月別アーカイブ: 12月 2015

『 尾道 』

年の暮れになると、何人かの親しい人達からの薄墨色の葉書が届く。喪中のお知らせである。今年も何通か頂いた。… その葉書を読みながら、私は自分の両親が亡くなった時の記憶を重ねてみる。… すると、その人の気持ちと自分のその時の記憶が、一本の哀しみの線で繋がってくる。……とはいえ、私の場合は18才で上京しているので、両親の事を知っているようで、実は聞き漏らした事が多く、自分が生まれる前の両親の半生については断片的にしか知らない事が多い。…その切れ切れの話しの延長に自分がいるわけだから、今いる存在の立脚点も自ずと覚束ないものになってくる。

 

…父親は長男であったが、福井で最初のタクシー会社を作ろうとして親に反対された為に、弟に家を継がせて東京へと出奔。独身時代は東京にいた時が長く、作家の佐藤愛子の兄で、藤山一郎の『長崎の鐘』の作詞などで知られるサトウハチロ−とは、隣人どうしで気が合い、かなりの放蕩生活を共にしたようである。…結婚後は、長崎、呉、横須賀、‥そして尾道で両親は暮らしていたらしい。…戦前、戦中の頃の話しであるが… 。

 

…江戸川乱歩が作家になる前の職業は、屋台の蕎麦屋、下宿家の経営、貸し本屋‥などを幾つもやっていた。つまり怪人二十面相のモデルは乱歩自身であったのである。…それと同じく私の父も幾つもの職業を転々としていたようである。…西洋料理のコック、設計技術師、銀行員etc。…私の母親と出会った時は、父親はネクタイの行商人で、母親はカフェの女給、‥出会った場所は尼ヶ崎であったというから、「上海帰りのリル」や「蘇州夜曲」が何処からか流れてくるようで…かなり怪しい出会いである。設計技術師というのは、造船の話しであるが、これには父親なりの作戦があった。…戦争で日本が負ける事を始めから予見していたので、兵役による無意味な戦死を逃れる方策として技術者になれば内地に残されると判断して、俄(にわか)仕込みで技術師になったらしい。だが俄仕込みとはいえ、戦艦大和の設計にも参加していた事を思えば、呆れる程の徹底した変身ぶりである。赤紙が来た時に、三国連太郎は女と国内を転々と逃げ回ったというが、いろいろな抵抗をした人間が当時はいたようである。

 

…志賀直哉や林芙美子の小説の舞台は尾道が多く、また小津安二郎の映画『東京物語』の出だしと後半の美しいモノクロ-ムの画面には、尾道が美しい叙情を帯びて描かれている。… 両親が亡くなって暫くして、私は無性に尾道に行ってみたくなり、ほとんど衝動のままに列車に乗った事があった。。…母親が時折、尾道の話しを懐かしそうにしていたのを思い出したからである。…何故に尾道に住んだのか?…それが知りたくなったのである。

 

列車が尾道に入る時の感覚は、『東京物語』の冒頭シ-ンと変わらない。そして列車が駅に近づく前に、カンカン…と響いてくるものがあり、それを聞くや私はたちまち両親が尾道に住んだ理由を理解した。…志賀直哉の小説でも描かれているその音は、尾道の瀬戸内の湾に古くからある日立造船所から響いてくる音であり、父は技術師として、この地に母親と住んでいたのがわかったのである。… 不明だった点が繋がったが、しかしこの旅情を誘う尾道の、それほど広くない土地の何処に住んでいたのかを聞き漏らしていたのは、今となっては切ないものである。私は自分の勘を頼りに住んだ場所と覚しき場所を求めて、尾道をくまなく歩いたが、当然解ろう筈がない。…尾道の海の前に古い宿を見つけたので、その夜はそこに泊まった。すると、実家にあった古いアルバムの写真に日立造船所の名前が出ていたのを卒然と思い出した。…今も残るそこに行けば、記録から或いは住所がわかるかもしれない、‥そうかもしれないが、私はそれをやめた。…つまり、忘却の中に封印する事を選んだのである。… 美しい旅情が残るこの尾道の町全体の叙情と両親を重ねる方が、自分の感覚にふさわしいと思ったのである。

 

…その尾道の旅から20数年を経て、私は再び尾道を訪れた。尾道で生まれ、現在も在住されている、デザイナーで私の作品を数多くコレクションされている三宅俊夫さんが福山市立美術館でコレクション展をする事になり、その記念講演者として招いて頂いたのである。ふと思えば、20数年前に、尾道に来て切ない思いでこの町や坂道を歩き回っていた時に、同じこの町にいて既に三宅さんは私の作品のコレクションを始められていたわけであるから、人の縁というものは不思議なものである。最初にお会いしたのは10年ばかり前になるが、三宅さんの第一印象は「何故か既に知っている懐かしい人」として私には親しく思われたのであった。… 西海道の光はあの時と同じく柔らかな明るい光に充ちており、旅情や郷愁を誘って止まないものが、この尾道には変わらずにある。…両親の事を想う時、尾道に住んだ当時の光景が想像の内に生き生きと見えてくる。私の中の遺伝子の記憶の淵から、両親の明るい日々が鮮やかに蘇ってくるのである。

 

考えてみれば、私達の肉体は各々に滅んでも、遺伝子のみは死に絶える事なく、子々孫々へと受け継がれていく。…記憶もまたそうではあるまいか!? 私達は、聞かされる事のなかった父母や、またその昔の遠い祖先の紡いできた物語を、遺伝子のふとした作用の内に感受する事があるように思われる。…記憶の原郷−ノスタルジアがそれである。…ともあれ尾道は、私にとって遠い記憶を揺り動かしてくれる、不思議な懐かしさに充ちた町なのである。

 

 

※ 今回のメッセージに登場する三宅俊夫さんは、私だけでなく、横尾忠則、池田満寿夫、加納光於、瑛九、マティス、…その他、近現代の主要な作家の作品を膨大にコレクションされており、個人美術館『小さな美術館 miyake』を開設して、どなたでも気軽に鑑賞出来るようになっております。
ご興味のある方は、ぜひ訪れてみられる事をお勧めいたします。

 

福山市緑陽町二丁目23-1
TEL.070-5675-6712
bouji161@yahoo.co.jp
www.artarekore.com

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『濱口行雄君』  

昨今は、LINE繋がりによる顔の見えない人間関係が主流になっているようであるが、一度しかない短い人生に於て、やはり生涯の友と呼べる人物が存在するという事は、生きている時間に艶と活性を与えてくれるものである。…私にも幸いにして親友と呼べる人物が何人かいるが、濱口(はまぐち)行雄君もまた、その大切な一人なのである。

 

…私は学生時は多摩美大というところの版画科で銅版画を作っていた。学生達は判で押したように版画協会や春陽会といった、入選→会友→会員→幹部という、つまりは芸術の本質とは無縁の、極めて陳腐な親分・子分の構造で成り立っている版画だけの団体展にセッセと応募していたが、私は違っていた。…銅版画という版画の概念ではなく、銅板という硬質な素材を通してしか出来ない表現とは何か…を目指して作品を作っていた。…結果としては、銅版画の範疇に客観的に見て入るのではあるが、私は、ぬるま湯のような版画の団体展ではなくて、立体や巨大なタブロ-作品と共に審査が競われる現代日本美術展などの、よりハードルの高いコンクールに作品を出品して、学生ながら少しずつ、プロの作家へと歩み出していた。

 

まぁ、つまりは若僧なりに尖った独自な造型思考を持っていたのであるが、…その私を評して〈君の神経は表にまで飛び出している〉と面白がっていた池田満寿夫氏や、〈君のような鋭い感性では、将来絶対に神経が持たなくなる〉と評した坂崎乙郎氏などがいたのであるが、その頃、つまりは20才を過ぎた頃の私にとって、同世代の手応えのある面白い学生は周りに全くいなかった。…濱口行雄君と出会ったのは、その頃である。彼はその時、芸大の学生であった。

 

濱口君と最初に出会ったのは、確か…JAF(ジャパンアートフェスティバル展のパーティ会場であったかと記憶するが、定かではない。…彼はこの時、賽子(サイコロ)を三日間休む事なくふり続け、出たそのサイコロの目を一回ごとに撮影した膨大な行為の記録を円筒状の筒の中に封印した作品を出品して受賞をしていた。…当時はコンセプチュアルアート全盛期であったが、私が気に入ったのは、無為とも映るその行為を実践した事のエネルギーと、何よりも、その完結して見せる際のセンスの際立ちに、強く興味を持ったのであった。…この男は面白い!!…私達はその席上ですぐに親しくなったのであるが、話してみると、共に駒井哲郎氏から学んでいる事を知ったのであった。(それを知るや私達は駒井氏宅に行き、つまらない大学教授などを速やかにやめて制作に徹して頂きたい旨を話し、駒井氏を困らせた事、またその後で駒井氏が天丼を注文して私達の空腹が満たされた事などは忘れ難い思い出である。)…そして、もう一つ、彼は暗黒舞踏の創始者―あの天才と狂気を併せ持つ土方巽に師事する食客のような謎めいた人生を生きている途中なのであった。

 

それから私達は頻繁に会って尽きる事のない話しに興じたのであるが、いつも決まって待ち合わせ場所は、帝国ホテルのロビーであった。…将来我々はひとかどの人物に成ってみせるという気概がそうさせたのかどうかわからないが、お互い貧乏な二人の学生の若僧の姿は、帝国ホテルのロビーではよく目立ち、現れるとお互いがすぐにわかった。…私は多摩美大で、彼は芸大で、共に浮いた存在であったが、今思えば、一種の絶滅危惧種的なところが私達にはあるかもしれない。

 

私達は24才の頃に、各々の生き方に徹する為に不思議な感じで交際は中断し、連絡先も不明になっていたが、ふとした偶然で、神保町の古書店で再会する事となった。…私が寺田透の『解読・ドラクロワの日記』を見つけて本棚から取ろうとすると、片側からずうっと伸びてくる手があった。…それが濱口君との30数年ぶりの再会であった。―お互い横にいるとは知らずに、全く同時に、同じ本に読みたい関心が向かったのである。…私達は再会の幸運を喜び合い、近くの喫茶店で話しこんだのであるが、共に共通の問題意識を持ち、またその分析力の切れ味は相変わらず鋭く、私達はそれが面白く、また嬉しく、お互いに合わせ鏡のようにして話題が転回していった。まるで昨日からの会話の続きのようにして。

 

私達、表現に関わる者にとって、先ず持っていなくてはならない必須なものは、批評眼と分析力である。現代の美術の分野で、全くその人材を欠いているのは、美術評論家であるが、濱口行雄君が語るそれを一冊に記せば、たちまち優れた現代の美術評論書が立ち上がるに違いない。しかし彼はその道ではなくて、近々に写真家として、実に興味深い作品を引っ提げて登場すべく準備を着々と進めている。私はその内容のインパクトある特性から見て、先ずは海外からの発信も面白いと思っているのであるが、果たしてどのように動くのであろうか。細江英公氏とは切り口の異なる異形なる光と闇と、その間に蠢く〈一瞬〉の刻印。その数、1000枚以上!!…その作品を目撃しているのは、今のところ、私と、勅使川原三郎氏の二人だけであるが、今の写真界の空白を埋めるに十分たる写真展の開催が私には待ち遠しくて仕方がないのである。〈この写真については、発表前ゆえに詳細を書けないのが残念であるが、発表の際にあらためてご紹介する予定である。〉 … 高い眼識を持った友人の存在は、私の感性を常に研鑽へと導いてなおも貴重である。長い時を経てのこの良き友との再会は、一つの恩寵のように私には思われるのである。

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『この危機の時代を…』

12月に入って、室蘭で桜が咲き、土佐では土筆(つくし)が伸びて…と、温暖化の異常な様はその狂態をますます顕にしているようである。
10年前、私が『「モナリザ」ミステリー』(新潮社刊)を執筆していた折に、16世紀初頭に於て早々と、「世界は間違いなく水によって滅びる」と予言したダヴィンチの断定の根拠を調べるべく、近年の気象と自然破壊との関連を調べた事があった。…その時に読んだ或る研究書には、地球の平均気温が更に2度上昇すると、海面はおよそ6メ-トル高くなって世界は断末魔の様相を呈してくるという事が記されており、驚いたものである。…それから10年が経ち、平均気温は早くも1度上昇して、南洋の島々が水没の危機に先ずは直面しており、…あらためて、ダヴィンチの眼識の鋭さと先見性の深さに畏怖を覚えている次第である。
 
さて、昨日に私は、六本木のWAKO WORKS OF ARTで19日迄開催中のゲルハルト・リヒタ−展と、両国のシアターXで14日迄公演中の勅使川原三郎氏と佐東利穂子さんによる『ゴド−を待ちながら』を続けざまに見たのであるが、各々の表現において共に、福岡伸一氏の『動的平衡』の理論がそこに重なる事に気がついた。
 
リヒタ−の作品(風景写真と、その画面に部分的に刻された、様々な色彩をマ-ブル状に絡ませて波のうねりのように盛り上がった表現)。写真が持つ〈記憶性〉〈停止性〉へと向かうベクトルと、波動、乱舞として一瞬ながら微分的にも映る色彩の仮象。………また、勅使川原氏による、身体の絶対の静まり(停止)へのベクトルと、その真逆の、身体が孕み持つ絶対的な動的放射へのベクトルを拮抗させながら、ダンスというよりも、肉体による未踏の身体詩を立ち上げようとする、その実験性を帯びた試み。対峙し合う二元論の危うい共存。…もはやニジンスキ-や土方巽の表現の時代ではなくて、表現者もまた、引用と分析とその試行を実は入れる事の必要を熟知している、この表現者たちのそれは、まさしく福岡伸一氏の『動的平衡』の理論と重なると私は見てとったのであった。公演後その事を勅使川原氏に話すと、果たして、福岡氏の『動的平衡』の続編の中で、勅使川原氏のダンス表現と動的平衡の絡みが言及されているとの由。私は自分の直感が的を得ていた事をその場で確認したのであった。ではそもそも、その動的平衡とは何なのか!?……残念ながら、この動的平衡の理論について、この欄で語る事は字数に於て物理的に不可能である。…ご興味のある方は、リヒタ−展と、勅使川原三郎氏のダンスに触れて、福岡伸一氏の本を直接お読みになる事をお薦めしたい。福岡氏のこの理論は、更にその上を詰めると、美とポエジーの核にまでも迫りうると言っても過言ではない、スリリングな書物である。

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『宗達②』     

今から10年以上も前の事であるが、〈生きた伝説〉という人を、一度だけ見かけた事があった。鎌倉の浄明寺そばの合田佐和子さんという画家のお宅でお茶を飲んでいた時に、庭の向こうの路地裏をゆっくりと歩いている、老嬢と覚しき一人の女性の姿が目に映った。…大柄であるが、秘めた気品というものが窓越しにも伝わってくる。「…原節子よ」、合田さんのその言葉よりも早く、私はそれを直感していた。小津安二郎の『東京物語』の名場面が、そこに重なって見えた。…何やら不思議な時間感覚が、そこに立ち上がり、一瞬後に…幻のように、それは消えた。

 

さて、宗達である。…私は朝の8時半頃に八坂神社下からタクシーに乗り、七条にある京都国立博物館へと向かった。開館は9時半であるが、長い行列を予想していたのである。…博物館前に車が着くと、果たして既に100メートルばかりの列が出来ていた。…光琳以降の、いわゆる琳派と称される作品も多く展示されているが、この日の私は〈宗達〉一人しか眼中になかった。宗達の描いた《風神雷神図屏風》を模写した光琳と、その光琳の絵を模写した酒井抱一の屏風が残っているが、そこに歴然と立ち上がる宗達の圧巻に比べ、光琳・抱一の技量の貧なる事を見ても自明な事であるが、宗達と、光琳・抱一では、表現の幅と深み、つまりは芸術における格が数段も違うのである。

 

…私が未だ30代の頃に『容器』という、1人の木口版画家と2人の詩人、そして私の4人から成るマニアックな同人誌を作っていた頃があった。…この4人の何かの話の流れで、宗達と光琳のどちらを選ぶかという話になった。私はむろん宗達を挙げたが、3人は光琳が良いと言う。木口版画家はさて置くとして、私は2人の詩人の認識のありようを疑った。彼らが神と仰いでいるこの国の最高の詩人、西脇順三郎が昭和27年の『詩学』に書いた一文…「モダニスムの点から見ても、光琳よりも遥かに宗達の方が優れている」という言葉や、漱石の手紙の一文「…宗達の画が大分出ていました。何だか雄大で光琳に比べると簡撲の趣があります」という言葉があるのを、知らないのであろうかと訝しんだのであった。…この『容器』という同人誌から去ろう、そう決断し、それをすぐに実行した。…エビフライと鰻のどちらが好きか?という、云わば、明晰さを欠いた印象批評(気分や趣味のレベルの考えを語る事)に、私は興味がない。私ども表現者がこと芸術において語るべきは、骨太の論理的構造に裏付けされた発言と眼識でなければならない。……そんな遠い昔の事を思い出しながら、私は会場内に入った。先ずは、宗達下絵と本阿弥光悦筆による〈鶴下絵和歌巻〉が目に飛び込んで来た。そして、日本芸術史上の白眉とも言える《風神雷神図屏風》が…目に映った。

 

光琳には《紅白梅図屏風》と《燕子花図屏風》の二点が、抱一には《夏秋草図屏風》の一点が奇跡的に在る事で優れた絵師たりえているが、それ以外の絵はかなり難である。それに比して、宗達はいずれもが、あえて謂えば、その強さと気宇の壮大さを持って、バロックの韻さえも帯びている。「…その構図の奇抜さ、大胆さ、破調が、色彩や、細部の工夫によって補われて、そこにいはば、剛毅な魂と繊細な心とが、対立し、相争うたまま、一つの調和に達している。装飾主義をもう一歩といふところで免れた危険な作品。芸術品といふものは、実はこんな危険な領域にしか、本来成立しないものだ。〈後略〉」と、三島由紀夫は宗達について鋭く記しているが、彼のこの一文と、松本清張の『小説日本芸譚』(新潮文庫)の〈本阿弥光悦〉の章における宗達への記述を読めば、あるいは宗達芸術の核に触れ得るかと思う。…ご興味のある方にはお薦めしたい本である。

 

…数時間をかけて、私は宗達のオリジナルに触れて、その原質を堪能した。私の好きなマチスの言葉〈豪奢 静謐 悦楽〉が、ふとそこに重なってくる。〈眼の享受と至福〉…私はたっぷりとしたものを吸い込んで、会場を後にした。12月からは、また新たな制作の日々が待っているのである。

 

 

 

 

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