江戸川乱歩

「…果たしてその時、エアコンは動いていたのか!?」

…私の美大の後輩でS君というのがいる。普段は実家のある岡山に住んでいるのだが、たまに上京してくるので、その時は私の好きな哀愁漂う浅草で会って食事をしたりする、まぁ長い付き合いの友人の一人である。

 

先月、S君が久しぶりに上京したので浅草で会って話をした。すると驚く事を語りだした。何と、昼夜、温度差がなく暑い熱波地獄の中、彼はエアコンの無い部屋で暮らし、夜は寝ているのだと言う。「熱中症で間違いなく死ぬぞ‼」…私がそう言うと、彼が語ったのは、信じがたい身内の事情の話であった。…昔はイラストレーターで稼ぎもあったが、パソコン技術の進化で仕事が激減し、やむなく故郷の岡山に帰り、今は兄夫婦の家で食事を食べさせてもらい、悲しいかな居候をさせてもらっているのだと言う。しかも今、彼は無職なのだと言う。(そういえば、別な友人のイラストレーターも職代えしているので、今、その方面の仕事はなかなか難しいらしい。)…そういう前途の見込みが薄い居候の弱い立場なので、言われるままにエアコンのない部屋で一人で暮らしているのだという。

 

(何という気弱な話である事か。)一度エアコンを…と兄夫婦に頼んだらしいが金が無いという理由で相手にされなかったという。……双方とも根本的な事が欠けている情けない話に唖然としたが、「エアコンの有る無しは別問題だよ、もう一回言うが、間違いなく熱中症で死ぬぞ‼」…と、別れ際に私がそう言うと、彼は哀しい顔を浮かべ、隅田川河岸の吾妻橋の方へと消えていった。

 

……「大丈夫だろうか?」さすがに心配になり、先日電話をしたら、果たして明け方に軽い熱中症になったらしく、体がぐったりして気持ちが悪い…と言って、力なく電話が切れた。

 

なんとも「悲惨物語」を地でいく話であるが、どうもその後の事が気になって仕方がない。……エアコンが唯一の生命線となった現在、それを使わずに亡くなっている人が次々と病院に運ばれて、毎日たくさんの人が亡くなっているのは周知の事実。…そう思っていると、足下にク-ラ-の風のようなのがひんやりと流れて来たと思った瞬間、ある疑念のような仮説が卒然と湧いて来た。

 

 

……兄夫婦が何故、そこそこの出費で何とか買えるであろうエアコンを弟のS君の部屋に設置しないのか?…今やかなりの確率で死へと至らしめるこの危険な状況を何故、兄夫婦は持続しているのか。…高い確率でS君は今や死線にいる事は間違いない。

 

…仮にS君が熱中症で亡くなったと仮定しよう。すると、もしそこに高額の生命保険がかけられていたとしたら、さぁどうだろう。…保険金詐欺、その多くが事故死に見せかけて使うのはトリカブトや、大量の風邪薬を摂取させたりする犯罪である。しかし司法解剖によって、そのほとんどが露見し、ことごとく逮捕されている。しかし、…毎日たくさんの人が、(特にエアコンを嫌う老人などが)熱中症で病院に運ばれて亡くなっていて、もはやその死が日常の中に紛れ込んでいる現状の今。熱中症はもちろん掛け金というリスクはあるが、かなり高い確率で死へと至らしめられる、何処にも証拠なしの合法という隠れ蓑を被った不気味なものへと一変しよう。……私の考え過ぎならいいが、しかしS君は今もなお死線の日々を送っている事は間違いがない。

 

 

…読者諸兄をはじめ、人は私のこの考えを突飛な妄想として一笑に伏すであろうか。…しかし実はこのような疑念(或る確率をもって死へと至らしめる犯罪の可能性)を題材として一篇の小説に仕上げた先人がいるのである。…大谷崎と評された文豪・谷崎潤一郎である。

 

…大正九年に発表した『途上』という小説で、彼は新しい表現を模索する中でその題材に着目し、探偵小説という形で人の心理の奥に潜む暗い闇を照射したのであった。

 

小説の中で主人公は先妻を、高い確率で死へと至らしめる様々な、しかし何処にも犯罪として他人が切り込む隙が無いような合法的な方法で試み、遂には先妻を死亡させてしまうのである。しかし主人公に疑念を抱きじわじわと追い詰めていく探偵は語る「…ちょっとお断り申しておきますが、あなたがあなたの最愛の奥さんを、あれほど度々あの自動車へお乗せになるという事は少なくとも、あなたに似合わない不注意じゃないでしょうか。一日置きに一と月の間あれで往復するとなれば、その人は三十回衝突の危険に曝される事になります。」…これに対して犯人の主人公は「けれども僕はこう考えたのです。自動車における衝突の危険と、電車における感冒伝染の危険と、どっちがプロバビリティーが多いか。……」と。

 

 

江戸川乱歩が推理小説の傑作として讃えたこの作品、実は当時の谷崎が自身の潜在的な「妻殺し」を「探偵小説」の意匠を借りて断罪した実験小説であったというから面白い。……ともあれ昔、学生の時に読んで記憶にあったその視点が、友人に迫っている今、そこに有る危機として卒然と思い出したのであろう。

 

…………今日は異常な熱波から一転して、異常に凄まじい猛威の台風が迫っている。どのみち異常な日々に変わりはなく、もはや天が割れて気象が狂い、人心は疲れきっている。………〈そうだ、〉と思い、S君に電話を入れてみた。…意外にも元気であった。S君は少なくとも今日は未だ生きている。

 

 

 

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「哀しくて、やがて嬉しき神保町の巻」

……JRお茶の水駅から明治大学のある坂を下って行くと、世界最大の古書の街、神保町古本屋街である。その最初に在る古書店の名を「三茶書房」という。今もこの店の前に立つと来し方を思い出す。……昔、未だ美大の学生だった20才の頃、この店の二階にあるガラスケ―スの中に、版画家の池田満寿夫さんと、わが国を代表する詩人・西脇順三郎氏による詩と銅版画のオリジナル作品14点が入った詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本)を見つけたのである。〈その頃で定価は確か40万円前後であったか。〉興奮した私は「これを見せてくれませんか?」と言うと、年老いた店主が一言「駄目です、だってあなたには買えないでしょ!」との冷たい突き放し。……悔しかった、しかし「買えなくても、見せるくらいどうなんだ、次代の若者を育むのも、本屋の勤め、それが文化じゃないのか」と言いたかったが、言えなかった。……どうみても、長髪の着たきり雀の貧乏学生、口をつぐんで、私は店を出た。震える程に悔しかった。

 

……… しかし人生はわからない。それから僅か4年後に、私は池田満寿夫さんと出逢い、大学院を出てそのままプロの版画家としてスタ―トしていた。そんなある日、池田さんに人生初めてのエスカルゴを食べる体験とワインのご馳走をしてもらっていた時に、学生時代の三茶書房での悔しかった話をした。池田さんは笑って聞いていたが、数日後にニュ―ヨ―クへと戻って行った。……その数日後に私の当時の契約画廊であった番町画廊の青木宏さんから「画廊に来るように」との連絡が入り、私は銀座の画廊に行った。……そこで私が青木さんから渡されたのは、池田満寿夫さんから私への置き土産だという厚い紙包みであった。……開けてみるとあろう事か、件の『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本・しかも私への献呈署名入り)であった。……私は震えた。しかし今度は感謝の気持ちとしての嬉しい震えであった。

 

 

…………学生時代、店主に嫌な事を言われながらも、三茶書房はしかしめげずに度々行っていた。そのガラスケ―スの中に、今度は江戸川乱歩直筆の書、有名な言葉「うつし世はゆめ夜の夢こそまこと」(現世は夢、夜の夢こそ真実の意)が展示されていたからである。……乱歩の熱心な読者であった私は、またしても欲しくなった。しかし、その書はあまりにも高価であって、店主に訊けば、またあの言葉が返ってくるのは必至であった。

……そう、私は乱歩の熱心な読者であった。……そればかりか、ここに掲載した一時代を作った平凡社の月刊誌『太陽』の江戸川乱歩特集では、乱歩の代表作『押絵と旅する男』に絡めたエッセイも、編集部からの依頼を受けて執筆しているのである。……この企画では、久世光彦種村季弘谷川渥団鬼六荒俣宏石内都鹿島茂、更には俳優の佐野史郎など分野を超えて、執筆者各人を探偵に見立て、様々な視点から乱歩の多面体の謎に斬り込んでいてなかなか面白い企画であった。ちなみに私が書いたテ―マは「蜃気楼」であった。

 

……時が流れていった。……前々回(9月8日付け)のブログで、私は神保町の出版社.沖積舎の沖山隆久さんが李朝の掛軸展を開催中に会社に行き、沖山さんから李朝の掛軸を一点プレゼントされた話を書いた。その際にその展示の場所で、30年以上欲しくて探し続けていた月岡芳年の最高傑作と評される残酷絵『美男水滸傳』(今回、画像掲載)を偶然見つけ、沖山さんに私の旧作の版画一点との交換トレ―ドを申し出て快諾して頂き、念願が叶った話は書いた。(芳年は代表作の英名二十八衆句の内二点も持っている。)……以前にも書いたが、江戸川乱歩、三島由紀夫芥川龍之介谷崎潤一郎諸氏も芳年の作品の熱心な収集家であった。

 

……その沖山さんの出版社・沖積舎で、李朝の掛軸展の次に開催されたのは文人画の展覧会であった。泉鏡花.谷崎潤一郎.永井荷風.西脇順三郎.……等の書が展示されているというので、個展の出品作品の制作の合間を見て、神保町へと赴いた。……沖積舎の中に入ると、西脇順三郎のというより、西脇以後の詩人達がいまだに超える事が出来ない美しい詩「天気」の「(覆された宝石)のような朝 何人か戸口にて誰かとささやく それは神の生誕の日」の直筆の原稿が表装されていて私の眼をとらえた。

 

 

……しかし、その奥に入って私は我が目を疑った。……あの学生時代以来、ずっと意識し続けていた江戸川乱歩の件の書「うつし世はゆめ……」が奥の方で泉鏡花、谷崎潤一郎の書と並んで静かに展示されていたのであった。

「沖山さん、沖山さん、……!!」と言ってから、私は前回に芳年を入手して直ぐにというのに、またしても旧作の版画との交換トレ―ドを申し出てしまったのであった。……しかし、さすがに今回は沖山さんも難色を示され、私は冷静になり、自分が無理を言っている事を自覚した。……しかも、その乱歩の書はあまりにも高価であり、もうなかなか出ない貴重な書なのである。「さすがに私は無理を言っていますね」と言って、しばらく話をしてアトリエへと戻った。……その日の夕方、作品の仕上げをしていると突然、電話が鳴った。出ると沖山さんからであった。「北川さん、先ほどの乱歩の書の話、OKですよ!」。……私は声高く御礼を伝え、翌日の昼すぎには、長年熱望していた江戸川乱歩の書「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」がしっかりとアトリエの壁面に掛かっているのであった。

 

……月岡芳年の絵もさりながら、思い返せば、あの学生時代に、三茶書房のガラスケ―スの中で展示されていて熱い眼差しを注いでいた、池田満寿夫さん、西脇順三郎氏の詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』と、江戸川乱歩の書のいずれもが私のもとに在る事の不思議。……そして私は今にしてふと想うのである。これはまるで芝居のラストの大団円のようではないかと……。つまり、人生の終章に今、……いやいやまさか……と、私は揺れているのである。

 

……さて、今月11日から30日まで、東京日本橋・高島屋6Fの美術画廊Xで個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』がいよいよ始まる。作品が完成してリストを見ていてつくづく思うのだが、不思議と作って来たという実感がないのである。私は作品を作るというよりも、閃きが先ずあり、啓示のようにしてなにものかの力が私と平行して共に作品が次第に立ち上がって来るのである。……この傾向は年々強くなり、次々とイメ―ジが前方あるいは背後から押し寄せて来て、作品が形を成していくのである。……豪奢、静謐、逸樂、……そして豊かな詩情とノスタルジア。更には実験性と完成度の高さとのスリリングな共存。

 

……今回の個展案内状を受け取った何人かの方から、今回の個展の今までにも増して質の高い予感を指摘された。それは個展を前にしての嬉しい手応えである。……10日は展示、そして11日が個展の初日。……次第に緊張が高まって来ているのである。

 

 

個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』

 

 

 

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『2023年夏―ホルマリンが少し揺れた話・後編』

①……前回のブログで、谷崎潤一郎が高橋お伝の陰部の標本と、横長の額に入ったお伝の全身に彫られた刺青の標本を観て、あの近代文学の金字塔『刺青』の構想が瞬時に閃いた!と断定して書いたが、それは私の直感が言わしめたものであり、どの研究書にもそのような大胆にして密な言及は書かれていない。しかし、オブセッション(妄想、強迫観念)とフェティシズム(物神崇拝)を資質の奥に持っていない人物は表現者たりえないと考えている私には、谷崎潤一郎のその時の昂りがリアルに見えてくるようなのである。

 

谷崎潤一郎は、高橋お伝という伝説の姉御肌の美女と遭遇した事で、泉鏡花が『高野聖』の中で登場させた、あの妖艶で煙るように薄い存在感の美女とは明らかに別種で存在感のある、想像力の原点に棲まう、残忍にして破滅的な女人の原形を獲得したように私には思われる。

 

……例えば周知のように、川端康成が永遠の処女性への不気味なまでの執着と、ネクロフィリア(死体性愛)的な本物の資質をもって日本の抒情を綴ったのに対し、谷崎潤一郎のマゾヒズム(被虐性愛)はその対極と考えられがちであるが、実は谷崎のそれは醒めた演技が根本にあった事に注意すべきであろう。

 

慧眼な洞察力を持った三島由紀夫は「……谷崎は大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変えてしまうのであり、俗世間をも、政治をも、いやこの世界全体をも、刺青を施した女の背中以上のものとは見なかったと語り、……… (今、三島の原文が見つからないので、この先は私の記憶だけで書くが、)……… 被虐的なマゾヒズム行為の深みに入れば入るほど、その対象者たるサディスティックな女性に対しての、冷徹なまでに醒めた蔑視の眼が氷のように注がれている事を見落としてはならない。……… 確かその意味の事を三島は書いているのである。

 

 

 

②……あれは何の雑誌であったか?…博物学者の荒俣宏が、「東京で一番怖い場所」と書いていた東京大学医学部解剖学標本室で、……あれはまた何年前であったか?…季節は確か初夏であったが、外の暑さに対して、その標本室の奥の部屋は、確か3階であったが、まるで地下室のようにひんやりとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オランウ―タンの死体標本を抱えながらT教授は私にこう語った。

「君はパリのあの学校で、本当に非公開のオノ―レ・フラゴナ―ルのエコルシェ(剥皮標本)を観れたのか!?」と。(ええ、観ましたよ、)と私。「たぶん君より数年前だったと思うが私は大学からの紹介状を持って学校に見学の許可を願い出たが、駄目だった。一体どういうやり方で君は入れたのかね」

 

…… (別に、秘策なんて無いですよ。従兄の画家のフラゴナ―ルとの共通点の、手技の早さの異常さへの私の関心、フランシス・ベ―コンの皮膚への破壊的な情動とオブセッションとの類似点への簡単な考察。その他を、便箋5枚ばかり書いて、私のオブジェ作品の写真画像数点を添えて、友人のパイプオルガニスト奏者に仏語に訳してもらい提出したら、暫くして許可されましたよ。

 

友人5人を連れて指定された日時に学校に行くと、校長は上機嫌で歓迎してくれて、エコルシェ全ての撮影も構わないと言って、貴重な図録と、畳くらいの大きさの『フラゴナ―ルの花嫁』のポスタ―もくれましたよ。私の人柄が通じたんでしょうかね)。

 

……するとT教授は真顔で「今、私はこのオランウ―タンの剥皮標本を作っているのだが、ここまでで3ヶ月もかかっている。それをあのフラゴナ―ルは、僅か3日で作り上げてしまうんだよ」……(ええ知っていますよ)と私。するとT教授は鋭い眼をしてこう言った。「…………奴(フラゴナ―ル)は、怪物だよ」。  ……. それからT教授が急死されたのは間もなくであった。私は思い出しながらふと思う。パリの学校も非公開だったが、この解剖学標本室も非公開。……そこにいる自分が可笑しかった。私はよほど非公開の場所に入るのが好きなのだなぁと。

 

 

 

③……そもそも、東京大学医学部内に、「解剖学標本室」なる物が存在する事を知ったきっかけは、推理小説家・高木彬光(1920~1995)のデビュ―作『刺青殺人事件』であった。

 

江戸川乱歩が絶賛したこの小説は実に面白く、夢中で読んでいると、件のその標本室の事が突然出て来て、一気に私を引き込んだ。

 

……その標本室には夏目漱石斎藤茂吉横山大観浜口雄幸円地文子…等の脳みそが傑出脳…として、ガラス陳列室の中に保管されている事を知ったのである。……以前にも書いたが、私は動くと光速よりも早い。……『刺青殺人事件』を置いて、私は読んでいたその場で東大に電話した。

 

 

「はい、東大五月祭本部です」。私は電話した主旨を述べ見学を申し入れた。……すると大学祭で浮かれている学生達がざわつき(何か変な人から、変な電話~)という声が聞こえて来たので、私は別な角度から後日電話する事にして切った。…………それから1か月後、見学を許された私は本郷の校舎内を歩いていたのであった。

 

高木彬光の小説の『刺青殺人事件』に、谷崎の『刺青』も登場し、導かれるように高橋お伝、また阿部定が切断した件の吉蔵のホルマリン漬けの局部標本までも偶然目撃する事になり、再び谷崎潤一郎の『刺青』のインスピレ―ションも、この薄暗い標本室から立ち上がった事も知った。……そして、この標本室での体験は、その後で作品にも生かされ、「イメ―ジを皮膚化する試み」として、数多くの作品が銅版画とオブジェの両面から産まれていったのであった。

 

 

④さて、実は4日前に不覚にもコロナに感染してしまい、今回のブログは初めて病床の中で書いている次第とあい成った。……シャ―ロック・ホ―ムズとワトスン両人に登場してもらい、阿部定が吉蔵を絞殺し、局部を切断して持って逃げた心理を、愛情の形と単に納める事なく、阿部定自身も気づかなかった潜在意識、無意識の領域へと掘り下げて彼らに推理してもらう予定でしたが、いかんせん書き手の私自身がもはや青息吐息。この辺りで筆を置きたいと思います。

 

 

 

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『……大日本陸軍の闇がそこにはゴッソリと!!』

①……よく知られているように、江戸川乱歩は強度な「隠れ蓑願望」の持ち主であった。自分にまとわりついている社会的な属性を一切捨てて、見知らぬ町に隠れ家を見つけて住み、もう一人の自分として別な呼吸をして生きたいという、一種の変身願望である。私にもそれは多分にあって、時々遠方の地を歩きながら、隠れ家にむいたエリアを物色している時がある。

 

……最近気にいっている場所は谷中・初音町。…(はつねちょう)という響きが実にいい。森鴎外樋口一葉が愛した谷中の墓地からも近く、鴎外の『青年』の舞台としても登場する。必ずやいつか!……と思っていたら、この場所に先客がいるのを最近知った。その住人とは、……ゲゲゲの鬼太郎である。漫画にはこう書いてあった。

 

「……東京に、こんな古めかしいところがあるかと思われるような谷中初音町に……おばあさんと孫が、昔おじいさんが三味線を作った残りかすの猫の頭などを売っていたが、今時こんなものを買う人もない。そこで二階を人に貸したのだ。借りた人は鬼太郎たちである。……」 隠れ蓑願望の強かった水木しげるもまた、谷中初音町にアンテナがいっていたのかと思うと嬉しくなってくる。ともかくそこは、昔から全く時間が動いていない、停止した空間なのである。

 

 

 

②私の出身地である福井のギャラリ―サライ(松村せつさん主宰)では、10年前から隔年毎に私の個展が開催されている。今年はその開催年になり、4月1日から今月末まで開催中である。私は初日から3日間の慌ただしい滞在であったが連日画廊につめていた。……初日の夜は、福井県立美術館、そして福井市美術館の館長はじめ学芸員の人達が多数集まり、歓迎の宴を催してくれた。また3日目は、高校の美術部の後輩達がこれもまた小料理屋での宴を催してくれたりと、懐かしい人達との嬉しい再会の時間が流れていった。

 

中2日目は、福井新聞社編集局の伊藤直樹さんが記事の取材に来られ、私のオブジェの特質である「二物衝撃」と、観者の人たちの想像力の関係の不思議について話をした。伊藤さんは実に思考の回転が早く、話す事の核心を的確に汲み取る人なので、話をしていて実に手応えがあって愉しい。……また、画家のバルテュスとも個人的に親交が深く、近・現代版画の優れたコレクタ―であり、そして私の作品も多数コレクションされている荒井由泰さんが来られ、最近新しくコレクションされたという谷中安規の代表作「自画像」の版画(微妙に刷りが異なる珍しい二種類の版画)を見せてもらい勉強になった。

 

……ギャラリ―サライの松村さんは人望があるので、来客が実に多い。……その中で一人の男性の方が静かに語りかけて来られ、「北川さんは、戦時中に武生(福井県)に陸軍の中国紙幣の贋札工場が在ったのをご存知ですか?」と切り出して来られ、私の関心は一気に沸騰した。この魅力的な切り出しは「その話、じっくり聴かせて頂こうではないですか!」となって来る。……名刺を頂いた。見ると、先ほどの伊藤さんと同じ福井新聞社の論説委員の伊予登志雄さんという方であった。「北川さんのブログは毎回拝読しています。実に面白いので、あのブログは纏めてぜひ本にすべきです」と言われ、有り難いと思う。……それから、伊予さんが語られた話はどれも戦慄する内容の洪水であった。

 

……戦時中の「アメリカ本土を攻撃した風船爆弾」スパイのゾルゲ事件」「人体実験で知られる731部隊」「日本陸軍が作製した精巧な蒋介石の顔を印刷した贋札工場」「帝銀事件」……と、次々に伊予さんが話される大日本陸軍の闇、闇、闇の具体的な話。伊予さんは以前にその関係者や生存者に直接会って取材して来られたという経緯があるので、話の重みと迫真力が違う。そして、それらの実際の現物や資料が、神奈川県川崎市の多摩区東三田にある明治大学生田キャンパス内の『登戸研究所資料館』(この資料館の在る場所が、戦時中に実際の機密組織として様々な研究や活動をしていた場所)に保存されていて一般に公開されている事を教えて頂いた。……松本清張の『日本の黒い霧』『小説帝銀事件』など殆どの著書を読破している私としては、この伊予さんとの出会いは天啓であったと言えよう。

 

〈…………しかし、2年前にこのサライで個展があった時は、佐伯祐三について来客の方と話をしていたら、その隣にいた方が話に入って来て、実に佐伯について詳しく話され、「明日、北川さんに面白い本を持って来るので良かったら差し上げますよ!」と言われ、早速翌日にその方が来られて『二人の佐伯祐三』(馬田昌保著)という本を頂いた。いわゆる佐伯祐三にまつわる贋作事件、それに連座してのこの国の美術評論家の実態、福井の武生市が女性詐欺師に騙された話など、それまで切れ切れであった話がこの本で一気に繋がった。……私の気から発する何かがその人達を喚んでいるのか、ともかく不穏な話、興味深い話が何故か自ずと集まって来るのである。〉

 

 

 

③私はフットワークが実に早く、そして軽い。横浜に戻って直ぐに大日本陸軍の闇を書いた本を図書館で借りて来て読み、件の『登戸研究所』にさぁ行こうとして、ふと郵便受けを開くと伊予さんから詳しい資料が入ったお手紙が届いていた。正にこれから出発という、その絶妙なタイミングである。「今から行って来ます」と伊予さんにメールして電車に乗った。

 

小田急線の生田駅を下車して件の研究所を目指して坂を上がって行くと、まもなく大学構内に入る。……するとさっそく不穏な建物が出迎えてくれた。「弾薬庫」と呼ばれる暗い廃墟である。

 

研究所内に入ると係の方の説明があり、何室かに分けられた資料室があり、731部隊、スパイ養成所であった「陸軍中野学校」、特務機関、諜報・謀略活動……暗殺の為の腕時計…、贋札の実物、…等々、わけても私の注意を引いたのは、部屋の隅にさりげなく展示されていた帝銀事件の際に犯人が実際に使用したのと同じ型のスポイド、被害者の銀行員たちが呑まされて多数が毒殺された湯呑み茶碗であった。実に生々しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……敗戦と同時に「特殊研究」に関する書類や実験器具は焼却、埋設処分するなど証拠隠滅作業は徹底的に実施された由なので、この研究所内に原物がいろいろ展示されている事自体が奇跡に近いかと思われる。研究に関わっていた人達はGHQによって徹底的に尋問を受けたが、不思議にも実際に戦犯指名を受けた者はいないという。何故か!?……考えられる事は唯一つ、731部隊の隊長、石井四郎と同じく、当時のアメリカ軍に情報提供を条件に免責された可能性は大きいが、真相は遂に闇の中へ。………………今回は撮影して来た写真を掲載して終わりとしよう。とまれ百聞は一見に如かず。ご興味がある方は、この研究所見学をぜひお薦めしたいと思う次第である。

 

 

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『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』

毎日人々がたくさん行き交う東京駅には、総理大臣の暗殺現場を示すプレ―トが2つあるが、今ではそれを知る人は少ない。……1つは、大正10年に東京駅丸の内南口改札付近で刺殺(即死)された原敬。もう1つは、昭和5年に東海道本線10番線乗り場ホ―ムで銃撃(後日死去)された濱口雄幸である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日の白昼に起きた安倍元総理大臣の暗殺現場の映像は悲惨なものであった。そして仰向けに横たわる安倍氏の姿は生々しいものであった。その様には、もはや誰も介入出来ない、取り返しのつかない、私達誰もがやがて各々に迎える死の瞬間を代弁して実況しているかのような、絶対の孤独な姿があった。……必死で甦生のマッサ―ジをする人、大声で救急車や近くに医者を求める人々。プロとは言い難い迂闊な失策をやってしまったSPと警官が抑え込んでいる犯人の姿。……その中で、画面に映る安倍氏の姿を観ていて、ふと、正に今、死に瀕したこの人の脳裡には果たして、何が浮かんでいるのかを想像した。(……自分の経験を基にして。)』

 

…………以前にブログでも書いたが、私は2回死にかけている。1回目は2才の時だからもちろん記憶にないが、病弱だった上に流行りの百日咳が悪化して危篤状態になった。(この世に縁が無かった私を憐れんで、棺桶の中に何を入れるかを両親が涙を流しながら相談したという。)しかし、運が良かったのかどうか、当時たまたま承認されたばかりの薬を注射して、奇跡的に死の淵から生還した事を後に母から聞かされた。……2回目は高1の時に体験した溺死に瀕した時である。突然、堰を切ったように水が口の中に大量に入って来た時の、かつて体験した事の無い苦しみの後は、一転して母の胎内に守られて羊水に浸っているかのような幸福感に充ちた感覚の中、天上から実に美しい光が射しはじめ、私は、あぁ何て幸せなんだろう、このままでいい……このままで、もういい……そう、ぎりぎりの意識が感じていた時、……突然救助の手に引き上げられ、先ほどの苦しみを今一度体験した後に、私は感覚が割れるように甦生した。これは、立花隆氏の著書『臨死体験』で、死の淵から生還した人々が語る、柔らかで至福感に充ちた光が射して来たという多くの証言と一致する体験である。

 

 

……人が亡くなる直前、最後まで機能しているのは〈聴覚〉であるという。だから、救急車や医者を求めて叫ぶ声は、彼の脳裡には、おそらく遠くの意味知らぬノイズとして、或いは別な世界のものとして聴こえていたのではあるまいか……。それを聴いているのは、もはや安倍晋三という直前迄の俗名を持った存在でなく、また憲政史上最長の総理職を勤めたという事も既に意味を持たない、ただの素に還元された無垢な魂、例えるならば産まれたばかりの素の意識として最期に聴いたようにも想われる。……或いは、銃弾の破片が心臓を直撃して、心肺停止の自力呼吸が出来ない為のショックにより、コンセントを急に抜くように、感覚も硬直して何もない無と化してしまったか。ともかくそこには絶対の孤独が透かし見えたのであった。

 

 

 

……話は変わるが、以前に井上ひさし氏の本を読んでいて興味深い箇所に出会った。……井上氏は学生時に上智大学で教えている神父に「先生、人は死ぬと天国に行くと言いますが、天国なんて本当にあるのでしょうか?」と質問した。すると神父いわく「天国があるかどうかは、死んだ人が生き返っていないので誰にもわかりません。しかし、天国があると思った方が愉しいではありませんか!!」と。私は神父のこの言葉に膝を打って食いついた。なるほどと!!…信ずる者は救われる、である。しかし、こうも考えた。天国、もしそれがあるとしても、そのイメ―ジとしてある世界はあまりに事も無く、ただけだるすぎて退屈の極みである。何より一番気に馴染まないのは、それが他者の考えた概念にすぎない事である。……信ずる者は救われるならば、私は自分だけの独自な考えで、死を現世からの別れとしてでなく、次なる新生が、その先に在ると考えよう!……そう考えるようになった。

 

……そして考えたのが、死ぬ瞬間に素と帰した魂を翔ばして、私が最も行きたいと熱望している明治26年の、東京は浅草の時空間に行く事である。……何故、明治26年に拘るかというと、度々私のブログに登場する浅草凌雲閣(通称浅草十二階)が、その少し前の明治23年に完成し、またこのブログに、これもまた頻繁に登場する天才女流作家の樋口一葉(本名.樋口奈津、時に夏子)が、『奇跡の14ケ月』と云われる『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』等の文学史に残る名作を書く前の、正に極貧の時に在り(明治29年に24才で肺結核で死去)、荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いていて、朝靄の中で浅草花川戸、今戸橋近辺を仕入れに歩いている、正にその時空間に魂を翔ばして、朝靄の中を歩く樋口一葉の、その謎に充ちた顔を一瞬掠め視てから、次なる浅草凌雲閣へと魂を翔ばし、谷崎潤一郎江戸川乱歩達、数多くの文藝家がその異形なる塔にイメ―ジを触発されて小説にも度々登場した、その姿を仰ぎ見て、魂はその中の螺旋階段を一気に駆け抜け、屋上の展望階から明治26年の東京に魂を放射したいと、ひたすらそう考えているのである。

 

 
……先日、制作の合間を縫って、私の魂の帰すべき場所、明治の面影が僅かに透かし見える浅草の今戸橋、また待乳山聖天辺りを散策した。広重の描いた風情が残る、私の最も好きな場所である。浅草寺や仲見世は人で喧しいが、この場所はたいそう静かで涼やかであった。新生の時は先ずはここから始めよう。私はそう思った。

 

………………「新しい出発だ。窓をもう少しお開け、新生だ、ああ素晴らしい!」と臨終時に話して逝ったのは北原白秋である。白秋の魂もまた新生に向けて至福感の中で逝ったのか。

 

…………とまれ、私もまた死に臨して、白秋のようでありたいと考えているのである。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『謹賀新年―1月の佐伯祐三』

昨年は、近年あまりない多忙な一年であった。制作の間は当然無言であるが、昨年はその時間が特に長かったせいか、反動で全ての個展が終わった年末の日々はよく喋った。私のオブジェや版画について鋭い論考のテクストを書かれている四方田犬彦氏(比較文化・映像の論者・著書は160冊以上に及ぶ)や、谷川渥氏(美学の第一人者)とも久しぶりにお会いして喋りあい、宇都宮の市民大学講座では、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』の中からゴヤとヴァルディについて熱心な聴衆を前にして語り、暮れの28日には、ダンスの勅使川原三郎氏と荻窪の公演会場『アパラタス』で、たくさんの観客を前にして対談をおこなった。23時頃には終わる予定であったが、終電時間がとうに過ぎ、観客が帰ってからも話題が尽きず、場所を移して話が続き、結局、東の空が明るくなるまで喋って帰途についたのであった。……そして年が明け、一転して静かな正月が訪れた。

 

新年の1日、2日はアトリエの中で静かな時間が過ぎていった。……窓外の景色を眺めながら、来し方の日々をぼんやりと思い出していた。……そしてふと、若年時より私の最も好きな画家で影響を強く受けた―佐伯祐三の事を思い、彼がいた当時のパリ(95年前)に、自分が過ごした、今から29年前のパリの冬の光景を重ねてみた。……1991年1月6日、私は前年の秋に1ヶ月ばかりバルセロナに住み、年末にパリの郊外トルシ―へと移り、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレにあるギザルド通り12番地に引っ越して来たのであった。その部屋は偶然であるが、かつて写真家エルスケンが棲み、写真集の名作『サンジェルマン・デ・プレの恋人たち』を現像した部屋であり、天窓から差し込む強烈な光の体験を通して、私が写真を撮影し始めるきっかけとなった部屋でもあった。……石畳のしんしんと冷えた1月のパリは寒い。その厳寒のパリに在って、私は、この街を駆け抜けて30歳の若さで、精神の病と結核のために亡くなった天才画家―佐伯祐三の事を考えていた。

 

……「私は巴里へ行って街の美しさにあまり驚かなかった。その一つはたしかに佐伯祐三氏の絵を沢山見ていたからだと思ふ。祐三氏の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違うことの事実は、分かりきったことである。誰もそれには気附かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気附いた画家の一人である。(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」(横光利一・佐伯祐三遺作展覧会目録より)

…………14歳の頃に私は佐伯祐三の作品を知り、取り憑かれたように佐伯の作品の模写をし、線路の鉄路や駅舎、古い教会など、佐伯の絵のモチ―フに似た、パリのそれと重なりそうな場所を求めて描きまくり、時には吹雪の中で三脚にキャンバスを固定して絵を描いた事もあった。硬質な対象、鋭い1本の線への拘り、正面性……今思えば、自分の資質の映しを佐伯祐三の作品に見て感受していたのであるが、とまれ、私が最も影響を受けた画家の一人が佐伯祐三である事は間違いない。……そんなわけであるから、初めてのパリを見て、横光利一の文章にあるように、佐伯祐三の作品の事が浮かんで来るのは自然な事なのであった。……そしてパリの部屋にいて、持参して来た荷物から佐伯祐三の画集を取り出して読んでいた時、ふと面白い事に想いが至ったのであった。それは佐伯祐三がパリに在って描いた作品数に対して現存する作品数があまりに少ないという事である。……例えば、〈CORDONNERIE(靴修理屋〉という作品は、パリ滞在時にドイツの絵具会社に買われ、現在は行方不明であるが、それにしても……と、私は電卓を打ちながら考えた。多くの作品が美術館などに収蔵され確認され、現存する数は360点あまり。しかし、1日に二点以上描く事もあり、かつて佐伯がパリに滞在した月日を考えると450点近くは描いた事になる。気に入らず焼却した作品もあるというが、単純な推定にしても、計算に差がありすぎる。ひょっとすると、このパリの何処かに、まだ佐伯の作品が人知れず眠っているのではないだろうか……私は1991年の1月に、パリの部屋の中で、ふと、そんな事を考えていたのであった。

 

……それから月日が経った今年の正月、私はアトリエで、昨年末の古書市でたまたま見つけて買った新潮社刊の『佐伯祐三のパリ』という、小さな画集を開いていた。……その中に、佐伯祐三研究の第一人者として知られる朝日晃さんの文章が載っていた。「……私は1991年の1月、パリ環状線の北東、モントルイユの引っ越し荷物倉庫で、薄っぺらいひん曲がった木の額に入った佐伯祐三氏の作品を見付けた。既に死去した船乗りの荷物の中にあったものを、日本人の作品……と、うろ覚えのままの姪が家具などと一緒に持ち続けていた。発見した絵は、はみ出しそうな視角で、街角の二階建てレストランや周辺の古い壁を抱き抱え、ピラミッド形構図は石畳の街の空間を緊張させている。……倉庫の中で私は背筋が寒くなった。きっとアトリエ探しで歩きまわっている間に見つけたモチ―フ、と見当をつけた。」……そして朝日晃さんは翌日から、発見されたその絵の現場風景探しを始め、遂に1月の寒いパリの中、歩き始めて5日後に、その絵の現場を突き止めたのであった。……1991年の1月、私がパリの部屋で、佐伯の作品はまだこの街に人知れず眠っている筈に違いないと、何故か閃いて結論づけた、正に同じ頃に、そのパリで、思った通り、佐伯祐三の作品が発見されたのである。……私はその文章を読んで、偶然の一致に驚くよりも〈あぁ、またしても〉という想いであった。……昨年の2月に、このメッセ―ジ欄でも書いたが、大正12年の関東大震災で崩れ去った、あの江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階(通称―凌雲閣)の高塔。明治から大正にかけて建っており、震災で崩れ去って今は無い筈の、その高塔をせめて幻視しようと、私は隅田川河畔に建っているアサヒビ―ル本社隣の高層の最上階にあるレストランから浅草寺の方角にかつて在った浅草十二階の姿を、幻視への想いの内に透かし見ていた。……すると、(後日に詳しく知ったのであったが)正にその同じ日、ほぼ同じ時刻に、浅草花屋敷裏を作業員が工事していた地中から、その浅草十二階の1階部分の赤煉瓦の遺構が現れ出たのであった。そして、後日に行ったその工事現場で、長年想い続けていた完全な姿の浅草十二階の赤煉瓦までも、何故か現場に人の姿の絶えた淡雪の降る中で入手して、今、それはアトリエに大事に仕舞われているのであるが、同じ時刻、あるいは予知的な後日に、私の脳裡に閃いた事が、点と点を結ぶように現実化するという事は、このメッセ―ジでも度々書いて来たので、今回の佐伯祐三の遺作発見の符合も、静かな感慨で受け取ったのであった。……佐伯祐三、浅草十二階……と強い想いを抱いていると、奇妙な、不可解な時間隨道(トンネル)を通って、現実の前に現れる。……この、いつからか私に入り込んだ直感力はインスピレ―ションとなって、イメ―ジの交感を生み出し、オブジェやコラ―ジュ、或いはタイトルや執筆の際の、自分でも異常と思う事がある閃きの速度や集中力となって現れ、私をして作品化へと向かわせるのである。………………思うのだが、私達表現者が「芸術」や「美」と正面から立ち会い、この危うい魔物と絡み合うには、この交感力こそ最も必要な能力なのではないだろうか。私は、インスピレ―ションの鋭さを孕んでいない作品には全く反応しない。……例えば佐伯祐三の作品から伝わってくる最大の物は、巴里の硬い壁のマチエ―ルを通して、〈絶対〉という言葉でしか表わせられない、何物かを捕らえんとする激しくも崇高な、衝動なのではないだろうか。放射された衝動の〈気〉が転じて〈強い引力〉と化す!!……そうとしか言えないものが、そこには宿っているのである。

 

 

〈佐伯祐三〉

 

 

〈1991年1月に発見された作品と現場写真〉

 

 

 

 

 

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『魔所―〈十二階下〉』

前回のメッセージで書いた通り、私の手元にはいま、明治、大正時代を象徴する異形な高搭―浅草十二階(凌雲閣)の赤煉瓦が、ほとんど完全な姿で2つ、半分のが1つ、小さな欠片が1つ在る。……「浅草二丁目の建設作業中の現場の地中深くから浅草十二階の遺構が出て来た!!」という報道がネットや新聞で一斉に流れるや、沢山の人が現場に押しかけた。そして現場の人の好意により、運よくタイムリーに、出土した浅草十二階の煉瓦を入手出来た人達がいたという。しかし、ネットを読むと、配布された煉瓦の多くが、ショベルカ―で砕かれた為に小さな欠片であったらしい。……その煉瓦の配布が終了してから既に日が経ち、私が現場に行ったのはようやくの10日後であった。しかし、私の〈想ったものをこちらに手繰り寄せる念力の、尋常でない強さ〉がまたしても発揮されたらしく、奇跡的に、あたかも私の到来を何者かが待っていたかのように、工事現場の目立たない場所に、その時に降っていた流れるような春の雪にうっすらと埋まるようにして、完全な姿のままに在る赤煉瓦を私は見つけたのであった。そして、その内の完全な形状をした煉瓦はアトリエの医療戸棚の中に収まり、小さな欠片は『浅草十二階』というタイトルの美しい本と共に、本棚の中に収まっている〈画像掲載〉。明治20年代に撮られた十二階と瓢箪池の水の写真が美しく本の表紙に配され、その手前に原物の赤煉瓦の欠片を配した眺めは、まるで不思議なタイムスリップの妙がある。江戸川乱歩が名作『押絵と旅する男』の文中に書いた妖しい言葉「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。」という文を読むたびに「あぁ、自分はあまりに遅く生まれてしまった!!」という、過去の人達への羨望が少しは薄らいだのであった。…………祭りの後のように静かな日が過ぎたある日、私はふと、あの現場に再び行ってみたくなった。遺構は保存される事なく、工事を続行する為に、おそらく十二階の遺構はまもなく完全に閉じられて、128年前の明治の「気」と「時間」の中に永遠に封印される頃であろう。……そう想うと、矢も盾もなくなり、私は現場へと向かった。……現場に着くと果たして、工事は続行されてかなり進んでおり、先日見た遺構もほとんどが柵の中に隠され、わずかに1ヶ所を残すのみとなっていた。おそらく明日は完全に閉じられてしまうのであろう。ギリギリで間に合ったという感である。前回に見た時は、現場はシ―トで覆われていたが、今日は二人の作業中の人がいるだけで、埋める工事が着々と進んでいる。見ると、今日は珍しく地上から現場へと降りる梯子が掛けられている。……寒空の下、私はマスクをとって作業中の人に大声で声をかけた。

 

「すいません、文化財の仕事に関わっている者ですが、貴重な文化遺産が埋められてしまうので、ちょっと梯子を降りて間近で見せて頂けますか!?」……すると、「ああ、いいよ!!降りてらっしゃい」という嬉しい返答が返って来た!!……逸る気持ちで梯子を降り、私は浅草十二階の、深い時間の澱を湛えたその実物を間近で眺め、直に手で触れた。そのひんやりと湿気を帯びたザラツキの感触が、私の感覚を震わせる。想えば、雑誌『太陽』の江戸川乱歩特集でも、私は「浅草十二階」への思いを熱く書き、浅草に来る度に空の高みを仰ぎ見て、既に消えた非在の高搭―浅草十二階のまぼろしを幻影の内に何度、私は透かし見たことであろうか。……それが今、不思議な時間隧道の捻れを経て、私の眼前に在る事の不思議!!不思議なタイムスリップが現実に起きている事の奇跡!!。 ……作業員の方に伺うと、その方は先日の騒動の時に新聞社から取材を受けられたとの事。「凄い数の人が、数日間、ここに押し掛けて来たよ!」との由。その時にショベルカ―で砕かれた赤煉瓦の欠片が見物人に配布され、またたく内に無くなってしまったようである。見物人は、ネット越しに、この現場を熱心に見下ろしていたという。そして、私は改めて、自分の強運を思った。…………正面を見ると、良い状態のまま、赤煉瓦が露出している。私は「もうこの遺構が見れるのも最後だと思いますので、もし宜しければ記念に少し頂けますか!?」と問うと、「ああ、いいよ」と、その作業員の方(おそらくはこの現場の責任者のようである)は言われ、ハンマーで大きな形のままにザックリと取り出して、私に渡してくれたのであった。……かくして、最後の最後に私は本当に器の広い良い人と出会え、最後にまた1つ、赤煉瓦を入手する事が出来たのであった。……さようなら浅草十二階、さようなら、ノスタルジアに満ちた明治の人よ、その夢見のようなあやかしの時空間よ!!……浅草十二階の遺構の最後の姿を眼に焼き付けたその足で、私が次に向かったのは浅草―等光寺(歌人・土岐善麿の生家)であった。……等光寺、そこは歌人・石川啄木の葬儀が行われた寺である。……そして再び私は浅草十二階の現場に戻り、浅草花屋敷の裏側―知る人ぞ知る、かつて私娼窟が在った、通称「十二階下」と呼ばれた魔所を探訪して廻ったのである。

 

「十二階下」……そこは魔都上海の響きにも通じる魔所、……盛りの時は3000人以上の女達が蠢めいていた私娼窟、すなわち性の饗宴、狂いの場でもあったが、そこは同時に近代文学の発芽をも促した温床の場でもあった。黄昏時、浅草十二階の高搭がその巨大な影を不気味に落とす頃に、夜陰に紛れるようにして「十二階下」の魔所に通った若き文学者達は多彩を極めている。……谷崎潤一郎、川端康成、芥川龍之介、永井荷風、石川啄木、室生犀星、北原白秋、高見順、高村光太郎、金子光晴、江戸川乱歩、画家では竹久夢二……etc。わけても室生犀星は、上京するや、上野駅からこの「十二階下」に直行し、そのままに溺れていったという経緯がある。「……ふしぎに其処にこの都会の底の底を溜めたおりがあるような気がする。夜も昼もない青白い夢や、季節外れの虫の音、またはどこからどう掘り出して来るかとも思われる十六、七の、やっと肉づきが堅まってひと息ついたように思われる娘が、ふらふらと、小路や裏通りから白い犬のように出てくるのだ。……〈中略〉それが三月か四月のあいだに何処から何処へゆくのか、朝鮮かシナへでも行ったように姿を漸次に掻き消してしまうのだ。」(室生犀星『公園小品』より。…………まるで寺山修司の芝居のような、ミステリアスな艶と謎と危うい引力を、この十二階下は秘めている。

 

十二階下の魔窟に軒を並べている娼家の客となった犀星。……しかし、もっと顕な記述を遺しているのは石川啄木である。啄木は、暗号のように密かに綴った『ロ―マ字日記』(岩波文庫)の中で「……女の股に手を入れて手荒くその陰部をかき回した。」と記し、「微かな明かりに、じっと女の顔を見ると、丸い、白い、小奴そのままの顔が、薄暗い中にぽ―っと浮かんで見える。予は目も細くなるほど、うっとりとした心地になってしまった。」「若い女の肌は、とろけるばかりに温かい」と素直に精細に書き綴り、十二階下は奇跡的に「地上の仙境」であるとさえ記している。…………「浅草の/凌雲閣にかけのぼり/息がきれしに/飛び下りかねき」・「不来方(こずかた)の/お城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心」・「函館の/青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」……。私は石川啄木の墓のある函館の立待岬にかつて行った事があるが、何もない、ただ海風だけが荒く吹いている寂しい所である。

 

大震災が起きて数多の人心が絶望感に打ちひしがれている時に、目をぎらつかせながら被災地を野良犬のように駆け回っている者たちがいる。……盗人たちである。あれはもはや別な生き物かと思われるが、…………それと似たような危うい男が、関東大震災の直後に被災地を好奇の目を持って駆け回っていた事を知る人はあまりいない。誰あろうその人物とは、ノ―ベル賞作家の川端康成である。『文学』(岩波書店)の「浅草と文学」特集号の中で〈大正十二年九月一日に関東大震災が起こった時には、地震発生から二時間とたたぬ内に、彼(川端康成)は本郷駒込千駄木町の下宿から浅草の様子を見に行ぎ、浅草の死体収用所や吉原の廓内、本所の被服厰跡や隅田川河畔で無数の死体を眺め回った。〉とある。ここに記述はないが、川端と共に途中から行動を共にした人物がいるのを私は知っている。……芥川龍之介である。川端と芥川。……意外な結び付きに思われるかもしれないが、菊池寛が間にいる事を思えば直に結び付くであろう。〈類は友を喚ぶ〉ではないが、川端、芥川、共に最後が自死である事を思えばまた見えてくる事もある。浅草十二階の下には瓢箪池という大きな池があり、主に其処で溺死したのは、十二階下に棲まう未だ幼さを残す私娼たちであった。周知のように川端康成は目を通しての視姦、死体愛好の強度な癖を持っていた。『雪国』の中に登場する主人公の島村以外は、芸者駒子以下誰もが既にして死者である事は知られているが、『片腕』『たんぽぽ』他何れも、この世でなくかの世の話である。横光利一の葬儀の弔辞で川端は「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」と語り、以後は日本の抒情歌を綴る事に専心した。かそけき抒情の花の下、その地中深くにはネクロフィリアの暗い根が不気味に息づいているのである。

 

…………アトリエに戻り、作業員の人から頂いた浅草十二階の赤煉瓦の表に付いていた土を洗い流していると、その一辺が黒く溶けたようになっているのが見えて来た。熱に強い煉瓦がこのように黒いとは……!? そして私はその黒ずみが、他でもない関東大震災時の猛火の惨事の様をありありと映す証しである事を理解した。……黒ずみは、煉瓦の内部にまで浸透し、その激しさを如実に物語っていて、この煉瓦は特に貴重な物と思われる。…………今、私が手にしている煉瓦のすぐ間近に、川端康成のあの烏のような眼があり、石川啄木がおり、そして私が唯一、先生とよぶ寺田寅彦(物理学者、俳人、随筆家)が、そして数多の文学者達がおり、そして消えていったのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『128年の時空を超えて』

私は今まで、このメッセージを通して私に起きた不思議な出来事を度々書いて来た事があった。……その不思議な出来事とは、私がこうあって欲しい、或いは、ふと頭の中に唐突に閃いた事が、すぐに、あるいは、暫くの時を経て目の前で現実化してしまうという、一種の予知現象の事である。1回なら、それは偶然で終わってしまうものが、私の場合、10代の後半から、それこそ何十回と起きているので、やはり、私の頭の中の回路の一部は、〈時間〉の捻れと何処かで直結しているように思われて仕方がないのである。

 

その例を少し挙げると、①80年代の終わりに〈都市論〉なるものが流行っていた頃、「東京人」という雑誌が目立って注目を浴びていた時があった。ある日の午前中に、私は何故かふと「東京人」に書いてみるのも面白いなぁ!と想ったのであるが、……その日の午後に、何と、「東京人」の編集部からとつぜん電話が入り、私はその求めに応じて〈岸田劉生の代表作『切通之写生』の現場の今昔の違い〉について書いた事があった。②個展で熊本に行った帰り、私はANAに乗って羽田への帰途についていた。羽田に着くや横浜美術館に直行して、新潮社から刊行したばかりの拙著『モナリザミステリ―』についての講演が待っていたのである。その羽田へと向かう機内の中で、私は機内誌『翼の王国』を読んでいた。イタリアの街について誰かが書いた記事を読んで、生意気にも「私ならもっと艶のある紀行文が上手く書けるのになぁ……」と想いながら地上に着き、2.3日が過ぎた頃、『翼の王国』編集部から電話が入り、代官山で会って面会したいという。……その初めての面会の時に知ったのであるが、私の新刊を読んだ編集者が私に興味を持ち、〈次の紀行文の取材は北川で〉という案が編集会議にかけられたのであるが、正にその時、私は空の高みの機上にいて機内誌を読んでいた、その時なのであった。……そして私は念じた通りとなって、写真家とスタッフの3人でパリへと飛んだのであった。

 

③……「ガウディの建てた、あの異形な建築物〈サグラダ・ファミリア教会〉は、何故バルセロナの〈あの場所〉に建てられたのであろうか!?」……どの研究書にも書かれていない、その詳しい背景について、私は電車(東横線)に乗りながら自らに設問し、かつその答をまさぐっていた。……しかし、建築の専門家でない私にわかろう筈がない。……電車は、まもなく終点の渋谷へと近づいていた。私はふと、網棚の上に新聞が打ち捨ててあるのに気がついた。普段は他人が読み捨てていった新聞になど興味がないのであるが、その時だけ何故かふとその新聞が気になり、背を伸ばして手に取り開いて見た。それは確か産経新聞であったかと思う。パラパラと読み流していく内に文化欄の紙面になり、その紙面を見た私は、我が目を疑った。……そこには正に私がいま自問しながら終にわからないでいた、〈サグラダファミリアが、何故バルセロナのその場所に建てられたのか〉という具体的かつ興味深い理由について、日本人建築家の人が詳しく書いた記事が載っていたのであった。…………「そんなに知りたいのなら、ではそっとお前だけに教えてやろうか!!」……悪戯好きな悪魔が、間違いなく私の傍にいる!!記事を読みながら、私はそう思ったのである。

 

④ 昨年の春5月のある日の夜半、私は民放の「報道ステーション」なる番組をぼんやりと見ていた。北朝鮮についての相変わらずの報道を見ていた時、私は全く唐突に、昔、訪れた事のある太宰治の生家「斜陽館」の事がふと脳裡に浮かび、そこでかつて見たビデオの美しい映像 ― 桜吹雪が舞うなか、ゆらゆらと揺れるように、太宰治の生家近くの金木駅の線路上を走る津軽鉄道の古色を帯びた電車の光景を見た時の記憶がよみがえって来た。私は何故か無性にその映像の事が恋しくなり、「あぁ、今一度あの電車を見てみたい」という突き上げる感情を覚えたのであった。…………すると数分後に司会者の(……それでは、ここで気分を変えて、この映像をご覧下さい)という声が流れるや、画面は一転して深夜の暗い駅舎が映り、そこに今し入ってくる最終電車の、ロ―カルで抒情溢れる映像が画面に中継で映し出された。……〈まさか!!〉と思い驚いて見ると、それは正にその少し前に、突然私の脳裡に立ち上がって激しく見たいと希求した、正にその津軽鉄道・金木駅と電車の光景なのであった。………………………………

 

私に度々起こるこの現象……いわゆる人体に潜む超常能力と超感覚の具体的な現れについては、コリン・ウィルソンの著書『サイキック』(荒俣宏監修)に詳しく記されているが、その現象がまた先日にも起きた。これから記すのは、先日書いたメッセージ『夢見るように眠りたい』の後日譚のようなものである。

 

先日、十日以上前に私は、隅田川・吾妻橋の河岸に建つアサヒビ―ル本社22階のカフェから、関東大震災で崩れ去った異形な高塔―浅草十二階(通称・凌雲閣)の建っていた場所を遠望しながら、その塔への強い拘り、一目見たかったという、その思っても詮無い想いをたぎらせていた。江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の一節は次のようにある。「……あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。……」。私はこの文に接する度に、遅く生まれてしまった事を悔やみ、もし、明治期に遡って生まれ変われるものであれば、今の生に全くの執着は無い、……それほどに強い想いのままに、カフェの高みから、その蜃気楼、その幻影の塔を透かし見ていたのであった。…………しかし、私が見ていた正にその時、かつて十二階が在ったとおぼしき場所では、信じがたい事が起きようとしていたのであった。

 

「工事中の作業現場から浅草十二階の遺構らしき礎石の一部と赤い煉瓦が発見される!!」という報道が、新聞やネットで流れた日、私は全くその報道を知らずに、前回のメッセージ『夢見るように眠りたい』の文で、正にリアルタイムで、浅草十二階への強い想いを書いている最中であった。そして、その情報を後に知ったのは、シス書店の佐々木聖さんからであった。さっそくネットで見てみると、出てきた浅草十二階の赤煉瓦は、ショベルカーで砕かれ、その破片を、報道を見て駆けつけた人達に配っているという。その群集の中にはアルフィ―の坂崎幸之助さんの姿も混じって映っていたのには驚いた。……そしてネットの最後に、出てきた十二階の赤煉瓦の配布は既に終了し、作業は続行して新しいビルが建つ事、また赤煉瓦の形の良いのだけが数個選ばれて文化遺産として保存される由が記されていた。……その記事を見て万事休す、あぁ、私は何故そこに駆けつけなかったのか!という悔いに包まれた。……しかし、赤煉瓦の配布を終了してから既に十日以上が経っている。私は目の前に現れた蜃気楼が一瞬、現実と交差してふたたび幻となって過去の時の中へ消え去っていくのを覚えた。……しかし、せめて、今回の工事でその建っていた場所が確認された、その場所を見てみたいという思いが立ち上がって来た。東京に出る用事は数日後であったが、それを待たずに明日、行ってみよう、そう思って、その日は寝た。翌朝は雨であった。浅草の雷門に着くと、雨は急に雪へと変わった。薄雪の降りが流れるように美しい。白く霞んで、ふと彼方の昔日の雪をそこに透かし見た。「こぞの雪今いづこ」……そう呟いた中原中也の詩の事がふと浮かぶ。…………白雪の中を、伝法院通り、六区、ひさご通りへと歩いて、ようやくその現場へと私は来た。……しかし、何故か地面を深く掘り下げた作業現場に作業員は全くおらず、ネットで見た、10日前にたくさん駆けつけた人達も当然おらず、現場は不思議な程に全くの無人であった。……私はかつて浅草十二階が建っていたまさにその現場に立ち、ふと何かに誘われるような「気」を覚えて、導かれるままに現場の目立たない一画に目をやった。……そこに私は、信じ難い物が在るのを見てとった。既に配り終えて在る筈の無い赤煉瓦(しかも完全な形のままに)が二つ、ひっそりと薄雪に埋もれるようにして在るのを見たのである。……乱歩の小説の中で「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………」と呟いた魔的な呟きが、ふと頭をよぎる。その魔的な何者かが、この浅草の一角を暫し「不思議な時空」へと変えて、あの電車の中で起きた時のように、私に見せてくれた妖かしのこの時、まさに一時のこの時に、128年の時空が捻れて交差した!!……私はそのように思ったのであった。……かくして今、過去の遠い見果てぬ夢、幻の蜃気楼は、具体的な〈時の欠片〉となって、私のアトリエの医療戸棚の中に、ひっそりと息づくようにして在るのである。浅草十二階―通称・凌雲閣。……その確かな現物が、実物を見てみたかったと永年夢見て来た私のアトリエに、かくして息づいて在るのである。

 

〈追記/ 持ち帰った浅草十二階の赤煉瓦(ほぼ完璧な形状のまま)を、現代のJIS規格で決められているレンガのサイズと比較してみると、現代のレンガは三辺が210×100×60であるのに対し、128年前のその赤煉瓦は三辺が175×100×55と、やや小ぶりであるが、今日のそれと比べると遥かに密度があり、ズシリと重い。設計者のウィリアム・K・バルトンの確かな想いがそこから見えてくる。……アトリエに在るその赤煉瓦は、128年間の時間の澱を孕んで深い古色を帯び、それは終わりの無い夢想を運ぶ、もはや完璧なオブジェとして、いま私の眼の前に在る。……とまれ、浅草・吾妻橋沿いのアサヒビ―ル社の22階のカフェから、十二階の在った場所を遠望しながら紡いでいた或る日の見果てぬ夢が、僅か10日の後に、不思議な経路を経て現れ出て、いまアトリエの医療戸棚の中にひっそりと在る事の不思議よ。……私は今日もまた夢見のような気持ちで、浅草十二階のその断片を眺めているのである。〉

 

 

 

 

 

 

 

 

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『夢みるように眠りたい』  

アドリア海に面しているヴェネツィアの寒さは、また日本のそれとは質が違う厳しさである。足下の凍った石畳から直に冷気が伝わって来て感覚が硬直してくるのである。しかし、感性はその分、垂直的になるのでむしろ良い。……とまれ、2台のカメラを駆使した撮影の成果は、詩画集という形で今後に展開していく事になっているので、乞うご期待である。

 

……翌日は、昼過ぎに紀尾井町にある文藝春秋社ビル内で打ち合わせが終わるや、私はすぐに浅草へと向かった。最近、つとに永井荷風の事が頭にちらつくので、彼が愛した浅草隅田川、吾妻橋、言問橋、向島……を眼下遥かに見下ろせるアサヒビール社の22階の展望カフェで、〈浅草〉が持っている不思議な魔の引力について考えてみたくなったのである。しかし、それにしても快晴である。……嘘のように晴れ渡った眼下を見ながら、浅草寺のやや左側に、大正12年の関東大震災で崩れ去るまで建っていた、蜃気楼のような浅草十二階―通称「凌雲閣」の事を私は想った。

 

浅草十二階

 

仁丹塔

 

 

映像の魔術師と云われた映画監督のフェリ―ニを愛する私は、ア―ティフィシャルな人工美に何よりも重きを置いている。……故に「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と記した江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階は、私のイマジネ―ションの核にありありと今も聳え建っているのである。…………あれは何年前であったか。平凡社『太陽』の名編集長であったS氏から電話がかかって来て「今度、江戸川乱歩の特集〈怪人乱歩・二十の仮面〉で20人の書き手に、乱歩の20の謎をキ―ワ―ドにして書いてもらいたいので、あなたには〈洞窟〉を書いてもらいたいのですが……」と切り出された時に、私はすかさず「〈洞窟〉は書きたくないけれど、〈蜃気楼〉をキ―ワ―ドにして〈押し絵と旅する男〉についてなら喜んで書きますよ」と話した。意外にも、当然企画に入っていると思った〈蜃気楼〉がなく、私は即座にそれならば書こうと閃いたのである。一旦編集会議を開いて……となり、翌日再度電話がかかって来て、私は〈蜃気楼〉を書く事になった。……ちなみに最初に依頼された〈洞窟〉は〈迷宮〉を更に追加して、直木賞作家の高橋克彦氏が書いたのであるが、この時の執筆者は他に、種村季弘、久世光彦、谷川渥、佐野史郎、鹿島茂、石内都、荒俣宏、赤瀬川原平、団鬼六、林海象……他、実に賑やかであったが、すでに今は鬼籍に入られた方も多い。……さて、私はかつて浅草十二階が聳え建っていた場所を22階の高みから透かし見ながら、今一つの蜃気楼―〈仁丹塔〉の事を、遠い記憶をなぞるように、これもまた重ね見たのであった。……ずいぶん以前のこのメッセージ欄で、私は仁丹塔に登った事、中の螺旋階段は途中で行き止まりになっていて、そこに何故か二羽の白い鳩が、突然の来訪者である私に驚いてパタパタと塔内の虚ろな空間に羽ばたいていた事、またその仁丹塔の入口近くには怪しい蛇屋があった事……などを書いた事がある。しかし、もはやそれも遠い記憶、確かに行った事さえも夢見の中の出来事のように虚ろな、正に逃げ水や、蜃気楼のような遠い記憶なのである。

 

 

 

……その、今では幻と化した浅草・〈仁丹塔〉が重要な舞台となった映画『夢みるように眠りたい』(林海象監督)展が、恵比寿にあるギャラリ―「LIBRAIRIE6+シス書店」で開催中である(24日まで)。この映画は1986年に初上映された時に私は観ており、実に32年ぶりである。この映画を観んと、この度、ギャラリ―に訪れた沢山の観客に混じって私は観たのであるが、この映画は色褪せるどころか、更に不思議なマグネシウムの閃光のような煌めきを放って私を魅了した。……つまりは、この世は〈想い出〉に他ならず、人生もまた幻であると見るなら、映画の本質は、その幻影ゆえの実をまことに映し出している、という意味で、この映画はその本質を直に活写したものであり、フェリーニの『アマルコルド』や、衣笠貞之助の『狂った一頁』(川端康成原作)と並び立つ名作だと私は思う。ギャラリ―のオ―ナ―の佐々木聖さんから監督の林海象さんをご紹介頂き、私は林さんに、「実は私も仁丹塔に登った事があります」と話すと、林さんは古い共犯者に再会したかのように驚かれ、「あすこに登った人は、意外にいなくて、確かに見えていたのに近づくとフウッと消えて見えなくなってしまう、あれは実に怪しい塔なんだよ」と話されたので、「全く同感、あれは蜃気楼だったんですよ!」と私は話した。この映画でデビュ―した佐野史郎さん、また会場で久しぶりにお会いした四谷シモンさん以外、私はこの塔に登った人を知らないし、存命者ではもうあまりいないかと思われるのである。

 

本展の会場になったギャラリ―「LIBRAIRIE6+シス書店」は、JR恵比寿駅の西口から徒歩2分。少し歩くと、急に恵比寿の喧騒が消え失せ、ふとパリのモンマルトルの一角を想わせるような風が立ち、目の前に急な石段が現れる。その石段を登り、それとわかる何気ないビルの扉を静かに開くと、そこは、全くの別世界。その静寂の中、高い美意識に包まれて次第に気持ちが典雅にリセットされてくる。しかし、このギャラリ―は、いつも決まって何人かの来廊者がいて、静かに作品を鑑賞している姿が見てとれる。……私はこのギャラリ―のオ―ナ―の佐々木聖さんとは20年近い、長いお付き合いをして頂いているが、今もってこの人は謎である。毎回、夢のような優れた企画展示をしているが、元来が〈風〉の人である佐々木さんは、ある日ふと、何の前触れもなくギャラリ―を突然たたんで、気まぐれにサ―カスの軽業師の団員か何かになって、まるでブラッドベリの小説の中の登場人物のように、嵐の夜に忽然と消えてしまいそうな気配を漂わせていて掴めない。掴めないが、この人の拘りと、眼の確かさは本物である。……私は、以前にゲ―テが愛した〈風景大理石〉をこの画廊で買い求めて、今はアトリエの壁に大切に掛けているが、本展でまた1点、写真の素晴らしい作品に出会い、一目で気に入り、購入を予約した。……それが、『夢みるように眠りたい』の1シ―ン、前述した〈仁丹塔〉の屋上に登った、謎の探偵に扮した佐野史郎さんと助手が点景のようになって、仁丹塔から彼方を指差している写真(額入り)である。この写真作品を見た時に、かつてそこに登った時の自分が重なり、本当の自分は、実は今もなお、既に消えて久しい仁丹塔の中の迷宮をいまだに、それこそ永遠にさ迷っているような感覚に包まれて無性に懐かしかった。……この作品は、私にとって〈夢の結晶〉のように大切な物として、後日アトリエにやって来るのであるが、ご興味がある方は、ぜひ24日の会期終了までに訪れて、ご覧頂く事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

LIBRAIRIE6+シス書店

東京都渋谷区恵比寿南1―12―2 南ビル3F

TEL03―6452―3345

Open・水曜~土曜 12:00―19:00 日曜・祭日12:00―18:00

Close: 月曜/火曜

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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