

……アトリエの郵便受けを開くと、知人の画家や美術館、時には未知の作家らしき人からの案内状が届いている事がある。残念ながら興味をひく程の内容ではないので、ほとんど直ぐに忘却へと消えていくのであるが、先日、思いっきり未知の方からの葉書が届いた事があって、少し私の気をひいた。「民事訴訟最終通達書」と印刷された、何の事はない〈振り込め詐欺〉から届いた葉書である。……いつか僕にも来ないかなぁ……と内心ひそかに心待ちにしていたので、実際に手に取ってみて、少し嬉しかった。多くの人は、こういう文書がいきなり届くとパニックで舞い上がってしまうというが、それがよくわからない。……小難しい専門用語を並べて、いちおう頑張って文書化しているが、大事な主語にあたる文言が欠けており、一読、文章として体を成しておらず、故に意味がほとんど伝わって来ない。……この辺り例えるならば、何を伝えたいのかわからない、そこいらにいる美術評論家の文章とちょっと似ていようか。……しかし、ふと考えてみると、昨年、斜め前に住む老婆は、受け子に現金で300万円を渡しているし、今年の春もアトリエのすぐ前で、女性(またしても老婆)が受け子にまさに現金を渡す直前に、その光景に不審を抱いた知人の人が近寄って来たので、受け子は一目散で逃げて行き、事なきをえたが、私の周りだけでかくの如しだから、実際には相当な数の被害が発生していると思われる。……事件が成立する背景には、高額なタンス預金があるという実態と、今1つは独り暮らしの老人のよるべなき孤独が背景にあるのかもしれない。……思うのだが、昔からの友達も相次いで亡くなり、ほとんど誰からもかかってくる事のない電話が、ある日かかって来たら、人の声の懐かしさ、自分の存在を覚えてくれていたという嬉しさで、老人は受話器を先ずは強く握りしめてしまうのではないだろうか。……それがイントロとなり、巧みな話術にはまり、まるで催眠術にかかるようにして相手を盲信してしまう。その〈寂しさ〉という老人の孤独も、事の一端にはあるように思うのだが如何だろうか?
………………元来、詐欺師には、そこにアッと云わせる鮮やかさがあった。世間を煙にまいた後に残るカタルシスがあった。……世情、心理学、話術、演劇力に通じており、そこに手品のような虚を突く大胆さがあった。1911年に『モナ・リザ』がル―ヴル美術館から盗まれた事件があったが、その事件の更に裏の背景には、天才的な詐欺師と言われた人物が存在し、『モナ・リザ』がフィレンツェのホテルで発見されるまでの2年の間に、窃盗前から周到に用意していた何点もの『モナ・リザ』の贋作を、主にアメリカの大富豪達を相手に盗まれた本物の『モナ・リザ』と称して売りさばき、巨万の富を成したという逸話がある。当時は今と違い『モナ・リザ』の精巧な複製画はほとんど無く(故に画像としての視覚情報に乏しく)、またモナ・リザ発見後に偽物を掴まされたと知った被害者の富豪達も、盗難品と言われて、それを知りつつ買ってしまった手前、ばつが悪いのと恥ずかしさで、自ら訴える者は一人もいなかったという。……してやったりの醍醐味があるが、「詐欺はインテリの犯罪である」と断じた、ミュンヘン保安警察長ラインハルト・ルップレヒトの名言があるが、昨今の組織化された振り込め詐欺の殺伐さと違い、嘗ては、体制をコケにした鮮やかな〈詐欺師〉としての矜持とスケ―ルがあったように思われる。詐欺師、奇術師、魔術師、……この類いの話は、種村季弘氏の『詐欺師の楽園』に詳しいが、そこには詐欺師の艶のある孤独もまた垣間見えていっそう深いのである。「詐欺師は、匿名性の波間に身を潜める一般者なのだ」「誰も彼らの顔を思い出せない」……種村季弘。




ところで今回の件のように〈切断された絵画〉の事例は、実は他にもある。例えば、ローマの

東京都美術館で開催中の『
私は自説を今一度検証すべく、音楽家の鈴木泰郎氏に御協力を頂き、パソコンの前に座った。鈴木氏の完璧な技術力を得て私たちは、自画像にモナ・リザ以外の作品を次々と重ね、ミリ単位よりも細かで密な検証を行った。結果から語れば、この美術評論家F氏の説はあっけなく崩れ去り、ジネヴラ・ベンチ他の「四分の三正面像」はことごとくズレを呈したのであった。それは、予想したとおり、当然な結果ではあるが・・・。そして私は「モナ・リザ」のみが、ダ・ヴィンチの自画像と、その向きの角度までも含めて完璧に(かつ不気味に)重なっていくのを改めて確信したのであった。ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザの向きは真反対の対面として在る。そこにダ・ヴィンチがこだわった「鏡」面性の論理が加わってくる。私たち研究家は、ダ・ヴィンチという知と闇の巨大な山の頂上(真実の相)を目指して、各々の角度から山頂を目差す。たとえば、F氏は教科書のような知識を拠り所に。そして私は、自身も画家である事の直観と多面的な推測の幅を持って。ダ・ヴィンチとは、最高度に謎めいて、かつ知的であり、あたかも鋭いチェスゲームのような尽きない魅力に満ちている。それに立ち向かうには、こちらの直観を研ぎ澄まし、かつ複眼の思考であまねく立ち合わねば、たちまち、迷路にはまり込んでしまうのである。残念ながら、日本における美術評論書には「これは!!」と思わせる書物が無く、私が共振するのは翻訳による外国の書き手の方が多い。そしてその多くが、日本のように学界めいた色褪せたものではなく、知性とミステリー性が深く混在した、読む事のアニマに充ちた書物なのである。
今までの美術研究家たちの間では、






