月別アーカイブ: 4月 2011

『ジム・ダイン展を見る』

名古屋ボストン美術館で開催中のジム・ダイン展(8月28日まで)を見に行ったが、初期から現在までの版画が150作品、この先鋭で独自な作家の軌跡を巧みに見せて圧巻であった。午後から愛知芸大で、ジム・ダイン氏とボストン美術館キュレーターのクリフォード・アクレー氏による対談があるので行く。実りの深い内容の対談により、ジム・ダイン氏が何よりも作品の中に有機的な〈気〉を入れることを重視している事を知る。

 

対談後、名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉氏の御好意で、控え室のジム・ダイン氏とクリフォード・アクレー氏に紹介され、直接面識を得る機会を持てたのは幸運であった。ダイン氏は私が版画を始めた20代に最も影響を受け、範とした作家なのである。3年前にフランスのランボーミュージアムで、ジム・ダインピカソエルンストジャコメッティ・・・そして私の作品が共に展示され、私は強い自信を得たのであるが、まさか数年後に、ジム・ダイン氏本人に御会い出来るとは思ってもいなかった。アクレー氏には後日、私の作品が入ったCDをボストン美術館の方に送る事を約束する。アクレー氏は、ジム・ダイン氏が国際的な評価を得るために尽力した人。秀れた慧眼の人である。

 

『主題と変奏—版画制作の半世紀』と題したこのジム・ダイン展は、しかし残念ながら他の美術館へは巡回しない。《ハート》《バスローブ》《道具》などの身近なモチーフを描きながら、見る者の感覚の普遍を深々と衝いてくるジム・ダイン芸術を体感したい人には、ぜひ名古屋ボストン美術館を訪れて見て頂く事をお薦めしたい展覧会である。

 

「芸術は癒しである」—そのような浅薄な認識を真顔で語る作家や画商は存外に多い。そういう一面的な狭い認識しか持てない者たちに対し、芸術とは何よりも観照であり、鋭く磨かれた鏡面のごとき、自分への問いかけである事を自明のように体感出来る展覧会が、銀座一丁目の中長小西(NAKACHO KONISHI ARTS)で今月の30日まで開催されている。陶芸作家—岡部嶺男氏の没後20年を経て実現した天目茶盌14点による、初の天目展である。考え抜かれた照明、そして作品各々が共振を奏でる配置。この画廊が作者に寄せる真摯な思いが直に伝わってくる空間の中で、今一人の自分と立ち会ってみるのも得難いものがあるのではないだろうか。こちらも又、お薦めしたい展覧会である。

 

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『白洲・駒井・そしてジム・ダイン』

〈あの日〉から1ヶ月が経ったが、福島県を中心にして余震が止まらない。いやむしろ、地中深くで不気味な地霊が再びさ迷い始めた感さえある。私たちが体感しない揺れも含めると、実は四六時中、絶えず地面は揺れ続けているのであろう。関東南部までも含めた二つのプレートがぶつかり合っている圏内では、再び襲ってくるかもしれない震度6以上の揺れに備えて、神経を張りつめた日々が続いている。

 

そんな憂さを払うべく二つの展覧会を見に行った。白洲正子展(世田谷美術館)と駒井哲郎展(町田市立国際版画美術館)である。白洲展は予想を越えて圧巻。白洲正子が求めた先には、スピノザが『エチカ』で唱えた汎神論(キリスト教のような絶対神ではなく、私たちの内に既にして在る内在神)と重なるものがあると見た。駒井展は内覧会があったので、その日に訪れた。来場者の多くが見知った顔。しかし皆、白髪が増えてずいぶんと表情が大人しい無難な顔になってしまった。その彼らが私に向かって〈全く昔と変わっていないが何故!?〉と問う。たぶん、私は何処かで成長が止まり、大人になりそこねてしまったのであろう。

 

さて、駒井哲郎展。生前彼は口ぐせのように〈イメージの物質化〉について語っていた。それが実証として目の前に在り、私の忘れかけた初心を衝いてくる。今、私は二年以上銅版画の制作から遠去かっている。新たな思い切った展開を計っている為である。私は駒井哲郎から多くを学んだが、しかし最も影響を受けたのはジム・ダインであった。造形思考、エスプリ、複眼的な視点・・・・。一人の作り手としてジム・ダインの存在は二十代の私の強い導きであった。そのジム・ダインの展覧会が今月23日から名古屋ボストン美術館で開催される。500点近い数の作品が展示されるという。ジム・ダインも来日の予定。館長の馬場駿吉さんとの半年ぶりの再会も楽しみである。名古屋に行き、更なる充電を私は期している。上記の三つの展覧会は私がお薦めする必見の展覧会である。

 

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『それでも・・・・桜が』

3月11日以来、日本は常軌を逸した空間に入ってしまった。書きたい事はいくつもあるが、筆の焦点が定まらない。最終的には4万人に迫るであろう死者の数。津波によって殺された彼らの誰が、あの日の午後に〈今日、自分が死ぬ〉と思ったであろうか。

 

東電の株の暴落が止まらない。無策、そして仮病で出て来ない社長を考えれば当然であるが、しかし原発を廃したとしても電力依存の三割分を、では何で補うのか、それも又、策がない。私たちが覚えてしまった〈便利さ〉という快楽の味を脳が知ってしまっている以上、元には戻れなくなってしまっているのである。管首相は似合わない作業着を来てパフォーマンスを演じているが、内実、彼の頭にあるのは、延命のための〈大連合〉でいっぱいである。TVからは着飾ったタレントが「日本はひとつ」「君のそばには私たちがいる」というメッセージを流しているが、TVの無い避難所では、それを見る者もおらず、名古屋以西の多くの人たちには、(対岸の火事)として映っているという。原発事故の最初の一撃は天災であるが、直後からの被害を生んだのは、政府と東電による明らかな人災である。これから生じてくるのは、日本人特有の情緒の不気味な現象であるが、今大事なのは、各人が理性を信じて自分で考える事である。過度な情報は、各人の感性というセンサーを狂わしてくる。今は、一倍の確かさで、自分の内面に生じた微妙な変化に眼を注ぐべき時かもしれない。

 

春の叙情を主張するかのように、ふと気がつくと桜が満開である。あの大津波も、そして眼前の薄桃色の桜も共に自然界のそれぞれの姿である。私たちは、そのアニマに囲まれながら不条理の中を生きている。そして足下の地下深くでは、最も不気味なアニマ、余震のエネルギーが出所を求めて今も彷徨しているに違いない。まだまだ異形と化した〈日常〉が続く。予断は許されない。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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