先月に拙著『絵画の迷宮』が新人物往来社から刊行されたばかりであるが、続いて、『死のある風景』が同社から刊行された。2006年に急逝された久世光彦氏の遺稿と、私のオブジェと写真を絡めた共著である。実質的に久世光彦氏の最後の本でもあり、それに共著という形で関わった事に奇しくも何らかのご縁のようなものを覚えている。
表紙は、ブックデザインの第一人者として知られる鈴木成一氏が担当。私の写真作品『ザッテレの静かなる光』を、下地に銀を刷り、その上に四色の黒の階調を重ねるという手のこんだ工程を経て、イメージが深い情趣の高まったものに仕上がった。表紙の帯には〈「あの世」と「この世」の境はいったいどこにあるのだろう。「死者」と「生者」の境はあるのだろうか。〉という一文が入り、極めて今日的なメッセージとなっている。かつて無い死のオブセッションなるものが日本中を席巻している今、いっそ、さまざまな貌を見せる〈死〉のカタチと正面から対峙してみるのも一興ではあるまいか!?この『死のある風景』は、それにもっとも相応しい本となっている。本書には、久世光彦氏の91篇のエッセイと、私の作品19点を所収。全面見開きの写真も多く入っており、作者として、その印刷の美しい仕上がりをとても気に入っている。
向田邦子・久世光彦という、〈昭和〉の貴重な、そして陰翳に富んだ美文の書き手が次々と逝ってしまった。向田さんは飛行機事故による爆死、久世氏は自宅での急逝であったが、共に一瞬の「死」が、その才能を寸断した。凄まじくもあるが、うらやましくも映る死のカタチである。西行のような桜の花の下の死も良いが、〈魔群の通過〉のような死も私には案外相応しいかとも思っている。ともあれ久世氏の最後のメッセージが詰まった本書をじっくりと味読して頂ければ、共著者としてこんなに嬉しいことはない。






私は自説を今一度検証すべく、音楽家の鈴木泰郎氏に御協力を頂き、パソコンの前に座った。鈴木氏の完璧な技術力を得て私たちは、自画像にモナ・リザ以外の作品を次々と重ね、ミリ単位よりも細かで密な検証を行った。結果から語れば、この美術評論家F氏の説はあっけなく崩れ去り、ジネヴラ・ベンチ他の「四分の三正面像」はことごとくズレを呈したのであった。それは、予想したとおり、当然な結果ではあるが・・・。そして私は「モナ・リザ」のみが、ダ・ヴィンチの自画像と、その向きの角度までも含めて完璧に(かつ不気味に)重なっていくのを改めて確信したのであった。ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザの向きは真反対の対面として在る。そこにダ・ヴィンチがこだわった「鏡」面性の論理が加わってくる。私たち研究家は、ダ・ヴィンチという知と闇の巨大な山の頂上(真実の相)を目指して、各々の角度から山頂を目差す。たとえば、F氏は教科書のような知識を拠り所に。そして私は、自身も画家である事の直観と多面的な推測の幅を持って。ダ・ヴィンチとは、最高度に謎めいて、かつ知的であり、あたかも鋭いチェスゲームのような尽きない魅力に満ちている。それに立ち向かうには、こちらの直観を研ぎ澄まし、かつ複眼の思考であまねく立ち合わねば、たちまち、迷路にはまり込んでしまうのである。残念ながら、日本における美術評論書には「これは!!」と思わせる書物が無く、私が共振するのは翻訳による外国の書き手の方が多い。そしてその多くが、日本のように学界めいた色褪せたものではなく、知性とミステリー性が深く混在した、読む事のアニマに充ちた書物なのである。






