樋口一葉

『何故、川端康成はそれについて黙っていたのか…完結編』

今年もアッという間に年末になってしまった。…12月になると、ジンタの楽隊のように遠くから〈クリスマス〉という響きが聴こえて来る。…私は耶蘇教の信徒ではないので別段関心はない。…むしろクリスマスと聴くと、私の耳の中で変換されるのか、…クリスマスが→苦しまず、に聴こえて来てしまう。…出来るならば…苦しまずに一瞬で逝きたいものだ…と。

 

 

 

…さて、12月に入ったある日の事、私は日本橋人形町の老舗洋食店『小春軒』に入って早めの昼食を食べていた。…店の隣は文豪・谷崎潤一郎の生誕の地である。

 

 

 

 

…出てきた好物の海老フライを食べながら幼年時代の谷崎について考えていると、そのライバルであった川端康成の事が浮かんで来て、あれこれと思う事があった。今回のブログは、それについて書くのである。

 

 

 

…この国が戦後にやってしまった愚策の代表的なものが2つある。1つは抒情豊かであり、先人達との魂の結び付きの深かった地名(町名)が1962年に変更になり、何とも褪せた浅い名前になってしまった事である。…例を挙げれば、小石川初音町が→文京区小石川1~2丁目に、また、樋口一葉が住んでいた本郷菊坂町が→文京区本郷1~2丁目に、湯島天神町が→文京区2~3丁目…といった具合に。…この愚策を、第二の東京大空襲と評して怒った人がいるが至言かと思う。

 

…もう1つが、教科書からルビを無くしてしまった事である。…「日本の戦後教育の大誤算の一つは、ルビをなくせば漢字学習の民主化が徹底されると考えて、あの便利なルビを極力一掃してしまったことであろう。じつに馬鹿げた発想というべきだ。…」と、澁澤龍彦は自著『狐のだんぶくろ』の中で書いているが、この愚策を考えた役人は万死に値するといっても過言ではない。

 

…さて、そのルビに関してであるが、川端について小春軒でつらつら考えていたら、今まで全く考えていなかった或る疑念が卒然と湧いてきた。……それは川端康成の代表作である『雪国』のまさしく冒頭に書いてある「国境」の文字であるが、あれは本当は、「こっきょう」でなく「くにざかい」と読むのが正しいのではないか⁉…という疑念である。日本語本来の読みは訓読み(和語)が正しいので、当然くにざかいが正しい。…しかし今では当然のように「こっきょう」と皆が読んでいる。川端自身もそれを否定していない。…確かにその方が勢いがある、しかし、川端の抒情豊かな世界から見ると、この勢いは…いささか速すぎる感があり、列車から見る風景に、哀しみを含んだ村々の景色がありありとは見えて来ないのである。

 

……早速アトリエに戻って調べが始まった。…そして驚いた。…私が懐いたこの疑念は当たっていて、文学界でも未だに結論がつかないまま論争中なのだという事がわかり、俄然面白くなってきた。……事実、川端自身が武田勝彦(武田はくにざかいが正しいと読んでいる)との対談で「くにざかい」の読みを諾なっているのであるのを知った時に、徹底して詰めて考える私は、これはミステリ-として実に面白い…と思ったのであった。…つまり、誰よりも美しい日本語に厳しい筈の、しかも作者自身である川端康成が、「こっきょう」の読みも否定せず「くにざかい」の読みも諾なっている事のこの曖昧さ。もっと言えばいい加減さ。……その川端自身の曖昧さの奥にある、秘めた心理の実相を開いてみようと私は考えたのである。

 

…川端のもう一つの代表作は『伊豆の踊子』である。清らかな14歳の踊子に惹かれる、孤独な青年を美しく描いた、あまりにも無垢な短編小説。…しかし、この小説が誕生する裏には1冊の本の存在が原点となっている事はあまり知られていない。

 

田山花袋が大正7年に書いた『温泉めぐり』がそれである(ちなみに伊豆の踊子は大正15年に発表)。

…田山はその本の中で書いている。(湯ヶ野にある温泉宿の福田屋の湯槽からは、向かいで湯浴みする旅芸人の若い娘たちが見えた)という意味の事を。

 

……それを結び付けたのは猪瀬直樹の川端康成と大宅壮一に関する著書である。猪瀬の調査は川端自身が書いている気象の記録までを精査した徹底ぶりで、まるで偽証やアリバイを覆すようで面白い。…濁った視線の欲望から結晶化した無垢なる産物『伊豆の踊子』の生誕逸話としては実に面白い。

 

…さて、その猪瀬の本が出る遥か前に、一人の美大の学生が、中伊豆のその福田屋に泊まり川端が入った浴槽につかった。……「私」である。

 

 

 

 

 

 

部屋で名物の猪鍋を食べていると仲居がやって来て、(このお部屋は百恵ちゃんも泊まったんですよ)と嬉しそうに話した。

 

…はて、百恵ちゃん?…伊豆の踊子に主演した山口百恵の事か、なるほど、そう思った。

 

 

 

…私は学生時は梶井基次郎の文章が好きで、彼が泊まった『落合楼』に翌日は泊まり、大学の寮に戻ってから50枚ばかりの論文『伊豆の踊子小論』を書いた。

 

川端の資質の内に生来ある突然の時間感覚の飛翔性に及んだもので、…その論旨は、川端も評価していた伊藤整の伊豆の踊子論と重なる視点だったので、大いに自信を得たが、銅版画の制作が忙しくなってきたので、文芸評論家への道はやめた。やめた後に、文芸でなく美術評論を手掛けるようになり、それは『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)や『美の侵犯-蕪村x西洋美術』(求龍堂刊)となり、美術書としては異例の増刷となった事は善い事である。

 

 

 

…さて急いで結論に入ろう。…私はこう考える。…つまり川端自身が当初思っていた以上に作品は独り歩きを始め、いつしか作者を離れて『雪国』は川端の生涯を代表する名作であるばかりか、日本の近代文学を代表する名作となっていった。

 

……本当は国境は「くにざかい」と読むつもりで抒情豊かに書いたのであるが、自分がまさかのルビを打たなかったばかりに、いつしか「こっきょう」として読まれ始め、その速度感が読者にも気持ちよく響いて広く知られる事になり、口々に誰もが知る〈国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。…… 〉になっていった。……ここに至って、(くにざかい…と訂正を入れる事にもはや意味はないだろう。…このまま曖昧なままでいよう。それがいい。…それでいい。)…彼の内なる生身の俗性と野心はそう思ったと私は視る。

 

 

 

俗性と野心?…私は今そう書いた。…………後年に、(今回は私に譲って欲しい。)…ノ-ベル賞受賞が決まる前に、川端が、今一人の候補者として下馬評が高かった三島由紀夫に書いた焦りとも映る、手紙で見せたノ-ベル賞受賞という栄誉への異常なまでの執着は凄まじい。

 

 

…受賞の決定は三島が審査するわけではないのに、そこまで見せてしまった俗を極めた名誉欲に映る様は、ある意味、不気味ですらあるだろう。

 

…………この受賞以後、川端の執筆はその勢いを停めてしまい、自裁した三島由紀夫の幻を度々視るようになり、睡眠薬への依存はやがて、誰もが知る逗子マリ-ナでの終焉へと繋がっていったのである。

 

 

…さて最後にささやかな秘話を一つ書こう。…実は川端康成は1971年に①仰天すべき或る事をしてしまった。…もしこの事実が明るみに出れば、新聞は一面に載るばかりか、ノ-ベル賞の歴史までもが根底から覆る出来事なのである。…さすがに私でも、それをここで書く事は憚られる、秘密にしなければならない質の、それは内容なのである。……日本の文芸界の裏の秘話を実によく知る知人から最初に聞いた時は、私もさすがに疑った。…しかしあの川端ならあり得ない話ではないな‼…私はすぐに切り替えた。

 

……②話は全く変わるが、1971年に秦野章(元・警視総監)が都知事選に立候補した時に、川端康成が応援演説で登場した時、世間は大いに戸惑い、川端という人物に疑問を呈した事があった。…政治には全く関わりを持たない事を信条としていた、あの川端が何を考えているのか理解に苦しんだのである …。

 

さて、今書いた①と②は各々が別な2つの点である。…しかし、この2つの点に1本の線を引いたとしたら、さぁどうだろう。……直観の鋭い、このブログの賢明な読者諸氏の中にはピンと来た方がおられるのではあるまいか。…ヒントを?…ヒントなら今回のブログの中にそっと伏せたそのままに。…とまれ、「事実は小説よりも奇なり」を地でいく、それは話なのである。どうしても知りたいという方は、いつか、人形町の小春軒でお会いしたその時に。………………

 

 

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『台風直下に登場する宮沢賢治』

…かつて死者3000人以上を出した伊勢湾台風に匹敵する強烈な台風が発生し、九州地方で猛威を奮った後で、今、東へと向かっている。…このブログを書いている時点で、ようやく台風は熱帯低気圧に変わったが、これから関東にやってくる為、まだ大量の雨の心配が残っている。…止まらない海水温度の更なる上昇は、来年以降、前代未聞の破壊力を持った台風へといよいよその狂暴さを増していく事は必至である。…(ここはヴェネツィアか⁉)と映るほどに、特に東日本は水都(いや廃都)と化し、車が水に漬かっている光景が、もはや日常的になって来た。

 

山は常に大量の水を孕んでいるので、今や何れの山も、実質は砂山のように脆い。特に、山を真後ろに背負って暮らしている人々にとっては、梅雨から秋まではメメント・モリの心境ではあるまいか。

 

人類におけるカタストロフ(悲劇的な破局)が、遠くから次第に、うっすらと視えて来てでもいるような…………

 

 

…話は変わるが、少し前に親しい知人の方から、私の書いたいわゆる直筆原稿なる物がオ-クションに出品されているという事を教えて頂いた事があった。…寝耳に水の事で早速ネットを開いたら、確かに私の書いた原稿が、入手した誰かによって出品されていた。…それも原稿3枚で3万円の高値であった。競売でこれから更に上がっていく気配で、私は驚いた。原稿が高値で流通しているという話は小説家ではよく聞くが、美術家では例がない。

 

…小説家の直筆原稿で一番高いのは、漱石樋口一葉を筆頭に、三島由紀夫もかなり高い。…私の価格のクラスでは、色紙の北原白秋がやや近いか。……その話を友人に話したら嬉しそうに喜んでいる。彼が持っている私の年賀状や手紙に未来を託してでもいるのだろうか。…しかし当人の私としては疑念が残って気持ちが悪い。…ネットで視た私の原稿は30年以上前に書いた原稿で、老舗書店の丸善から刊行しているお堅い冊子に書いたものであったと記憶する。確か英文学者の高山宏氏からの依頼で書いた原稿で、その号には荒俣宏氏ほか何名かの方も書いていた記憶があった。

 

…(何故、その原稿が流れてオ-クションに出ているのであろうか??)…流して売ったのは誰か!?まさかとは思うが、消去法で考えていくと、忽ち一人の人間に辿り着いた。丸善の当時の編集者である事は間違いがない。…そう思うと、その痩せた小柄な編集者の顔や姿がありありと浮かんで来た。…当時私はシェイクスピアに関心があったので彼にその話をしたら、頼んでもいないのに直ぐに分厚いシェイクスピア学会の大事な名簿のコピ-を送って来た事があった。(この人物、ちょっとバランスを欠いているな)…そういう印象を、その編集者に持った事が思い出されて来た。…

 

高山宏氏から自由に書いてほしいと言われたので、私は宮沢賢治と、アッサンブラ-ジュの先駆者として知られるジョゼフ・コ-ネルに共通する試論のような事をその原稿に書いた。……宗教を信仰するという事は、ある意味、他力本願の要素があるので、自力を持って道を切り開く事を旨とする表現者とは道が違うと思われる。少なくとも私自身はそう思っている。…しかし客観的に考えてみると、私の知る限りでは、二人の表現者が宗教の教義を背景にして創作活動をしていたな!…という共通点が見えてきた。…それが宮沢賢治でありコ-ネルなのである。私はその事をその原稿に書いた覚えがある。…

 

周知のように宮沢賢治は法華経との出逢いにより、あの特異な宇宙観を自らの物とした。…一方のコ-ネルが信じた宗教はクリスチャン・サイエンスというキリスト教系の新宗教で、世界は、つまりはイリュ-ジョン(幻影)であるという考えである。なるほど、その視点から視るとコ-ネルの消え入りそうな表現世界の芯がそこには視えて来る一面がある。

 

 

…ちなみに拙著『美の侵犯-蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でもその事が出て来て、更にミステリアスなコ-ネルの震撼すべき姿へと話は発展して書いているので、ご興味があり、まだ未読の方は、お読み頂けたら有り難い。

 

…今年の始め頃から何故か宮沢賢治の事が度々気になって仕方がない。文芸史の域を超越した彼の表現世界の特異さに関心がやたらに行くのである。…私が何か或る事を強く思っていると、向こうからそれがやってくるという事は度々あるが、今回もそういう事が起きた。横浜高島屋美術部の荒木さんから、宮沢賢治を主題とした展覧会を今秋(10月9日から14日まで)開催するので、という出品依頼が届いたのである。

 

…私は秋(10月2日から)の日本橋高島屋の個展と、11月29日からの名古屋画廊への出品予定があるが、宮沢賢治ならば話は別とばかりに、6月に宮沢賢治作品への想いを具現化した一点の作品を作り、その作品に『幾何学に封印された銀河鉄道の幻の軌跡』というタイトルを付けた。…すると先日、荒木さんから自作に寄せた文章を書いて欲しいというメールが来たので、私はそれを一気に書いた。今回のブログはそれを掲載して終わろうと思う。

 

 

「『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニと、親友のカムパネルラとの薄雪の結晶のような透視的なまでの詩的叙述の旅。

……賢治の特異な宇宙観や自然界との強い交感力は、現実の世界とは異なる位相への同化を希求してはじめて獲得出来た、云わば自己放棄ゆえの精神的な達成であった。

……本作品『幾何学に封印された銀河鉄道の幻の軌跡』は、その詩的結晶に迫る試み、…語り得ぬゆえの、オブジェに秘めた硬質な試みである。」

 

 

 

 

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『五月、狂った季節に私は金沢を歩く…の巻』

…別に生き急いでいるわけではないが、この5月は、私の作品を展示する展覧会が4ヶ所で企画されて開催中、または開催予定である。順に挙げれば、①金沢の画廊『ア-ト玄羅』で個展が5月9日から6月2日まで開催中。②本郷の画廊・ア-トギャラリ-884で、5月11日から19日まで、コレクタ-の大湯祥蔵さんのコレクションの中から私の作品だけを選んだ展覧会を開催中。③半蔵門にある執行草舟コレクション/戸嶋靖昌記念館で4月30日から8月31日まで「砂の時間」展と題して執行草舟さんの膨大なコレクションの中から、本展のテ-マに沿って選ばれた作品を展示中。私の作品も7点ばかり展示されている。④千葉の山口画廊で今月の22日から6月10日まで個展「直線で描かれたブレヒトの犬」を開催予定。……以上、この全てについて書くと長い文章になってしまうので、③④は次回のブログで集中的に書く事にして、今回は①と②の展覧会に絡めて書くとしよう。

 

 

昨日の9日(個展初日)の昼過ぎに、金沢の画廊「ア-ト玄羅」に行き、オ-ナ-の黒谷誠仁さんに一年ぶりに再会する。また、私の個展を度々開催して頂いている富山の画廊「ぎゃらり-図南」の元代表の川端秀明さん・悦子さんご夫妻が黒部から、そして今回の個展開催に尽力して頂いた今村雅江さんが高岡から各々来られて、久しぶりの嬉しい再会が実現した。川端さんご夫妻、そして今村さんはもはや私にとって大事な親友のような人達である。…画廊の展示は黒谷さんのセンスが光り、作品が緊張感を放っていて見応えのある個展会場になっている。…会場には案内状をご覧になった方が早々と来られ、黒谷さんの話を聞きながら暫し選択に迷われた後で、一点のオブジェ作品を選ばれて行かれた。…その後で新聞社の方が取材に来られたので少しばかり自説を語った。…夜は黒谷さんが旧知の香林坊の東南アジア系のお店で、食事をしながら様々な話を交わした後で散会。……店を出ると5月にしては異様な寒さである。世界の狂いが、いよいよその顔を顕にし始めた観がある。

 

……私はホテルに一泊した後、翌日は短い時間であるが、風情ある浅野川河畔に焦点を絞って歩いた。先ずは「泉鏡花記念館」に行く。会場内のビデオで、独文学者の種村季弘さんの、水を主題とした泉鏡花論を聞く。見事な論でさすがである。

…種村さんが亡くなられてから久しいが、久しぶりに再会した気分がして懐かしかった。他に、川村二郎さん、坂東玉三郎さんの話も聴いた。各々の話に鮮やかな切り口があって実に面白い。……泉鏡花に関しては、以前から樋口一葉との関連で気になる点があるので、掲載されている年譜の明治28年の或る時(それは春)に絞ってそれを推察する。…私が秘かに抱いているこの或る設問は、数多の泉鏡花研究家が見落としている、心理の深奥に焦点をあてたミステリアスな件なので、いずれまとめて書く事になるであろう。

 

 

…記念館を出て、次は江戸時代からの男女の秘め事を演出した石段の隠れ道で、鏡花も幼少時に歩いたという昼なお暗い「暗がり坂」を下りて、光り降る浅野川河畔に出た。

 

 

 

 

 

 

 

…次に向かったのは、明治の末期から残る西洋レストラン『自由軒』である。…開店前に既に行列。…この店のお薦めはオムライスであるが、私は海老フライと焼き飯を注文した。実に美味でありお薦めである。

 

…夕方に横浜のアトリエに戻る用事があるので、浅野川の橋上でタクシーを拾って金沢駅へと向かった。…私はタクシーに乗ると、運転手の人によく話しかけるタイプである。…地方の美味しい店などは訊かない。…私が訊ねるのは決まって歴史の闇や不穏な話題である。…(金沢はどうして戦災にあわなかったのでしょうか?)から始まり、お決まりのタクシー強盗の話題になった。…こういう話は、意外と運転手さんはのって来る人が多い。身近でリアルだからであろう。…(犯人は実行するか否かを決める時に、運転手さんの首の太さで決めるようですよ)という、以前に向田邦子さんがエッセイに書いていた話をすると、真剣な反応が返って来る事が多い。

 

今回の運転手さんは当たりであった。…何と2年前にそのタクシー強盗に遭遇したと言う。…私は思わず身を乗り出して話の続きを訊いた。(いきなり、針金を首に巻かれましたよ‼)と運転手。…(犯人の共通した点は何だと思いますか?)という私の問いにその人は(先ずは、一人で乗る、かなり遠方の地に行ってくれ…という、そして、途中で不自然にコンビニに立ち寄る)らしい。…(なるほど、タイミングを謀っているわけですね)と私。(えぇ、そうです、そうです‼)と言っている間に、金沢駅に着いた。(有難う、勉強になりました。)と私。……一体それが何の勉強かは、誰も知らない。

 

 

 

【ア-ト玄羅】

北川健次展「ヴェネツィアの春雷」

5月9日(木)~6月2日(日)

13時~17時30分 (定休-月・火・水)

〒920-0853
金沢市本町2丁目15-1  ポルテ金沢3F

TEL076-255-0988

 

 

 

…さて次は、個展ではなく、コレクタ-の大湯祥蔵さんの『コレクタ-による北川健次展-まなざしの断片-「身体」「詩学」「記憶」』である。…大湯さんが収集したコレクション数は実に800点以上を越えるというから驚きであるが、その中でも私の作品数が一番多く、100点以上の作品がコレクションに入っているという。…2年ばかり前であったか、その大湯さんからコレクション展の構想を伺った時は非常な興味に駆られたのであった。…この寡黙にして間違いなく慧眼な感性を持った人の美の基準なるものを以前から具体的に知りたいという興味があったが、それが漸く垣間見れる事になるからである。…しかし、金沢から戻って来て、今このブログを書きながら、近々に訪れて観る事を予定している大湯さんの展覧会に意識が集中しているようで、どうも落ち着かないのは何故であろう?。…大湯さんのコレクションは私の初期から現在に到る迄の広範囲なものであるが、それは私が既に閉じたと思っている極めて私的な日記をゆっくりと開くようで、或いは開かれるようで何とも不思議な感覚なのである。……とまれ、今回の展覧会に寄せて素直な気持ちで文章を書いたので、それをこのブログの最後に掲載しておこう。…願わくば、コレクタ-によるコレクション展という、美術館の個展以外ではなかなか実現しないこの稀有な展覧会を、この機会に一人でも多くの方に御覧頂けたら幸甚である。

 

 

 

冷静なる熱狂ー大湯祥蔵氏のコレクション展に寄せて

北川 健次(美術家)

 

 

私のアトリエの壁には所狭しと多くの作品が掛かっている。それらは縁あって入手した不思議な漂流物のようである。例をあげれば、ルドンジャコメッティヤンセンホックニーゴヤレンブラントヴォルス・・・等の西洋版画の類、更には川田喜久冶榎村綾子の写真作品、或いは駒井哲郎月岡芳年広重などの日本の版画などである。時に作品を掛け変えるが、全く飽きる事はなく、それらの美の結晶は制作者としての私を励まし、より高みへと誘なうように鼓舞してもくれる貴重な存在なのである。

 

私は美術家という作り手の側からの、それらはコレクションであるが、一方で、生涯を賭けて照準を絞るように集中的にコレクション収集を行っている人達がいる事を私は知っている。その人達は作品を作るのではなく、収集するという行為を貫ぬいて、その総体をもって自らの独自な肖像を立ち上げるという、強度にして冷静な熱狂に生きる人達である。「収集するという行為もまた創造行為である」という言葉があるが、それを身を持って実践している高い純度を持って生きている人達である。その代表的な一人に大湯祥蔵氏がいる。氏の存在を知るようになったのは、はたしていつ頃からであろうか。それが不思議と思い出せないでいる。既に初めからこの人を知っていたようにも思われる、寡黙にして内に熱狂を秘めた大湯氏は実に不思議な存在感を持った人である。

 

先日、機会があって氏のコレクションについて詳しく伺った事があった。荒川修作フォートリエタピエスメリヨン池田満寿夫ベルメール他・・・そのコレクションは既に800点以上を超えているというから、コレクターとしても稀な驚異的な数字である。そのコレクションの中では私の作品が最も多く、ゆうに100点以上は超えているという。

 

その大湯氏がこの度、私の作品のみを選んでコレクション展を開催するという。私の手元にはもはや残っていない初期の版画からオブジェの近作まで厳選されたおよそ30数点になるというが、どういう展示になるのか私には全く想像がつかないでいる。何故ならそれらは間違いなく私の作品でありながら、大湯氏独自の感性や美意識によって、時を経ての重なりを帯びたもう一つの何ものかに変容してもいるからである。私は作品を立ち上げた作者であるが、作品は、それをコレクションしている人が日々の観照を通して交感を交わして来た結果、云はばもう一人の作者が存在するという二重の相を奏でてもいるからである。個人的に云えば、失われた秘めた日記との私的な再会のようなものでもあるが、大湯氏、そして来場された人々にとっては、新たな発見がそこに息づいているに相違ない。このコレクション展は、その意味でも特別に希有な展覧会なのである。

 

 

 

【ア-トギャラリ-884】

『コレクタ-による北川健次展-まなざしの断片-「身体」「詩学」「記憶」』

5月11日(土)~5月19日(日) 〈定休-月〉

11時~6時 〈最終日は4時に閉廊〉

〒113-0033東京都文京区本郷3-4-3

ヒルズ884お茶の水ビル1F

TEL-03-5615-8843

 

 

 

 

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『日暮里に流れている不思議な時間…』

…今年は展覧会が5ヵ所で予定されている。…5月は金沢のアート幻羅(5月9日~6月2日)と千葉の山口画廊(5月22日~6月10日)での個展。金沢は初めてなので、私の今迄の全仕事総覧。千葉の山口画廊は全く新しい試みと挑戦による鉄の新作オブジェを中心とした展示。10月9日~14日は横浜の高島屋で、これは個展でなく、宮沢賢治の世界を主題としたグル-プ展。…10月2日~21日は日本橋高島屋ギャラリーXでの大きな個展。11月29日~12月14日は名古屋画廊で、ヴェネツィアを主題とした、俳人の馬場駿吉さんとの二人展である…。今はアトリエで制作の日々であるが、それでも忙中閑ありで、時間を見つけては度々の外出の日々であり、数多くの人と会っている。

 

…その中でも一番多くお会いしているのは、このブログでも度々登場して頂いている、真鍮細工などの超絶技巧の持ち主である富蔵さん(本名、田代冨夫さん)である。富蔵さんは、パリで昔建っていて今は無い建物とその一郭をアジェの古写真を元に精密に真鍮で再現し、その時に流れていた時間や気配までもそこに立ち上げるという、不思議なオブジェを最近は集中的に作っていて、作品のファンが多い。…富蔵さんとは初めてお会いした時から波長が合い、前世からのお付き合いが現世でもなお続いているような、懐かしの人である。昨年からは特に制作の具体的な話から、文芸の話、幼年時代の記憶までも含めて幅広い内容でお会いする事があり、私には気分転換と充電を兼ねた密にして大切な時間がそこに流れているのである。…待ち合わせ場所は決まって日暮里の御殿坂の上、谷中墓地の前にある老舗の蕎麦屋『川むら』であり、その前にあるカフェでさまざまな事を語り合っているのである。

 

3月のある日、その日も富蔵さんとの約束の日で、私は日暮里駅を降りて、御殿坂を上がっていったが、未だ約束の時間には早すぎたので、坂の途中にある古刹・本行寺の境内に入った。…この寺は江戸時代からの風光明媚な寺として知られ、小林一茶種田山頭火も俳句を詠んでいる。また寺の奥には徳川幕府きっての切れ者、永井尚志の墓があるので、それを見に行った。…坂本龍馬が暗殺の危機にあり、周りから土佐藩邸に入るように勧められた時に、龍馬が「自分は永井と会津に面会して、命の保障をされているんだ」と言った、その永井である。結局、龍馬は中岡慎太郎と共に見廻り組によって斬殺されてしまったのは周知の通り。……ちなみに文豪の永井荷風三島由紀夫の先祖である。

 

…墓参して引き返す時に、面白い光景が目に入った。…寺の塀に沿って夥しい数の卒塔婆がズラリと立ち並んでいるのである。その向かい側にはすぐに家々が建っていて、明らかに、その部屋から見える朝からの光景は、障子や窓越しに並んで立っている、卒塔婆、卒塔婆…のシルエットなのである。私はそれを見て思った。「…こういう眺めが平気で住んでいる人というのは、一体どういう人たちなのだろうか?」と。映画『眺めのいい部屋』の裏ヴァ-ジョンである。

 

 

…私は卒塔婆の傍に立って、様々な人物像や、その生活の様を、オムニバスの短編小説を書くようにして想像(妄想)した。…すると、何よりも好奇を好む私のセンサ-が強く反応して「いや、きっと面白い人物が住んでいるに違いない」、そう思い、私は待ち合わせ場所の『川むら』の横にある露地へと入っていった。

 

…昭和然とした家々がひっそりと建っている、その先に、はたして一軒の家が目に入った。

 

 

『湿板冩眞館』と書かれた白い看板。そして見ると、この家を訪れて撮影したとおぼしき、女優の杏さんや北野武、草彅剛の写真がその下にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そして、坂本龍馬を撮影した幕末期の写真機を使って、現在も活動中である由が書かれた看板も目に入った。…入ってみたい衝動に駈られたが富蔵さんとの約束の時間である。いったん戻り、再び私達はその家の前に立って、呼び鈴を押した。

 

 

 

中から出て来られたのは、写真家(写真術師の方が相応しい)の和田高広さん。…玄関壁には今まで撮影された人達の硝子湿板写真(その誰もが現代と昔日のあわいの不思議な時間の中で生きているようだ)。

そして、和田さんに案内されてスタジオの中に入るや、そこは、現代の喧騒とは無縁の、まるで時間を自在に操る光の錬金術師の秘密の部屋に入ったような感慨を覚えた。

 

 

…それから、和田さん、富蔵さん、そして私の、表現創造の世界に人生の生き甲斐を見いだしてしまった、云わば尽きない物狂いに突き動かされている私達三人の熱い話が、堰を切ったように、およそ二時間始まった。…話を伺うほど、和田さんが独学で究めてきた、写真術が未だ魔法の領域に属していた頃の世界に私達は引き込まれていった。

 

 

…私は以前のブログで書いた或る疑問を和田さんに問うてみた。…幕末の頃は写真機の前でポ-ズする時間がおよそ30分位は必要と言われているが、私には1つの疑問がある、それは龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎が笑って写っている写真があるが、…30分くらい、人は可笑しくもないのに笑っていられるのか?…という疑問であった。…長年懐いていたこの疑問を和田さんは一言で解決してくれた。…(30分くらい必要というのは間違いで、実際は20秒あれば写ります!と。

 

 

…また樋口一葉が手を袖の中に入れて写っているが、その訳は何故か?…その答えは樋口一葉研究者達を一蹴するような、古写真撮影の現場を実際に知っている人にしかわからない話で、私は長年の疑問の幾つかが、忽ち氷解して勉強になったのであった。

 

…富蔵さんの話も面白かった。話が進んでいくと、富蔵さんと和田さんに共通の知人がいる事がわかってくる。私達はアンテナが何処かで間違いなくつながっている、そう思った。…二時間ばかりがすぎて私たちは写真館を出てカフェに行き、余韻の中で更なる会話がなおも続いたのであった。

 

 

2日後の22日に、東京国立近代美術館で4月7日まで開催中の写真展-『中平卓馬 火/氾濫』展を観る前に、私は今少し和田さんにお訊きしたい事があったので、事前に連絡を入れて、再び日暮里の写真館を訪れた。…すると嬉しい事が待っていた。午後から写真を撮られに来る人がいるので、その撮影の為に感光液を新たに作ったので、(その液の試験に)と、私を撮影する準備が出来ていたのであった。いつか私も生きた証しとなるような記念写真を和田さんに撮影してもらいたいと考えていたのであるが、まさか今日!とは嬉しい限りである。…しかも坂本龍馬を撮したのと同じ写真機で。

 

 

 

……思えばつい先日、本行寺に寄って龍馬と関わりがあった永井尚志の墓を見た帰りに、ふと見た卒塔婆に導かれて、細い露地へと入っていったその先に、このような出会いが待っていようとは、だから人生は面白い。…和田さんの二階から見えた本行寺の墓地は実に明るい眺めで、彼岸の陽射しを浴びて墓参に来られた人達もまた穏やかな会話を交わしている。…最初に予想していた逆で、この部屋こそ正に『眺めのいい部屋』なのであった。…ちなみに、私が撮ってもらった写真の仕上がりは、龍馬というよりは、高杉晋作、或いは石川啄木の姿に近いものであった。

 

 

 

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『2024年…いよいよの波瀾の幕開けか!?』

新年明けましておめでとうございます。今年も命ある限りはブログの連載執筆を続けていきますので、引き続きのご愛読を何卒よろしくお願いいたします。

 

………さて、さて正月と云えば先ず浮かぶのは年賀状の事か?……思い立って明治期の年賀状を調べたら、例えば樋口一葉などは僅かに5通ばかり。他の人もまぁそんなものであった。私なども上京したての頃は知人など一人もいないところから始まったのであるが、生来の明るい社交性が逆に災いとなったのか、年月と共に人とのご縁が雪だるまのように膨み、昨年までは年賀状を数百通も出したり、受け取ったりする始末。……現世で本当にご縁があれば、また何処かで必ずお会い出来る筈!と考えて、今年は濃い血縁者以外の人への年賀状はやめにして、代わりに書き初めの「辰」を書いて、ブログ上からの言寿のご挨拶とする事にした。……それがこれ。書家の井上有一ばりに気合いだけは入れたつもり。

 

 

 

1月1日。さすがにこの日だけは読書だけにしようと思ってアトリエに入ったが、やはり制作へのスイッチが入り、新たな作品作りへと向かってしまった。閃きが洪水のように押し寄せて来て、集中すると時間の感覚さえも無くなってしまっている。ふと気がつくと、14点の具体的な作品構想が出来上がっていた。

 

……4時を少しまわった頃であろうか、突然アトリエが揺れ始めた。……このアトリエの在る建物は地下室もあるので、地盤も含めて造りはかなり頑丈である。なのに揺れるという事は、何処かでかなり大きな地震が発生しているに違いない。……すぐにテレビをつけると、能登半島で震度7、日本海側全域に津浪注意報が出ており、各局いずれも「津浪注意!すぐに避難を!」の声を鋭く連呼している最中であった。……輪島には暗黒舞踏の創始者の土方巽の弟子であった友人がいるので、すぐに電話をしたが、何故か繋がらない。……今度は福井の知人に電話すると「かつて体験した事のない激しい揺れで、次の余震を怖れて、玄関を開けたままの状態でいる」との事。賢明である。

 

……3日経った現在、輪島市、珠洲市だけでも死者は57人に。国土地理院の報告によると、今回の地震で、輪島市が西に1.3m動き、最大4mの隆起による大きな地殻変動があった由。……人知の想像を超えたもの凄いエネルギ―の噴出である。……輪島の友人に再度、電話をしたが今も安否が不明。……大惨事を前にすると、人はかくも無力である事を痛感した。

 

……天災の極みの地震に続いて、翌日の2日、今度は人災の極みとも云える事故が羽田空港で発生した。JAL機が海上保安庁の航空機と衝突し大炎上したのである。乗客乗員379人全員は脱出。保安庁の乗組員5人が死亡。滑走路上でJALの機体は炎上爆発したので379人全員が無事であったのは奇跡といっていいだろう。

 

1日、2日…と立て続けに起きている、この異常な事変。何やらこの一年を、いやこれから先の世界と人心の崩れを暗示したような幕開けと視た人は、私だけではないだろう。…… 想えば、昔日の正月はのどかであった。

 

俳人の与謝蕪村は.正月の言寿を「日の光/今朝や鰯の/かしらより」と詠んだ。……私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)の中で、この蕪村の俳句を読み解き「……ふと思うのであるが、実際は雨や雪の時もあったはずなのに、どうして子供の頃の正月の記憶は、いつも決まったように快晴の日として思い出されるのであろうか。年が改まったことの華やいだ気分が印象として強く残り、澱んだ空までも蒼天の青へと変えてしまうのであろうか。……(中略)……新春のことほぐ心を詠んだこの俳句は、そのような記憶の変容までも想い立たせてしまう言葉の力といったものを持っている。………… と書いた。

 

しかしいつ頃からか、新春の朝に覚えた清浄な初日の光や浮き立つような気分は消え失せ、正月は唯の寒いだけの唯の一日となってしまった。……そして、何か先の方からじわじわと押し寄せて来る不気味な崩壊の予感の内に、私達はいつしか身構えるようになってしまった。…あたかも先方が見えない霧の中、関ヶ原の陣に立って、彼方の丘の方から押し寄せて来る家康率いる東軍に対する、元来が胃弱であった石田三成率いる西の陣地にでもいるような。……便利さに快楽や意味を覚えてしまう私達の迂闊な脳が産んでしまったAIも、小早川秀秋よろしく早々と寝返って絶妙な位置に立ち、総崩れ、人間の総家畜化のタイミングを狙って私達へその槍の鋭い穂先を研いで、あからさまな裏切りの時を計っているのであろうや。……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『……大日本陸軍の闇がそこにはゴッソリと!!』

①……よく知られているように、江戸川乱歩は強度な「隠れ蓑願望」の持ち主であった。自分にまとわりついている社会的な属性を一切捨てて、見知らぬ町に隠れ家を見つけて住み、もう一人の自分として別な呼吸をして生きたいという、一種の変身願望である。私にもそれは多分にあって、時々遠方の地を歩きながら、隠れ家にむいたエリアを物色している時がある。

 

……最近気にいっている場所は谷中・初音町。…(はつねちょう)という響きが実にいい。森鴎外樋口一葉が愛した谷中の墓地からも近く、鴎外の『青年』の舞台としても登場する。必ずやいつか!……と思っていたら、この場所に先客がいるのを最近知った。その住人とは、……ゲゲゲの鬼太郎である。漫画にはこう書いてあった。

 

「……東京に、こんな古めかしいところがあるかと思われるような谷中初音町に……おばあさんと孫が、昔おじいさんが三味線を作った残りかすの猫の頭などを売っていたが、今時こんなものを買う人もない。そこで二階を人に貸したのだ。借りた人は鬼太郎たちである。……」 隠れ蓑願望の強かった水木しげるもまた、谷中初音町にアンテナがいっていたのかと思うと嬉しくなってくる。ともかくそこは、昔から全く時間が動いていない、停止した空間なのである。

 

 

 

②私の出身地である福井のギャラリ―サライ(松村せつさん主宰)では、10年前から隔年毎に私の個展が開催されている。今年はその開催年になり、4月1日から今月末まで開催中である。私は初日から3日間の慌ただしい滞在であったが連日画廊につめていた。……初日の夜は、福井県立美術館、そして福井市美術館の館長はじめ学芸員の人達が多数集まり、歓迎の宴を催してくれた。また3日目は、高校の美術部の後輩達がこれもまた小料理屋での宴を催してくれたりと、懐かしい人達との嬉しい再会の時間が流れていった。

 

中2日目は、福井新聞社編集局の伊藤直樹さんが記事の取材に来られ、私のオブジェの特質である「二物衝撃」と、観者の人たちの想像力の関係の不思議について話をした。伊藤さんは実に思考の回転が早く、話す事の核心を的確に汲み取る人なので、話をしていて実に手応えがあって愉しい。……また、画家のバルテュスとも個人的に親交が深く、近・現代版画の優れたコレクタ―であり、そして私の作品も多数コレクションされている荒井由泰さんが来られ、最近新しくコレクションされたという谷中安規の代表作「自画像」の版画(微妙に刷りが異なる珍しい二種類の版画)を見せてもらい勉強になった。

 

……ギャラリ―サライの松村さんは人望があるので、来客が実に多い。……その中で一人の男性の方が静かに語りかけて来られ、「北川さんは、戦時中に武生(福井県)に陸軍の中国紙幣の贋札工場が在ったのをご存知ですか?」と切り出して来られ、私の関心は一気に沸騰した。この魅力的な切り出しは「その話、じっくり聴かせて頂こうではないですか!」となって来る。……名刺を頂いた。見ると、先ほどの伊藤さんと同じ福井新聞社の論説委員の伊予登志雄さんという方であった。「北川さんのブログは毎回拝読しています。実に面白いので、あのブログは纏めてぜひ本にすべきです」と言われ、有り難いと思う。……それから、伊予さんが語られた話はどれも戦慄する内容の洪水であった。

 

……戦時中の「アメリカ本土を攻撃した風船爆弾」スパイのゾルゲ事件」「人体実験で知られる731部隊」「日本陸軍が作製した精巧な蒋介石の顔を印刷した贋札工場」「帝銀事件」……と、次々に伊予さんが話される大日本陸軍の闇、闇、闇の具体的な話。伊予さんは以前にその関係者や生存者に直接会って取材して来られたという経緯があるので、話の重みと迫真力が違う。そして、それらの実際の現物や資料が、神奈川県川崎市の多摩区東三田にある明治大学生田キャンパス内の『登戸研究所資料館』(この資料館の在る場所が、戦時中に実際の機密組織として様々な研究や活動をしていた場所)に保存されていて一般に公開されている事を教えて頂いた。……松本清張の『日本の黒い霧』『小説帝銀事件』など殆どの著書を読破している私としては、この伊予さんとの出会いは天啓であったと言えよう。

 

〈…………しかし、2年前にこのサライで個展があった時は、佐伯祐三について来客の方と話をしていたら、その隣にいた方が話に入って来て、実に佐伯について詳しく話され、「明日、北川さんに面白い本を持って来るので良かったら差し上げますよ!」と言われ、早速翌日にその方が来られて『二人の佐伯祐三』(馬田昌保著)という本を頂いた。いわゆる佐伯祐三にまつわる贋作事件、それに連座してのこの国の美術評論家の実態、福井の武生市が女性詐欺師に騙された話など、それまで切れ切れであった話がこの本で一気に繋がった。……私の気から発する何かがその人達を喚んでいるのか、ともかく不穏な話、興味深い話が何故か自ずと集まって来るのである。〉

 

 

 

③私はフットワークが実に早く、そして軽い。横浜に戻って直ぐに大日本陸軍の闇を書いた本を図書館で借りて来て読み、件の『登戸研究所』にさぁ行こうとして、ふと郵便受けを開くと伊予さんから詳しい資料が入ったお手紙が届いていた。正にこれから出発という、その絶妙なタイミングである。「今から行って来ます」と伊予さんにメールして電車に乗った。

 

小田急線の生田駅を下車して件の研究所を目指して坂を上がって行くと、まもなく大学構内に入る。……するとさっそく不穏な建物が出迎えてくれた。「弾薬庫」と呼ばれる暗い廃墟である。

 

研究所内に入ると係の方の説明があり、何室かに分けられた資料室があり、731部隊、スパイ養成所であった「陸軍中野学校」、特務機関、諜報・謀略活動……暗殺の為の腕時計…、贋札の実物、…等々、わけても私の注意を引いたのは、部屋の隅にさりげなく展示されていた帝銀事件の際に犯人が実際に使用したのと同じ型のスポイド、被害者の銀行員たちが呑まされて多数が毒殺された湯呑み茶碗であった。実に生々しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……敗戦と同時に「特殊研究」に関する書類や実験器具は焼却、埋設処分するなど証拠隠滅作業は徹底的に実施された由なので、この研究所内に原物がいろいろ展示されている事自体が奇跡に近いかと思われる。研究に関わっていた人達はGHQによって徹底的に尋問を受けたが、不思議にも実際に戦犯指名を受けた者はいないという。何故か!?……考えられる事は唯一つ、731部隊の隊長、石井四郎と同じく、当時のアメリカ軍に情報提供を条件に免責された可能性は大きいが、真相は遂に闇の中へ。………………今回は撮影して来た写真を掲載して終わりとしよう。とまれ百聞は一見に如かず。ご興味がある方は、この研究所見学をぜひお薦めしたいと思う次第である。

 

 

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『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』

毎日人々がたくさん行き交う東京駅には、総理大臣の暗殺現場を示すプレ―トが2つあるが、今ではそれを知る人は少ない。……1つは、大正10年に東京駅丸の内南口改札付近で刺殺(即死)された原敬。もう1つは、昭和5年に東海道本線10番線乗り場ホ―ムで銃撃(後日死去)された濱口雄幸である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日の白昼に起きた安倍元総理大臣の暗殺現場の映像は悲惨なものであった。そして仰向けに横たわる安倍氏の姿は生々しいものであった。その様には、もはや誰も介入出来ない、取り返しのつかない、私達誰もがやがて各々に迎える死の瞬間を代弁して実況しているかのような、絶対の孤独な姿があった。……必死で甦生のマッサ―ジをする人、大声で救急車や近くに医者を求める人々。プロとは言い難い迂闊な失策をやってしまったSPと警官が抑え込んでいる犯人の姿。……その中で、画面に映る安倍氏の姿を観ていて、ふと、正に今、死に瀕したこの人の脳裡には果たして、何が浮かんでいるのかを想像した。(……自分の経験を基にして。)』

 

…………以前にブログでも書いたが、私は2回死にかけている。1回目は2才の時だからもちろん記憶にないが、病弱だった上に流行りの百日咳が悪化して危篤状態になった。(この世に縁が無かった私を憐れんで、棺桶の中に何を入れるかを両親が涙を流しながら相談したという。)しかし、運が良かったのかどうか、当時たまたま承認されたばかりの薬を注射して、奇跡的に死の淵から生還した事を後に母から聞かされた。……2回目は高1の時に体験した溺死に瀕した時である。突然、堰を切ったように水が口の中に大量に入って来た時の、かつて体験した事の無い苦しみの後は、一転して母の胎内に守られて羊水に浸っているかのような幸福感に充ちた感覚の中、天上から実に美しい光が射しはじめ、私は、あぁ何て幸せなんだろう、このままでいい……このままで、もういい……そう、ぎりぎりの意識が感じていた時、……突然救助の手に引き上げられ、先ほどの苦しみを今一度体験した後に、私は感覚が割れるように甦生した。これは、立花隆氏の著書『臨死体験』で、死の淵から生還した人々が語る、柔らかで至福感に充ちた光が射して来たという多くの証言と一致する体験である。

 

 

……人が亡くなる直前、最後まで機能しているのは〈聴覚〉であるという。だから、救急車や医者を求めて叫ぶ声は、彼の脳裡には、おそらく遠くの意味知らぬノイズとして、或いは別な世界のものとして聴こえていたのではあるまいか……。それを聴いているのは、もはや安倍晋三という直前迄の俗名を持った存在でなく、また憲政史上最長の総理職を勤めたという事も既に意味を持たない、ただの素に還元された無垢な魂、例えるならば産まれたばかりの素の意識として最期に聴いたようにも想われる。……或いは、銃弾の破片が心臓を直撃して、心肺停止の自力呼吸が出来ない為のショックにより、コンセントを急に抜くように、感覚も硬直して何もない無と化してしまったか。ともかくそこには絶対の孤独が透かし見えたのであった。

 

 

 

……話は変わるが、以前に井上ひさし氏の本を読んでいて興味深い箇所に出会った。……井上氏は学生時に上智大学で教えている神父に「先生、人は死ぬと天国に行くと言いますが、天国なんて本当にあるのでしょうか?」と質問した。すると神父いわく「天国があるかどうかは、死んだ人が生き返っていないので誰にもわかりません。しかし、天国があると思った方が愉しいではありませんか!!」と。私は神父のこの言葉に膝を打って食いついた。なるほどと!!…信ずる者は救われる、である。しかし、こうも考えた。天国、もしそれがあるとしても、そのイメ―ジとしてある世界はあまりに事も無く、ただけだるすぎて退屈の極みである。何より一番気に馴染まないのは、それが他者の考えた概念にすぎない事である。……信ずる者は救われるならば、私は自分だけの独自な考えで、死を現世からの別れとしてでなく、次なる新生が、その先に在ると考えよう!……そう考えるようになった。

 

……そして考えたのが、死ぬ瞬間に素と帰した魂を翔ばして、私が最も行きたいと熱望している明治26年の、東京は浅草の時空間に行く事である。……何故、明治26年に拘るかというと、度々私のブログに登場する浅草凌雲閣(通称浅草十二階)が、その少し前の明治23年に完成し、またこのブログに、これもまた頻繁に登場する天才女流作家の樋口一葉(本名.樋口奈津、時に夏子)が、『奇跡の14ケ月』と云われる『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』等の文学史に残る名作を書く前の、正に極貧の時に在り(明治29年に24才で肺結核で死去)、荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いていて、朝靄の中で浅草花川戸、今戸橋近辺を仕入れに歩いている、正にその時空間に魂を翔ばして、朝靄の中を歩く樋口一葉の、その謎に充ちた顔を一瞬掠め視てから、次なる浅草凌雲閣へと魂を翔ばし、谷崎潤一郎江戸川乱歩達、数多くの文藝家がその異形なる塔にイメ―ジを触発されて小説にも度々登場した、その姿を仰ぎ見て、魂はその中の螺旋階段を一気に駆け抜け、屋上の展望階から明治26年の東京に魂を放射したいと、ひたすらそう考えているのである。

 

 
……先日、制作の合間を縫って、私の魂の帰すべき場所、明治の面影が僅かに透かし見える浅草の今戸橋、また待乳山聖天辺りを散策した。広重の描いた風情が残る、私の最も好きな場所である。浅草寺や仲見世は人で喧しいが、この場所はたいそう静かで涼やかであった。新生の時は先ずはここから始めよう。私はそう思った。

 

………………「新しい出発だ。窓をもう少しお開け、新生だ、ああ素晴らしい!」と臨終時に話して逝ったのは北原白秋である。白秋の魂もまた新生に向けて至福感の中で逝ったのか。

 

…………とまれ、私もまた死に臨して、白秋のようでありたいと考えているのである。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『……夏の終わりに』

8月に亡くなった兄の納骨のために福井に帰った。……生前に兄と電話で、私達の本当の「終の住処(ついのすみか)」とは何か、について話した事がある。ここで云う終の住処とは、普通に云う「最期を迎える時まで生活する住まい」の事ではなく、死までも含む私達の個々の存在した最終形を云う。私はそれは「永遠の忘却」だと云うと、兄は激しく否定して、あくまでも形ある墓がそれであると云った。兄弟とはいえ、かくも違う事は面白い。私は、この世は全て幻影(イリュ―ジョン)で構築された劇場だと思っており、故に切なく、故に美しいのだと思っている。しかし、兄は形ある墓に意味を見ていたので、私は兄に合わせるべく納骨に立ち会った。台風が近づいているために関東は雷雨であったが、北陸のこの地は逆に異常に暑い日であった。参列者の珠のような汗が乾いた墓石の上に落ちていった。……翌日、まだ新幹線までの時間があったので、知る人ぞ知る奇景の「丹厳洞」を見に行った。江戸時代の医師、山本瑞庵という人の別邸であるが、橋本左内ら倒幕の志士達が密談を交わした場所であり、漢詩の世界のような、絶対静寂の不思議な池に鯉が泳ぎ、今は料亭になっている所である。……かくして横浜に戻ると、過去に類のない激しさを持った台風一過の惨状を目の当たりにする事となった。近年、太平洋の海水温が更に上がり、日本の台風もアメリカ並みのハリケーンのような凄みを呈して来ているようである。とまれ、もはや私達の知る四季の姿は消え去ったようである。

 

激しい雨の中をぬって、旧知の友人で、優れた映画の企画を何本も立ち上げている成田尚哉さんがアトリエに来られた。成田さんは企画の仕事と並行してミクストメディアのコラ―ジュを作り画廊で発表しているのであるが、9月27日から下北沢の画廊で始まる個展の事で相談があるようである。大粒のシャインマスカットとピオ―ネをお土産に二房も持って来られ、近くの蕎麦屋でご馳走になりながら、個展の話を伺った。成田さんは元々の感性の良さに、映画の仕事で培って来た確かな美意識が相乗して独自な表現の世界を築いている人なので、話をしていて実に愉しい。……個展の事から話題が移り、私は成田さんに、ぜひ映画の企画で「樋口一葉」を一本撮って欲しいと提案した。樋口一葉は皆その名前と、「たけくらべ」などの名作の作者、死の直前に文壇で脚光を浴びながらも極貧の中、24歳で結核で亡くなった事……などを漠然とイメ―ジとして持っているが、詳しい事を知る人は意外に少ない。……しかし、この樋口一葉という女性、関連書を読んで知れば知るほど、井戸の底は底無しのそれと化し、生前に交わった人達が語るそのイメ―ジは、その数だけ明暗に分かれる違う顔を持った、多彩な仮面の顔とニヒリズムの持ち主で、調べるほどに興味が尽きない。紫式部や清少納言の再来として、かの森鴎外や幸田露伴達から絶賛された紛れもない天才であるが、別面、闇深い謎を多分に孕んだまま逝った「逃げ水」や「影踏み」のイメ―ジが濃い樋口一葉。成田さんは最近は文芸路線からは少し離れているが、この樋口一葉を唯の文芸路線でなく、終りなき謎を孕んだ妖しいミステリ―として仕上げれば、必ず名作になること請け合いであるが、果たして、成田さんは動かれるや否や!?……帰り際に今一度私はアトリエに戻り、上村一夫が樋口一葉を描いた劇画『一葉・裏日誌』をお渡しした。『夢二』、『人喰い』、『修羅雪姫』、『上海異人館』、『菊坂ホテル』……数々の名作の中で女性の妖しさと謎を追い求めて来た上村一夫が、死の直前に主題として最期に辿り着いたのが「樋口一葉」という謎めいた人物であった。上村一夫は、おそらく気づいていたのであろう。この一葉という人物が抱えていた底無しの妖しさと情念を……。成田さんから、ならばいっそ北川さんが一葉の脚本を書きませんか!?と言われ、一瞬その気になったが、次第に近づいた10月16日から始まる高島屋での個展の制作の追い込みと、来年に企画での出版の話を頂いている、最初にして最後の詩集を全力で書かねばならないので、残念ながらそちらに没頭しなければならない。……ここはぜひ成田さんの感性が、樋口一葉に向かうのを乞うばかりである。

 

 

 

 

 

 

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『桜の下の芥川龍之介』

昭和二年、すなわち芥川龍之介が自殺する年に谷崎潤一郎と交わした「小説の筋」をめぐっての論争は、近代文芸史を代表する一つとしてあまりにも有名である。……芥川は、技巧を凝らさない筋のない小説こそ良いとするのに対し、谷崎が主張したのは、作為や技巧に富んだ小説こそ是とするものである。この各々の主張は、つまりは美意識の相違を通して彼らの資質(芥川の本質は短篇―詩的散文にあり、谷崎はそれに対して緻密で肉厚な構造体を要する長編にある)にまで及んでいるのであるが、この論争はいま読み返してもなかなかに面白い。……しかし、この二人、論争はしたが普段はいたって仲が良く、才は才を知るの言葉を映すように、よく連れ立って出かけてもいる。しかし、仲の良さは死後までも続き、二人の墓が向かい合って在る事を知る人は、あんがい少ないかと思われる。……墓の在る場所は染井墓地に隣して建つ慈眼寺。時は折しも満開の桜が咲く快晴の日。「思い立ったが吉日」は、自由業の云わば特権のようなもの。さっそく出掛けてみる事にした。場所は豊島区駒込、下車する駅は〈巣鴨駅〉である。

 

……巣鴨駅を出て、とげぬき地蔵のある巣鴨地蔵通り商店街に向かう道があるが、そこに入らず通りを右に横断して細い道を進んで行くと、突然右側に、いかにも怪しく謎めいた昭和初期に造られたと覚しき帝都の面影を残す古びた洋館が現れてくる。―その名を『ヴィラ・グルネワルト』。……いかにも怪しい訳ありのようなネ―ミング。火曜サスペンス劇場の舞台としては最適なこの洋館には、私の旧知の友が二人、各々に住んでいて久しい。フランス語翻訳の達人で、西脇順三郎論などの論考も著している中村鐵太郎君と、歴程賞などを受賞している詩人の阿部日奈子女史である。舘の玄関の扉を押すと、重く鍵が掛かっていて開かない。……事前連絡無し、思い立っての突然の訪問であったが、建物の前で携帯電話をかけても、何故か二人とも繋がらない。……ひょっとしてもしやと思い、半開きに開いている窓に向かってオ~イと各々の名前を読んでも返事がない。というよりも建物の住人全員が神隠しにあったような無人の気配、……先を急ぐ旅ゆえ、やはり○○なってしまったのかも知れないとここは急ぎ結論付けて、次のお目当て地の「芥川チョコレ―ト」という、昭和30年代に在った紡績工場のような懐かしい工場へと向かうが、かつて記憶しているその場所に工場の姿が無い。……信号待ちしている自転車に乗った初老の人に訊ねると、最近、巣鴨駅近くに移転したという。聴きなれない「芥川チョコレ―ト」という、この味のある名前。ちなみに芥川龍之介とは無関係らしいが、帝国ホテル専門にチョコレ―トを作って納めているらしい。以前に来た時はチョコレ―トの甘い香りが漂っていたものである。……さて、先ずは染井墓地である。折しもソメイヨシノが満開のこの広大な墓地。……岡倉天心、高村光雲・高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、土方久元(龍馬、中岡慎太郎と共に薩長同盟の仲介に尽力)……等の著名な人達が眠る墓地をゆるりと抜けて慈眼寺へ。境内にある墓地の奥まった場所に、今日の目的である芥川龍之介、そして谷崎潤一郎の墓が向かい合って在る。この二人の墓を目指して来たと思われる何人かの参拝者の姿があった。……芥川龍之介の墓は独立して在り、横の墓に妻の文、ご子息の也寸志、比呂志……の墓碑銘が彫られている。向かいに在る谷崎潤一郎の墓は、やはり独立して潤一郎の墓が在り、その周囲に親族の墓が在る。但し、谷崎潤一郎の墓は分骨であり、もう1つの墓は京都・法然院(やはり桜の名所)に在る。暫し二人の墓を観ながら、生と死の境の無さに想いが至る。…………晴天のこの日、まだ時間があるので、巣鴨の商店街を抜けて、「庚申塚駅」から都電荒川線に乗り、終点「三ノ輪駅」へと向かった。……途中の「飛鳥山駅」を通過した辺りで、車窓から一瞬、チラッと見えた電信柱に「尾久」という地名を記した白いペンキ文字が目に映り、私の脳裡にピンと来るものがあった。……〈荒川区尾久〉……間違いない、ここは、かの阿部定事件(昭和11年)が起きた待合い「満佐喜」が在った場所である。……以前のメッセ―ジでも書いたが、私は以前に、立教大学女子大生殺人事件の犯人、大場教授の別荘裏の事件現場(……警視庁の捜査が始まった同日に)行き、また昭和13年に起きた、津山30人殺しの現場が在った岡山県、美作加茂の現場にも行ったが、不覚にも阿部定事件のこの現場は未だ来ていない。……かつて私は、非公開となっている東京大学医学部解剖学標本室を訪れ、私の事を妙に気にいってくれている教授と話をしている際に、成り行きでたまたま阿部定事件の渦中の逸物(つまり、被害者・石田吉蔵の切り取られた○○)の現物の標本を見たことがあり、ぜひいつか現場へ!……と思っていたのだが、作品制作や個展、はたまた撮影の旅に追われて機会を作れなかったのであるが、う~む、またしても先方(場の強い磁力)から喚ばれているようにも想われる。今日、偶然目に入った電信柱の文字は、私にはそう想われる。…………さて、電車は終点の三ノ輪駅へと着き、私は明治の中期を駆け抜けた天才―樋口一葉の遺品が展示されている記念館へと歩を進めた。……ここ半年近く、私はこの天才女流作家、―かの森鴎外をして(真の詩人)とまで言わしめた樋口一葉の作品世界とその人物に入り込んでいる。……この人物が持つ計り難い多面的な謎と、その純度の高い詩心については、また近々にこのメッセ―ジで書く事を期して、今回の「桜の下の芥川龍之介」を終える事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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