

……しかしなぜ突然、詩集の購入希望者が再燃するように増えたのか知りたくなり、申し込み書に連絡先が記してあるので、失礼ながら謎を解きたくなり数人の方に伺った。……その理由はすぐにわかった。前回のブログに載せた『ヴェネツィアの春雷』(『直線で描かれたブレヒトの犬』所収)の詩を読まれて気に入り、また併せて書いた私の詩に於ける発想法が面白かったというのである。……現代詩はわからない、ピンと来ないと思っていたが、こと私の詩に関しては、その言葉の連なりに酔う事が出来、自分の中から直に自由なイメ―ジが沸き上がり、もっと読んでみたくなったのだという。……かつての中原中也や宮沢賢治がそうであったように、書店を通さない直に購入希望者を募るという方法はアナログ的ではあるが、よりその人達とのご縁が生まれる可能性に充ちており、私はこの方法が詩集のような少部数の出版には合っていると思う。

 

 

 

 

 

……では最後に、第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』に入っている詩の中から、三点ばかり、今日はこのブログでご紹介しよう。(詩集には八十五点の詩が所収)……先ずは、前々回のブログに登場した、私が泊まったヴェネツィアのホテル『Pensione Accademia』の真昼時の裏庭に在った日時計を視ながら着想した詩。

 

 

 

『アカデミアの庭で』

日時計の上に残された銀の記憶/蜥蜴・ロマネスク・人知れず見た白昼の禁忌/水温み 既知はあらぬ方を指しているというのに/ヴェネツィアの春雷を私は未だ知らない

 

 

『光の記憶』

光の採取をめぐる旅の記憶が紡いだ仮縫いの幻視/矩形の歪んだ鏡面に映るそれは/永遠に幾何学するカノンのように/可視と不可視との間で見えない交点を結ぶ

 

 

(……この詩は、写真作品の撮影の為にパリやベルギ―、オランダを駆け回った時の記憶を再構成して書いた作品。)

 

 

『割れた夜に』

亀裂という他者を経て/アダムとイブと/独身者は花嫁と重なって/アクシデントに指が入る。/コルセットに感情を委ねて/少し長い指が犯意と化す。/四角形の夜/あらゆる罪を水銀に化えて/アクシデントに指が入る。

 


 

(作品部分)

 

(……この詩は、20世紀美術の概念をピカソとパラレルに牽引した謎多き人物マルセル・デュシャンの代表作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』から着想した詩。周知のように、未完であったこの作品を運ぶ途中に、トラックの運転手の荒い運転により発生した偶然の予期せぬ事故で硝子の表面に扇情的な美しい亀裂が入り、この作品の最終の仕上げが他者を経て完了したという逸話がある。……私の思念していた「アクシデントは美の恩寵たりえるのか!?」という自問を詩の形に展開したもの。)

 

(作品裏側)

(作品全体)

 

 

 

……さて次回のブログは一転して、舞台はスペインへ。旅人というよりも異邦人と化した私の追憶『アンダルシアのロバ』を書く予定です。乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『ダリオ館再び―in Venezia』

脚本家で小説家の向田邦子さんには苦手なものがあった。……魚の目である。『父の詫び状』所収の「魚の目は泪」と題したエッセイの中で、芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」について書き、実は魚の目玉が恐くて、「目が気になりだすと、尾頭付きを食べるのが苦痛」で、魚屋へ行くと見まいと思っても、つい目が魚の目にいってしまう、と書いている。食通の向田さんにしては意外な話で印象深い。……魚の目に関しては、私にも遠い、或る思い出がある。たぶん4~5才の頃であったかと思うが、母親に連れられて魚屋に行った時の事。母親と魚屋の主人との長話が続くので、私は退屈であった。退屈な気分の先にずらりと並んだ沢山の魚が目に入った。……私はその魚の乾いた虚ろな目の様が面白く、悪戯心が湧き、つい指先が延びてしまった。魚の目玉の縁に指先を突き刺しひっくり返すと、訳のわからないねばねばした〈裏側〉が出てくる。それが面白く、一匹、また一匹、また一匹……とかなりの数の魚が、私の好奇心の犠牲になっていった。「あ~!!」と叫んだのは、あれは母親であったか、魚屋の主人であったか?……とまれ時既に遅しで、店頭にはもはや売り物にならない、無惨にも目玉がひっくり返った魚がたくさん並ぶ事となった。母親が始末をどうつけたのかは忘れたが、ひたすら謝っていた姿だけは覚えている。……たぶんその後の店先には、沢山の切り身が並んだ事と思われる。……この頃から次第に好奇心の強い性格が芽生え出し、以来、怖いもの、不可解なものに異常に執着するように私はなっていった。

 

 

……ひと頃は、『反魂香(はんごんこう)』なる物に興味を持った事があった。中国の故事に由来するが、焚くと死者の魂を呼び戻し、その姿を煙の中に出すと言われるお香の事である。おりょうが、亡き夫の坂本龍馬について語った回想録の本の題名も『反魂香』であったと記憶する。自由業なので時間があり、制作以外の時は、自分の好奇心の赴く方へと日々さすらっている人生である。だから反魂香に興味を持った時は、機会を見ては都内の香を扱っている店に入り、その香について問うたものである。しかし全くといっていい程、反魂香なる物について知る人は誰もいなかった。やはり伝説にすぎなかったのかと諦めていた頃、……昨年の冬に鹿児島のギャラリ―・レトロフトで個展をした時の事であった。まるで泉鏡花の怪奇譚の中にでも登場しそうな妙齢の謎めいた女性が入って来られた事があった。その気配から、一目見て只者ではないと思った。話を伺うと香道を生業とされているとの事。「遂に来た!」と直感した私は『反魂香』についてさっそくに切り出すと、その人の細い眉がぴくりと動き、鋭い眼で私を見返し、「確かにその香は存在しますが、あまり深入りはされない方が御身の為ですよ……」と静かに言った。面白いではないか!!……存在するなら、そして、その結果、何処かに連れ去られたとしても、私はいつでも本望である。しかし、その女性は、何故かその後の話を切り換えて別な話になり、その後に来客が来られたので、未消化のままに話は終わった。……老山白檀、沈香、龍脳、甘松……等を秘伝の調合でブレンドするらしい。

 

 

……さて、本題のダリオ館である。ヴェネツィアにある15世紀後半に建てられたこの館は、歴代の主や家族が自殺、又は非業な死を遂げるという、妖かしの館である。単なる伝説ではなく、この館に関わった者が実際に既に20人以上が亡くなっており、私が初めてヴェネツィアに滞在していた1991年時は生きていた、この館の主で起業家のラウル・ガルディニという人は、1993年の夏に銃で自殺を遂げている。以来、この館は無人の館となっていた由。私がこの館の不気味な存在を知ったのは、3回目にこの地を訪れた時であった。……ダ・ヴィンチの事を書く為に取材でロ―マから北上してフィレンツェに入った後に、ヴェネツィア在住の建築家に会う為に訪れた時であった。たまたま乗ったゴンドラのゴンドリエ―レ(ゴンドラの漕ぎ手)から、対岸にある、その一目見て不気味な建物―ダリオ館についての謎めいた話を詳しく教えてもらったのである。映画監督のウッディ・アレンがダリオ館に強い興味を抱き、真剣に購入を考えているという。ゴンドリエ―レは私達を見つめ、「彼は間違いなく死ぬだろう!」……そう言った。(この後、ウッディアレンは購入を断念したという話が入って来た。彼の友人達が真剣にその危険を諭したのだという)。……数年して私は写真の撮影の為に再びヴェネツィアを訪れた。その時は、この館に次々に起きる不吉な死の真相を確かめる為、私は本気でこのダリオ館に塀を越えて侵入するつもりであった。闇の帳が下りた頃、ダリオ館に行くと、意外にも中から灯りが漏れていた。見るとタイプライターで知られるオリベッティ社の銘が見えたので、残念ながら断念した。同じ並びにあるベギ―・グッゲンハイム美術館など、この運河沿いにある館の平均価格は250億はするという。まあ、私が貴族の末裔だったら絶対に購入するのだが……と、真相究明の挑戦はしばしお預けとなった。

 

永井荷風たち耽美派が影響を受けた詩人のアンリ・ドレニエは、かつてこの館に滞在した折りに「深夜に人の小さな呟きが聴こえた」と記している。またこの館には異様に巨大な鏡があるという。また、この館が建つ前は、そこはヴェネツィアの墓地であったという、……その辺りは切れ切れではあるが調べてある。

 

…………先日、何気なくふと、このダリオ館のその後が気になり、タブレットを開くと、信じがたい情報が飛び込んで来た。なんと、アメリカの起業家が800万ユ―ロ(たった12億8000万円!)で購入したというではないか。相場の10分の1の価格である。……しまった!と思った。遅かった!と思った。……そして、何とかならなかったのか!!と自分を責めた。そして、ふと我に帰った。……現実を見ろ!!と。しかし、私の好奇心は潰えてはいない。またヴェネツィアは行くであろう。しかし、その時には……という、真相究明の強い思いが、今もなお、私の心中で騒いでいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『ニッポン・キトク』 

数年前の、このメッセージ欄で、「人類は間違いなく水で滅びる」と断言したレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を引いて、温暖化現象による水の被害は年々加速的に甚大となり、もはや打つ手が無く、 唯々受け身でこの崩壊現象に流されていくしかないであろうと書いたが、この度の西日本ほぼ全域にわたる、かつて無い被害の大きさを見ると、どうやら予見は当たっていたように思われる。加速的に、つまり、釣瓶落とし的な速さで私達の現実に危機的な状況が迫っているのである。……ダ・ヴィンチは、最初は「人類は火で滅びる」と予見したが、途中で火を水へと、その考えを書き変えている。彼の明晰な頭脳の中で、火がなぜ水に変わったのか、その根拠は書いてないが、その沈黙が却って不気味である。ともあれ、背後の裏山を背負って生きている人は、年々増している降水量の増加が間違いなく山崩れへと繋がっていくわけだから、本気で何らかの決断をしなくてはならない時期に否応なく来ていると思われた方が良いであろう……自分だけは大丈夫。……今まで何も起きなかった。……ご先祖様が守ってくれているから……は、命取りになってしまうのである。

 

……ところで、もはや好き嫌いではなく、エアコンがなくては夏を乗り切れない時代になってしまったが、そもそも最初にエアコンを考えた、人類にとって感謝すべき人は、はたして誰だろうか!?……私の素朴な問いに、「それは1758年にベンジャミン・フランクリンと、ケンブリッジ大学で化学の教授をしていたジョン・ハドリ―が蒸発の原理を使って物体を急速冷却する実験をしたのが、すなわちエアコンの始まりである」と、ケペル先生のように忽ち導いてくれた物知りな友人の言に沿って調べて行くと、彼らの後にウィルス・キャリア(1876~1950)という人物が現れ、1902年に噴霧式空調装置(すなわちエアコン)を作った事、そしてその後の1930年にフロンガスの開発……を経て今日に至っているという経緯をはじめて知った。もし今、エアコンがなかったら……と考えるとゾッとする。間違いなく毎日、とてつもない数の死者が出て、世界は断末魔的な末期を呈していたであろう事は間違いない。……しかし、現在のこのエアコンの機能。間違いなく来るであろう更なる高温の時に備えて、今よりももっと冷却の温度設定を低くする改良が確実に要求されて来るであろう事は想像に難くない。

 

以前に週刊新潮の連載『死のある風景』で一緒に組んでいた久世光彦さんの著書に『ニホンゴキトク』という本がある。美しい響き、奥深い翳りの韻と色気のある日本語が次々と死語となって消えていく事への久世さんなりの警鐘であったが、私はそれを越えて、もはや昨今の日本が面し呈している様を見て「ニッポン・キトク」と言いたい衝動に駆られている。……あまりに殺伐とした感がますます日本全体を不気味に覆っているが、……その最たるものが、先日逮捕された大口病院の看護師・久保木愛弓が起こした事件であろう。……現在で20人くらいの殺害を自供しているが、まだ20人くらいの不審な急死をとげた患者がこの病院にはいるので、調べが進んでいくと、ひょっとすると合わせて40人くらいが殺害されたという前代未聞の数に達する可能性も多分にある。……この大口病院、アトリエからかなり近い所にその病院(事件の現場)があり、私も以前に何回か診てもらった事がある。その時、或いは後に犯人となるこの看護師が傍にいたかもしれないと想うだけで、もはや真夏の怪談よりも背筋の寒いものがある。……話はかわって、アトリエのある妙蓮寺駅前に面して「妙蓮寺」という名の古刹があり、毎日のように葬儀があり、「メメント・モリ(死を想え)」を私に思わせる場となっている。……昨日は、近くに住んでいた歌丸師匠の葬儀が行われていた。参列者2500人くらいの人が、晩年になるにつれて更に深まっていった、この名人の芸と人柄を惜しんで見送っていた。……私は中学時代、何故か落語が好きで、学校から帰るとテレビの前に座り、5代目志ん生、8代目文楽、6代目圓生……といった、今では伝説的な名人の芸を、それとは知らず、ごく普通の気楽な気持ちで味わっていた。……しかし、何故か正座をして聴いていたのは自分でも妙ではある。その後で、ベルクソンの『笑い』という著書を読み、「笑い」なるものの、複雑な感覚の生理を知る事になった。笑い、その本質を深めていくと間違いなく狂気の域に近づく、それは恐ろしい領域なのだと思う。…………さて、次回は一転して、〈大久保利通〉という計り知れない野心家・鉄人の暗い内面にわけいった、題して『紀尾井坂の変』を書く予定。……次もまた乞うご期待である。

 

 

 

 

 

 

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『切断された絵画』

版画家のMさんから面白い情報を頂いた。オルセー美術館収蔵のクールベの代表作『世界の起源』が、実は切断された部分にすぎず、その顔の部分の油彩画が最近ある骨董店で発見されたのである。周知のとおり、この『世界の起源』という作品は、女性の局部とその周辺の部位のみを描いた作品で、エロティックな画集には決まって登場し、かのデュシャンの『遺作』にも影響を与えたと言われている、云はば、オルセー美術館の裏の秘宝としてあまりに有名な作品なのである。この作品に『世界の起源』という学術的かつ観念的な題が付けられている事が免罪符となっているのか、その直接的な卑猥さにも関わらず、常設として展示されていた。しかし、ここに具体的な「顔」が現れた事で事態も解釈も一変する事となった。おそらくは後世の人が付けたであろう『世界の起源』というタイトルの効力は薄れ、具体的な『或る女人のかくも淫らな肖像』へと一変してしまうからである。ただし現時点では偽物という説もあり、真偽を求めてパリの新聞の評も二分しているらしい。私が見た画像の限りでは細部が見えない為に何とも判断はつきかねるが、古典主義ロマン主義のいずれにも属さず、写実主義の極を生きたクールベの事、彼に限ってこそ充分に描きそうな主題ではある。

 

 

これがもし本物であるならば、絵が切断され二分された理由はほぼ一つに限られる。それは絵の注文主かその子孫が〈顔〉と〈局部〉を二分して売れば、一枚だけより、より高く売却出来ると考えたからである。しかし、ともあれ『世界の起源』に〈顔〉がピタリと符合した事で何とも名状し難いエロティシズムが立ち上がった。フェティシズムと想像力に〈具体的な個の物語〉が絡んできたからである。そして、そこから私は過日に直接本人から聞いた、或る話をふと思い出した。

 

・・・・文芸評論家のY氏は或る日ひょんなことから一冊の写真集を入手した。それは唯、女性の性器だけを、それこそ何百人も撮影した、まるで医者のカルテのような写真集であった。Y氏は、視線の欲望をも美しい叙情へと仕上げてしまう、昭和を代表する詩人の吉岡実氏に電話をして見に来ないかと誘ったのであった。吉岡氏云わく「Yちゃん、ところでそれに顔は付いているのか!?」と。Y氏云わく『いいえ、それだけです。それだけが何百枚も写っているのです」。それを聞いた吉岡氏云わく、「だったら見に行かないよ。なぜならそれは全くエロティックでも何でもないのだから」と云って断ったのであった。この逸話はささやかではあるが、そこに吉岡氏の徹底したエロティシズムへの理念が伺い知れ、私はあらためて吉岡実氏に尊敬の念を抱いたのであった。

 

ところで今回の件のように〈切断された絵画〉の事例は、実は他にもある。例えば、ローマのヴァチカン美術館の秘宝ともいえるダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』がそれである。やはり、顔と他の部分が切り離され、各々別々に近代になってフィレンツェ市内の家具屋と肉屋で発見された。各々を見つけたのは、何故か同一人物で名前は失念したが、確かナポレオンの叔父であったと記憶する。一方の絵は家具屋の店内の扉として使用されていたというから恐ろしい。もう一つの例としては、やはりダ・ヴィンチの『モナ・リザ』がある。現在私たちが見る『モナ・リザ』は描かれた当初は、左右に7センチづつ更に柱が描かれていた。しかしこれを切断したのは画家本人である。『モナ・リザ』は左右に切断された事で、人物と背景との関連と違和は相乗し、唯の肖像画から暗喩に満ちた異形な絵画へと一変した。

 

さて、今回の〈顔部〉が発見された事で、最も当惑していたのはオルセー美術館であろう。分析の結果を待つかのように今は沈黙を守っているというが、・・・・もし本物であったならば、ひょっとすると今までのような展示はもう見る事が出来ないかもしれないという懸念もある。何故なら顔部を併せて展示した場合、そこから立ち上る卑猥さは増し、観光客はこぞってモネやゴッホよりも、そこに集中し、オルセーのイメージは少し歪むからである。しかし彼の地の美術館の学芸員たちは、日本のそれと違い、芸術の本質が何たるかを知っている連中が多い。それが社会学的にしか見せられない、唯の綺麗事としての展示に留っている事を諒とせず、又、彼の地の観客たちの芸術に対する認識も成熟している。もし〈顔〉が本物と認定され展示されたとしたならば・・・・。或は、誰よりそれを見る事を内実望みながら、「こんな不謹慎な絵を・・・・」と絵の前で真顔でつぶやくのは、ツアーでやって来た我が国のご婦人たちかもしれないと、私はこの度の発見に供なって思った次第なのであった。

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『まるでチェスゲームのように』

先日、書店で美術評論家のF氏が書いたルネサンス関連の本があったので、開いてつらつらと読んでいたら、気になる記述が目に止まった。そこには「ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザが重なるという説があるが、当時は美の規範として目や鼻や眉の位置が決まっていたので重なるのは当然である。」と記されていた。

 

実は、私が先日刊行した『絵画の迷宮』は、口絵にパソコンによる画像処理により、ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザが不気味なまでに重なっていくプロセスを四段階に分けて載せており、その偶然ですませられない完全な合致から推論を立ち上げ、遂にはダ・ヴィンチの内なる不気味な女性性(云わゆるトランスジェンダー)と、更には母親とも重なる母子合体のイメージ(これはデューラーにもある)のある事に言及し、そこから人々が抱く哲学者然としたダ・ヴィンチ像からかけ離れた、生々しいダ・ヴィンチの実像に迫っていった。故にこのF氏の説は、結果としての私の説に反論するものとして興味が湧いてきたのである。

 

F氏の説でいくと、ダ・ヴィンチの描いた女性像は、モナ・リザ以外にも全てダ・ヴィンチの自画像とピタリと重なる事になる。美の規範とは響きは良いが、そのような杓子定規な美の入口を越えた遥か高みと闇の深みにダ・ヴィンチは到達しており、聖母像を主に描いたラファエロたちとは大きく異なるのである。この美術評論家は果たしてどれくらいダ・ヴィンチの個に迫り、自説を裏付けるべく、私のように徹底したのであろうか???

 

私は自説を今一度検証すべく、音楽家の鈴木泰郎氏に御協力を頂き、パソコンの前に座った。鈴木氏の完璧な技術力を得て私たちは、自画像にモナ・リザ以外の作品を次々と重ね、ミリ単位よりも細かで密な検証を行った。結果から語れば、この美術評論家F氏の説はあっけなく崩れ去り、ジネヴラ・ベンチ他の「四分の三正面像」はことごとくズレを呈したのであった。それは、予想したとおり、当然な結果ではあるが・・・。そして私は「モナ・リザ」のみが、ダ・ヴィンチの自画像と、その向きの角度までも含めて完璧に(かつ不気味に)重なっていくのを改めて確信したのであった。ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザの向きは真反対の対面として在る。そこにダ・ヴィンチがこだわった「鏡」面性の論理が加わってくる。私たち研究家は、ダ・ヴィンチという知と闇の巨大な山の頂上(真実の相)を目指して、各々の角度から山頂を目差す。たとえば、F氏は教科書のような知識を拠り所に。そして私は、自身も画家である事の直観と多面的な推測の幅を持って。ダ・ヴィンチとは、最高度に謎めいて、かつ知的であり、あたかも鋭いチェスゲームのような尽きない魅力に満ちている。それに立ち向かうには、こちらの直観を研ぎ澄まし、かつ複眼の思考であまねく立ち合わねば、たちまち、迷路にはまり込んでしまうのである。残念ながら、日本における美術評論書には「これは!!」と思わせる書物が無く、私が共振するのは翻訳による外国の書き手の方が多い。そしてその多くが、日本のように学界めいた色褪せたものではなく、知性とミステリー性が深く混在した、読む事のアニマに充ちた書物なのである。

 

ともあれ、ご興味のある方は私と同じく、ダ・ヴィンチの自画像と他とを実際にパソコンで重ね見て頂ければと思う。そして、自画像と「モナ・リザ」のみが、完璧に重なる事を直接体験され、御自分の説(推理)を立ち上げて頂ければと思う。その検証の先にあなたを待ち受けている言葉は間違いなく「事実は小説よりも奇なり」という、あの言葉なのである。ダ・ヴィンチはやはり最高に面白いミステリーの「描き手」なのである。

 

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『死のある風景』

原発の再稼働の是非をめぐって様々な意見が入り乱れているが、どうもこの国の人々は、自明な大前提の事を忘れているように思われる。それは、この日本という国が、いざという時に逃げ場の無い極く小さな限られた〈島国〉であるという事である。

 

1986年4月に旧ソ連のウクライナ共和国の原発で起きたチェルノブイリ原発事故の事は記憶に生々しい。大気中に放射能が飛散した広域な現場は25年以上経った今も死の墓場であり、人々の影すらない。しかし、そこは地続きの大陸であり、被災者は遠方へと避難が可能であった。それにひきかえ、四囲を海に囲まれた我が国にはそれが出来ない。故にドイツ・フランス他の諸国と同一原理で語る以前に、もし地震が発生し、同様の事が生じた場合、もはやその時点で〈滅び〉しか目前にはない事を、SFの話ではなく、現実(事実、その第一波は起きた!!)の事として記憶するべきであろう。現在も、3.11の日に流れ出た大量の汚染水は海底の泥に混じり、小魚から回遊魚への汚染は確実に広がって、日本の近海をじわじわと封じ込んでいる。そして、それを除染する方法を私たちは持ち得てはいない。

 

私たちは地震による津波によって、原発が一瞬で砕けた様をありありと見た。そして今度は想定域が西へと下って関東・東海・そして関西へと、次なる悲劇の誕生が、具体的な〈今、そこにある危機〉として在る事を誰もが知っている。その渦中に在って、原発の再稼働は、人間がかくも愚かである事の実証でしかない。この記述すらも〈風評〉と断ずる者がいるとしたら、その御仁はよほど現実を直視する勇気と理性を持たない御仁であろう。隣国の主席はかつて日本を指して〈意識レベルがあまりにも低く、国家として体を成していない〉と酷評したが、精神の立脚点を自らに持たないこの国の民は皆、怒ることすら知らず、唯、他人事のように苦笑するだけであった。

 

周知のように、幕末から明治維新へと至る改革を可能にしたのは、言うまでもなく米・英・仏を中心とした外圧が発端にあったからである。今、この国に押し寄せている外圧と云えば、それは地震・原発によるオブセッショナルな感覚かもしれない。このまま行けば、逃げ場を持たない日本に待ち受けているのは、全面的な放射能被曝によって化した、住む場所を無くした焦土である事は、〈想定内〉の具体的な現実である。〈本当にエネルギーは不足しているのか!?〉という疑念がある中、今は代替エネルギーへの転化に専念すべきであろう。

 

さて、暗い話が続いたので、次は自分の事を明るく語ろう。先日刊行した拙著『絵画の迷宮』に続いて4月中旬には久世光彦氏との共著『死のある風景』が刊行予定である。明るくと言ったが、何とリアルなタイトルである事か!!先日出版社に行き、その本に載せる私の写真作品を選出する作業を行った(掲載した画像)。そしてその次には、詩人の野村喜和夫氏の詩集(ランボーを主題とした)に絡めて私の写真作品を載せるために、深夜にそのための写真撮影を行っている。〈この本は、今年中に思潮社より刊行予定〉。

 

最近の私は機会を見つけては津波の、あの怖るべき映像を見ながら、500年前にダ・ヴィンチが記した、大洪水によって人類が死滅していく叙景文の描写のそれとを比べている。そこから文章を立ち上げて、次なる書き下ろし執筆の、真近に迫った開始を計っているのである。ダ・ヴィンチの文は、私達の知るあの津波の映像と重なるように生々しく活写したものである。そのダ・ヴィンチは手稿の中で「間違いなく人類は水によって滅びる。」と予言している。現代の人々は中世よりも現代の方が文明において勝っていると思い上がっている。しかし現実は、人類が生んだ最大の知的怪物(ダ・ヴィンチ)の想像した予見の掌中に悲しくも、また愚かにも収まっていこうとしている。ダ・ヴィンチがその水による終末論を主題としたのが、彼の絶筆『洗礼者ヨハネ』なのである。

 

 

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「『絵画の迷宮』が刊行されました。」

前々回のメッセージでお知らせした拙著『絵画の迷宮』が、遂に刊行されました。ご興味がある方はぜひ御一読下さい。ご購入は、全国の主要書店、あるいは地方にお住まいの場合はお近くの書店まで書名『絵画の迷宮』、著者名 – 北川健次、出版社 – 新人物往来社、を申し込んで頂ければ入手可能です。〈アマゾンでも可能。〉定価は750円(税込み)です。2004年に新潮社から刊行した拙著『「モナ・リザ」ミステリー』に、その後発見した衝撃的な新事実を書き加えた、云はば〈完全版〉が今回刊行した本です。登場するのは、ダ・ヴィンチフェルメールピカソダリデュシャンの計五人の芸術家。そこに夏目漱石三島由紀夫雪舟法然少年A(神戸連続殺人)、スピノザなどが多彩に絡み、美術論を越えてミステリー・紀行文としても楽しめます。本書は新聞や雑誌の書評でも多く取り上げられ、“我が国におけるモナリザ論の至高点”と高く評価されましたが、探偵が既に迷宮入りとなった完全犯罪を追いつめるように書き込んであり、私の文章の仕事における自信作です。

 

 

昨年末から、福井県立美術館の個展図録・写真集『サン・ラザールの着色された夜のために』・そして今回の『絵画の迷宮』と三冊の本が出た次第。続いて四月には、新人物往来社から久世光彦氏と私の共著『死のある風景』が単行本で刊行される為、現在ひき続き担当編集者と共に校正に入っています。この本は新潮社の「週刊新潮」で数年間連載し話題となったものを集めたもの。久世氏が御存命中に刊行された単行本に所収した内容とは別な文を集めて構成。こちらもご期待いただければ嬉しい限り。死のメチエとノスタルジーをヴィジュアル化すべく、私のオブジェや写真も多数入ります。

 

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『本が二冊刊行間近!!』

 

拙著『「モナ・リザ」ミステリー』が新潮社から刊行されたのは、2004年の時であった。美学の谷川渥氏や美術家の森村泰昌氏をはじめ多くの方が新聞や雑誌に書評を書かれ、“我が国におけるモナ・リザ論の至高点”という高い評価まで頂いた。しかし本を刊行してから数年して、私はとんでもない発見をしてしまったのであった。

 

今までの美術研究家たちの間では、ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」と呼ばれる、あの謎めいた作品について何も書き記していない、というのが定説であった。しかし私は、あれほどの作品である以上、作者は必ずや何か書き記しているに相違ないとふんで、徹底的にレオナルドの手記を調べたのであった。評論家とは異なる画家の現場主義的な直感というものである。そして・・・遂にそれと思われる記述を、その中に見つけ出したのであった!!これはレオナルド研究の最高峰とされるパリのフランス学士院でも、未だ気付いていない画期的な発見であると思われる内容である。そして、その内容は驚愕すべき記述なのである。しかし、私の「モナ・リザ」の本は既に出てしまっている。私は発見した喜びと共に、本が出る前に何故気がつかなかったのかを悔やんだ。又、後日にもう一つの新事実までも「モナ・リザ」に見出してしまい、ますます完全版を出す事の必要を覚えていた。・・・それから七年が経った。

 

一冊の本が世に出るには、必ずそこに意味を見出してくれる編集者との出会いがある。私にとって幸運であったのは、歴史物の刊行で知られる出版社- 新人物往来社のK氏が、その発見に意味を見出し、たちまち刊行が決まった事であった。今回は文庫本である為に発行部数も多く、若い世代にも読者の幅が広がるので、刊行の意味は大きい。福井県立美術館の個展で福井のホテルに滞在している時、また森岡書店での個展の合間を見ては執筆を加えており、先日ようやく校正が終った。そして私は文筆もやるが写真もやるので、表紙に使うための画像をアトリエの中で撮影し、全てが刊行を待つばかりとなった。本の刊行は3月2日が予定されている。又、同社からは続けて四月に私と久世光彦氏との共著『死のある風景』も新装の単行本で刊行される事になっている。新潮社から出した時は、『「モナ・リザ」ミステリー』というタイトルであったが、今回は加筆した事もあり、タイトルを『絵画の迷宮』に変えた。とまれ、刊行は間もなくである。ご期待いただければ嬉しい。

 

 

 

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『会場にて』

六本木の東京ミッドタウンで開催中の「Tokyo Photo 2011」に行く。アイデア先行の写真、現代美術として見せる為の見せかけのようなディスプレーが目立ち、作品それ自体が強いイメージを持った写真がほとんどない。「私もそろそろ写真だけの作品を組んだ写真集を出したいものだ・・・」と思いながら、自分の個展会場へと向かった。

 

会場に居ると、筑摩書房の編集長の大山さんが来られた。企画出版の話を頂きながら、制作に追われて未だ着手していない書き下ろし原稿の執筆を促される。この本は刊行すれば、間違いなく話題作となる切り口のものである。「東日本大震災の時の津波のすさまじい描写から始めます。」と大山さんに話す。構想は既に出来ている。年内にダ・ヴィンチを書き終え,その後、ゴッホコーネルムンクマン・レイ・・・・といっきに書こうと思う。

 

 

 

 

大山さんに続いて、沖積舎の沖山さんが来られた。沖山さんは、私の最初の版画集をプロデュースして刊行された方である。会場を一巡した後、写真「ヴェネツィア – 千年劇場」を購入された。そして、私に「すぐに写真集を出しませんか!?」と切り出され、私を驚かせた。既に沖山さんの頭の中では本の構想が出来ているらしい。再び言うが、私は驚いた!!。何故なら、その日の午前中に「自分の写真集」の事がふと浮かんだからである。予知は私の場合度々あるが、今日また、それが出たか!!。勿論、沖山さんに快諾の意を告げる。

 

 

 

 

沖山さんに続いて写真家の川田喜久治さん来廊。私のポートレートを会場で撮られる。かつて川田さんは、三島由紀夫の終末の姿を予知するかのような、三島の異形なポートレートを撮られた凄腕の人。撮影されながら、自分の魂が間違いなく吸われていくのを実感する。拙宅に川田さんから写真が届くのが楽しみである。個展は10月10日(月・祝)まで続く。まだまだ、これからである。

 

 

「球体玩具考」

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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