月別アーカイブ: 4月 2012

『新刊 – 死のある風景』

先月に拙著『絵画の迷宮』が新人物往来社から刊行されたばかりであるが、続いて、『死のある風景』が同社から刊行された。2006年に急逝された久世光彦氏の遺稿と、私のオブジェと写真を絡めた共著である。実質的に久世光彦氏の最後の本でもあり、それに共著という形で関わった事に奇しくも何らかのご縁のようなものを覚えている。

 

表紙は、ブックデザインの第一人者として知られる鈴木成一氏が担当。私の写真作品『ザッテレの静かなる光』を、下地に銀を刷り、その上に四色の黒の階調を重ねるという手のこんだ工程を経て、イメージが深い情趣の高まったものに仕上がった。表紙の帯には〈「あの世」と「この世」の境はいったいどこにあるのだろう。「死者」と「生者」の境はあるのだろうか。〉という一文が入り、極めて今日的なメッセージとなっている。かつて無い死のオブセッションなるものが日本中を席巻している今、いっそ、さまざまな貌を見せる〈死〉のカタチと正面から対峙してみるのも一興ではあるまいか!?この『死のある風景』は、それにもっとも相応しい本となっている。本書には、久世光彦氏の91篇のエッセイと、私の作品19点を所収。全面見開きの写真も多く入っており、作者として、その印刷の美しい仕上がりをとても気に入っている。

 

 

向田邦子・久世光彦という、〈昭和〉の貴重な、そして陰翳に富んだ美文の書き手が次々と逝ってしまった。向田さんは飛行機事故による爆死、久世氏は自宅での急逝であったが、共に一瞬の「死」が、その才能を寸断した。凄まじくもあるが、うらやましくも映る死のカタチである。西行のような桜の花の下の死も良いが、〈魔群の通過〉のような死も私には案外相応しいかとも思っている。ともあれ久世氏の最後のメッセージが詰まった本書をじっくりと味読して頂ければ、共著者としてこんなに嬉しいことはない。

 

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『まるでチェスゲームのように』

先日、書店で美術評論家のF氏が書いたルネサンス関連の本があったので、開いてつらつらと読んでいたら、気になる記述が目に止まった。そこには「ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザが重なるという説があるが、当時は美の規範として目や鼻や眉の位置が決まっていたので重なるのは当然である。」と記されていた。

 

実は、私が先日刊行した『絵画の迷宮』は、口絵にパソコンによる画像処理により、ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザが不気味なまでに重なっていくプロセスを四段階に分けて載せており、その偶然ですませられない完全な合致から推論を立ち上げ、遂にはダ・ヴィンチの内なる不気味な女性性(云わゆるトランスジェンダー)と、更には母親とも重なる母子合体のイメージ(これはデューラーにもある)のある事に言及し、そこから人々が抱く哲学者然としたダ・ヴィンチ像からかけ離れた、生々しいダ・ヴィンチの実像に迫っていった。故にこのF氏の説は、結果としての私の説に反論するものとして興味が湧いてきたのである。

 

F氏の説でいくと、ダ・ヴィンチの描いた女性像は、モナ・リザ以外にも全てダ・ヴィンチの自画像とピタリと重なる事になる。美の規範とは響きは良いが、そのような杓子定規な美の入口を越えた遥か高みと闇の深みにダ・ヴィンチは到達しており、聖母像を主に描いたラファエロたちとは大きく異なるのである。この美術評論家は果たしてどれくらいダ・ヴィンチの個に迫り、自説を裏付けるべく、私のように徹底したのであろうか???

 

私は自説を今一度検証すべく、音楽家の鈴木泰郎氏に御協力を頂き、パソコンの前に座った。鈴木氏の完璧な技術力を得て私たちは、自画像にモナ・リザ以外の作品を次々と重ね、ミリ単位よりも細かで密な検証を行った。結果から語れば、この美術評論家F氏の説はあっけなく崩れ去り、ジネヴラ・ベンチ他の「四分の三正面像」はことごとくズレを呈したのであった。それは、予想したとおり、当然な結果ではあるが・・・。そして私は「モナ・リザ」のみが、ダ・ヴィンチの自画像と、その向きの角度までも含めて完璧に(かつ不気味に)重なっていくのを改めて確信したのであった。ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザの向きは真反対の対面として在る。そこにダ・ヴィンチがこだわった「鏡」面性の論理が加わってくる。私たち研究家は、ダ・ヴィンチという知と闇の巨大な山の頂上(真実の相)を目指して、各々の角度から山頂を目差す。たとえば、F氏は教科書のような知識を拠り所に。そして私は、自身も画家である事の直観と多面的な推測の幅を持って。ダ・ヴィンチとは、最高度に謎めいて、かつ知的であり、あたかも鋭いチェスゲームのような尽きない魅力に満ちている。それに立ち向かうには、こちらの直観を研ぎ澄まし、かつ複眼の思考であまねく立ち合わねば、たちまち、迷路にはまり込んでしまうのである。残念ながら、日本における美術評論書には「これは!!」と思わせる書物が無く、私が共振するのは翻訳による外国の書き手の方が多い。そしてその多くが、日本のように学界めいた色褪せたものではなく、知性とミステリー性が深く混在した、読む事のアニマに充ちた書物なのである。

 

ともあれ、ご興味のある方は私と同じく、ダ・ヴィンチの自画像と他とを実際にパソコンで重ね見て頂ければと思う。そして、自画像と「モナ・リザ」のみが、完璧に重なる事を直接体験され、御自分の説(推理)を立ち上げて頂ければと思う。その検証の先にあなたを待ち受けている言葉は間違いなく「事実は小説よりも奇なり」という、あの言葉なのである。ダ・ヴィンチはやはり最高に面白いミステリーの「描き手」なのである。

 

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『ジャクソン・ポロック』

先日、東京国立近代美術館で開催中のジャクソン・ポロック展を観た。44歳で自死したポロックの表現世界。会場に展示されている、実際に彼が使った筆先の切り取られた部分を見ながら、あのアクションペインティングをする際に要した一瞬、一瞬の絶え間ない神経の集中の過酷さを想像した。表現は、実体のポロックを遊離して、一つの「極」へと知らぬ間に達してしまった!!その極北への到達は、表現者としての恩寵でもあり、ゆえに悲劇でもある。

 

会場内の壁面にはポロックの言葉と共に、一時代のアメリカ現代美術を引っ張った美術評論家クレメント・グリーンバーグの言葉が貼られていた。グリーンバーグ曰く、「優れた表現が登場する際には、決まってそこに何らかの醜悪なものがある」と。たいていの人はその言葉とポロックの初期の作品を見て、なるほどと合点する。しかし、グリーンバーグの言葉に批評としての普遍性は無く、在るのは、同時代のみの賞味期限付きのレトリックでしかない。彼の頭にあるのはデクーニングを範とする表現主義への礼讃だけで、視野は狭い。ケネス・クラークやグローマンに比べれば数段劣る。事実、グリーンバーグはコーネルの作品には無関心であった。しかし時代がコーネルに追いつくと、彼もまた脱帽してコーネルを認めたのである。つまり、批評が作品の実質に屈服したのである。私は先に、「批評家の言葉には反応しない」と書いたが、その根拠がここに在る。生意気なようだが、「名人は名人を知る」の言葉どおり、次代の才能を見ぬく眼を持っているのは常に表現者であり、評論家でその役割を果たした者はほとんど皆無に近い。

 

先日、詩人の野村喜和夫氏と本の打ち合わせをした折、野村氏は「時代の中で一番色褪せるのが早いのは〈思想〉である」と語った。この場合の〈思想〉とは、それがあまりに同時代のみを向いたもの、という限定付きであるが、同感である。そして私はそこに「評論もまた然り」を付け加えた。グリーンバーグは極論的言説ゆえに、それでも40年代から60年代の美術界を引っぱり、今は引き算を要するがなおも読める。さぁ、その眼差しを日本の美術における評論に向けてみよう。果たして、過去の誰が浮かび上がるのか? −−− 誰もいない。今もって、それを読み、熱くなれる文を書いた評論家は誰もいない。それに比べて、例えば三島由紀夫が著した美術評論 —– 宗達ヴァトー、ギリシャ彫刻・・・に注いだ眼差しは、今なお光彩を放って底光りをしている。そして、そこから得る物も深い。そう、三島は近代における評論の分野でも、最高の書き手であったのである。私は言い直そう。色褪せるのが早いのは評論ではなく、評論家による評論であり、実作者が書いた評論は、時として、時代を経てなおも生きる。ここまで書いた私は、自分にその刃の切っ先を向けた事になる。—- では、お前はどうなのかと。私は自分の書いた物に確たる自信がある。今刊行中の『絵画の迷宮』、そして与謝蕪村と西洋美術の諸作を絡めた論考、そして次に書く執筆に対して。この自分に強いた緊張こそ、次作が立ち上る母胎なのである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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