月別アーカイブ: 2月 2013

『降り積もる雪に想う』

大正五年の12月9日に死亡した夏目漱石は、翌10日に東京帝国大学病理学教室で長与又郎の執刀によって解剖された。長与はその後の講演で、漱石の脳を持参しながら「脳を今日持って参りましたが、夏目先生の脳はその重量に於いてはさほど著しく平均数を超過しておりませぬが廻転(しわ)はどうも非常に著しく発達している、特に左右の前頭葉と顧頂部が発達している・・・・云々」と語っている。

 

現在の東京大学医学部本館三階の南翼には、窓内が全て白布で覆われた部屋がある。医学部標本室である。私が初めてこの部屋を訪れたのは秋であった。構内の銀杏並木の黄が白布を通して透かし入り、室内がまばゆい金色に映えていた。ここの標本室には日本の近代史の暗部というべき標本がズラリと並んでいる。毒婦・高橋お伝の刺青の入った皮膚と◯◯部、阿部定が切り取った◯◯、日本において初めてマゾヒズムが裁判内で問われた某M女の皮膚(それには千枚通しで刺された無数の刺し傷がある)、・・・・等々。その部屋の一角に先述した漱石の脳の標本が「傑出頭脳」と称される参考例として、斎藤茂吉横山大観等々と共に(およそ50以上が)展示されている。私はホルマリンに白々と浮かぶそれらの脳を見ながら、「これが「それから」や「門」、これが「赤光」の創造の巣であったのかと・・・・奇妙な感慨にしばし耽ったのであった。

 

一般人と差別化された「傑出頭脳」は、なるほど学者たちにとって研究の対象としては興味深いものがあり、その研究は体系づけるようにして今日まで受け継がれているようである。しかしポジがあればネガの研究もあってしかるべきである。つまり犯罪者たちが、なぜ糸が切れたようにそれへと暴走してしまうのかという、その因子も又、脳に何らかの共通した証しが見てとれるのではないかと思うのである。しかし、私が聞く範囲に於いては、そういった暗い研究は行われておらず、又、その脳もポジの文化人のようには入手しにくいのであろう。とはいえ、昨今の閉塞した社会の映しがかつて無かったような犯罪を生み出している今日に在っては、この方面の研究にも本腰を入れてみる意味があるのではないだろうか?

 

先日、関東地方が雪で白く染まった日、私はアトリエで、3月初旬から森岡書店(東京・茅場町)で始まる新作個展のための作品を作りながら、窓外に降る雪を眺めて、数日前に私に殺人予告の手紙を送りつけてきた犯人の版画家Kの事を、ふと考えていた。そしてPCの遠隔操作で、やはり同じく殺人予告をして遂に逮捕された男、又、グアムの無差別殺人犯や、かつての秋葉原の無差別殺人犯・・・の事を思い、彼らの内に棲まう「魔」の正体について考えていた。共通して云えるのは感情をコントロール出来ず、衝動に走ってしまう、その制御力の無さと脳との関係について・・・つらつらと想いを巡らしていた。自分はこれ以上の筈と思いながら、それが現実には充たされないと、その責任を自分ではなく社会、あるいは他の個人に向けて牙をむく。ちなみに昨今、増加している「鬱病」は、不安な感情を司る偏桃体が血行不良により暴走するのが主たる原因である事は分ってきているが、犯罪へと至る人間の脳は、おそらく共通したもっと根深い部分にその因が共通してあるのではないだろうか・・・。

 

昨日、130年の歴史を誇る神田の「やぶそば」が火事になり、建物が焼け尽くした。この店は明治からの風情が残っており、私もしばしば、その度に違う面々と訪れた事があった。その中に先述した犯人もいた。その時は確か二人の詩人達もいたかと思う。明るく夢を語り、笑い声が時折、店内にも広く響いた。つまりは、・・・若かったのである。そして、その若さの内に巣食っている魔が、ゆっくりとその脳の中に瞳孔を開き始めている事など・・・おそらく本人も知る由もなく。

 

論旨が矛盾するようであるが、私達、表現者の内にもまた、別相ではあるが、魔が棲んでいる。しかし、そのデモニッシュなるものは飼いならさなくてはいけない。故に文体や方法論がその檻として必要になってくるのである。表現者たらんとするならば、いっそう〈意識的〉でならなければいけないのである。脳の負の部分も表現と絡めて対峙していけば、冒頭の漱石のように名作も又、生まれるのである。漱石の脳は病跡学でいうと、分裂症・パラノイア・同一性危機による精神障害・・・など10以上が診断されている。こうしてみると漱石や茂吉に限らず、「傑出頭脳」は対極のそれと同義にもなりうる。犯罪者は日常に牙を向けるが、私どもはそのエネルギーをアーティフィシャルなものへと向けて感性の切っ先を突きつける。その鏡面の向こうに映っているのは、あくまでも自分自身の姿なのである。こうしてつらつら考えてみると、〈芸術心理学〉の最も近い所に位置するのは或は〈犯罪心理学〉であるかもしれないという想いが立ってくるのであった。

 

アトリエの庭が白くなり、雪はその降りがいっそう激しくなってきた。少し積もるかもしれない。薄雪・・・ふと、その言葉から何故か〈プレパラート〉が浮かんできて、漱石の横に並んでいた茂吉の脳の一部が、薄くスライスされていた事を私は思い出した。それは茂吉が『赤光』の短歌の中で詠んだイメージと同じものであった。顕微鏡に脳の切片を入れて、その赤い照射を茂吉は美麗なまでに詠んでいるのである。— 美しい入れ子状の皮肉か。・・・・私は久しぶりに『赤光』が読みたくなってきた。

 

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『切断された絵画』

版画家のMさんから面白い情報を頂いた。オルセー美術館収蔵のクールベの代表作『世界の起源』が、実は切断された部分にすぎず、その顔の部分の油彩画が最近ある骨董店で発見されたのである。周知のとおり、この『世界の起源』という作品は、女性の局部とその周辺の部位のみを描いた作品で、エロティックな画集には決まって登場し、かのデュシャンの『遺作』にも影響を与えたと言われている、云はば、オルセー美術館の裏の秘宝としてあまりに有名な作品なのである。この作品に『世界の起源』という学術的かつ観念的な題が付けられている事が免罪符となっているのか、その直接的な卑猥さにも関わらず、常設として展示されていた。しかし、ここに具体的な「顔」が現れた事で事態も解釈も一変する事となった。おそらくは後世の人が付けたであろう『世界の起源』というタイトルの効力は薄れ、具体的な『或る女人のかくも淫らな肖像』へと一変してしまうからである。ただし現時点では偽物という説もあり、真偽を求めてパリの新聞の評も二分しているらしい。私が見た画像の限りでは細部が見えない為に何とも判断はつきかねるが、古典主義ロマン主義のいずれにも属さず、写実主義の極を生きたクールベの事、彼に限ってこそ充分に描きそうな主題ではある。

 

 

これがもし本物であるならば、絵が切断され二分された理由はほぼ一つに限られる。それは絵の注文主かその子孫が〈顔〉と〈局部〉を二分して売れば、一枚だけより、より高く売却出来ると考えたからである。しかし、ともあれ『世界の起源』に〈顔〉がピタリと符合した事で何とも名状し難いエロティシズムが立ち上がった。フェティシズムと想像力に〈具体的な個の物語〉が絡んできたからである。そして、そこから私は過日に直接本人から聞いた、或る話をふと思い出した。

 

・・・・文芸評論家のY氏は或る日ひょんなことから一冊の写真集を入手した。それは唯、女性の性器だけを、それこそ何百人も撮影した、まるで医者のカルテのような写真集であった。Y氏は、視線の欲望をも美しい叙情へと仕上げてしまう、昭和を代表する詩人の吉岡実氏に電話をして見に来ないかと誘ったのであった。吉岡氏云わく「Yちゃん、ところでそれに顔は付いているのか!?」と。Y氏云わく『いいえ、それだけです。それだけが何百枚も写っているのです」。それを聞いた吉岡氏云わく、「だったら見に行かないよ。なぜならそれは全くエロティックでも何でもないのだから」と云って断ったのであった。この逸話はささやかではあるが、そこに吉岡氏の徹底したエロティシズムへの理念が伺い知れ、私はあらためて吉岡実氏に尊敬の念を抱いたのであった。

 

ところで今回の件のように〈切断された絵画〉の事例は、実は他にもある。例えば、ローマのヴァチカン美術館の秘宝ともいえるダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』がそれである。やはり、顔と他の部分が切り離され、各々別々に近代になってフィレンツェ市内の家具屋と肉屋で発見された。各々を見つけたのは、何故か同一人物で名前は失念したが、確かナポレオンの叔父であったと記憶する。一方の絵は家具屋の店内の扉として使用されていたというから恐ろしい。もう一つの例としては、やはりダ・ヴィンチの『モナ・リザ』がある。現在私たちが見る『モナ・リザ』は描かれた当初は、左右に7センチづつ更に柱が描かれていた。しかしこれを切断したのは画家本人である。『モナ・リザ』は左右に切断された事で、人物と背景との関連と違和は相乗し、唯の肖像画から暗喩に満ちた異形な絵画へと一変した。

 

さて、今回の〈顔部〉が発見された事で、最も当惑していたのはオルセー美術館であろう。分析の結果を待つかのように今は沈黙を守っているというが、・・・・もし本物であったならば、ひょっとすると今までのような展示はもう見る事が出来ないかもしれないという懸念もある。何故なら顔部を併せて展示した場合、そこから立ち上る卑猥さは増し、観光客はこぞってモネやゴッホよりも、そこに集中し、オルセーのイメージは少し歪むからである。しかし彼の地の美術館の学芸員たちは、日本のそれと違い、芸術の本質が何たるかを知っている連中が多い。それが社会学的にしか見せられない、唯の綺麗事としての展示に留っている事を諒とせず、又、彼の地の観客たちの芸術に対する認識も成熟している。もし〈顔〉が本物と認定され展示されたとしたならば・・・・。或は、誰よりそれを見る事を内実望みながら、「こんな不謹慎な絵を・・・・」と絵の前で真顔でつぶやくのは、ツアーでやって来た我が国のご婦人たちかもしれないと、私はこの度の発見に供なって思った次第なのであった。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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