月別アーカイブ: 1月 2016

『恐るべき探求と実験—勅使川原三郎』

昨日、荻窪にある勅使川原三郎氏のダンススタジオ「カラス・アパラタス」で、『静か』-—無音のダンスを見た。…いや、見たというよりも、その強度な引力に引き込まれて、不思議な美的体感を強烈に享受したと記した方が正しいか。…私は以前から時間の許す限り、勅使川原氏によって次々と繰り出される「身体表現を通してのポエジーの生成の現場」に立ち会って来た。しかし、今回のダンスにはまた格別な意味があり、その特異な生成の場に立ち会えた事の感動、興奮を御し難いままに、この文章を書いている。(このような事は私には珍しい事なのである。)

 

タイトルにある『静か』とは、正に1時間という絶対空間の中で、一切の音(音楽)を封印して、ひたすらに身体表現の可能性を追うという、ダンスの分野史上初めての試みなのである。私は今回の公演のお知らせを頂いた時に、すぐにその試みの意図を直感した。しかし、まさかという思いも抱いていた。何故なら、無音の中で、しかも長時間踊り続けるという事は、耳栓をして目隠しをしながら完璧に踊るにも等しい至難の試みであり、しかも立ち会っている観客を美的空間に引き込むという、難易度の高いものがあり、…… ダンス史上、この事に果敢に挑戦した者は皆無だったからである。

 

かつてはジョンケ-ジが『4分33秒』というタイトルで、ピアノの前に座ってピアノの蓋を開いたままに、一切弾く事をせずにジャスト4分33秒後に蓋を閉じて終わるという試みがあった。しかし、身体、…つまりは心臓の鼓動をも音楽であるという問いがそこにあるとしても、マルセルデュシャンが『秘められた音に』という作品で開示した「観念の中にも美はある」という思念の影響下にあった事は否めない。 しかし、あえてこの難題に挑んだケ-ジの試みは、果たして音楽の多面性を拡大し、音楽分野のそれまでの領域を突き破った功績は大きいものがある。

 

しかし、ケ-ジは無音、不動のままに試みは終わったが、ダンスは事情が大いに違ってくる。何よりも身体を止める事なく、常に動的緊張のままに集中を切らしてはならないのである。 ニジンスキ-はストラヴィンスキ-やドビュッシ-の音楽を表現の際の絶対不離のものとして公演し、以来、土方巽、大野一雄の時代まで、世界のダンス表現に音楽は欠かせない必須の、むしろ当然必要なものであった。音と絡む事によって、身体はそのリズムを刻み得るからである。「音楽には気をつけろ」と言ったのは、ジュネかコクト-であったと思うが、この勅使川原氏の試みの前には、ダンスは聴覚と視覚を併せ持つというのが既存の発想としてあったのである。

 

観客の中の一人として、私はその開演の時を待った。前日までは、佐東利穂子、勅使川原三郎両氏が各々にソロを無音で踊り、今日は対のデュエットの初の試みなのである。佐東氏は動、勅使川原氏は静の動きを見せながら、動の中には静のヴェクトルが、そして静の中には激しい動へのヴェクトルを、まるで水銀が放つ、あの彷徨引力のように透かし見せながら、眼前に奇跡のような美の結晶が鮮やかに紡ぎ出されていく。勅使川原、佐東両氏が各々に孕む幻視の時間が、そして時に二人の交点が結ばれる瞬間に立ち上がる幻視の時間が、更には私達観客が絡んでいる現実の時間という、つごう四つの時間が交響して、無音の中の豊穣へと私達を引き込んでいき、私達の内なる感性を揺さぶって、今までに体感した事のないカタルシスの感覚を覚えて、私は、このダンス史上、画期的な瞬間に立ち会っている事の興奮の中にいた。…天才ニジンスキ-はやがて狂いの静まりの中に入って伝説と化したが、勅使川原三郎氏に狂いが訪れる事は絶対に無いであろう。…彼にあっては、〈狂気〉や〈オブセッション〉もまた幼児の掌中にある親しい玩具と等しく、既にして馴染みの物だからである。そうでなければ、誰がこのような「無音」に挑むなどという、美の禁忌への侵犯を着想するであろうか。いや、美の本質は禁忌の側にこそ息づいているのである。…思うに、藤原定家の危ういまでの先鋭なる美、或いは、一秒に百年を可視化して顕在化して見せる世阿弥の美意識とその試みの近くに、勅使川原三郎氏はいるように思われる。

 

この作品『静か』は、3月に勅使川原氏がスウェーデンのイエテポリ・バレエ団へ振付・創作する「Tranquil」(トランキル=静か」に先駆けての公演である。日本と西欧では、沈黙への感覚に違いがある。故にどのような反響になるかは興味が尽きないものがあるが、いずれにしても、ダンスの概念を突き破り、更なる美とポエジーの可能性を切り開いた、この『静か』という作品が伝説の中に刻まれていく事は間違いのない事である。…この作品は、荻窪のカラス・アパラタスで、2月1日、2日、3日、4日まで公演が行われる予定である。ぜひご覧になられる事をお薦めしたい極めて優れた作品である。

 

カラス・アパラタス のお問い合わせは、http://www.st-karas.com/ TEL 03-6276-9136

 

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『琳派とは ?』           

先だって、東京の某美術館で開催された、琳派の名を冠した、宗達・光琳・抱一…等の展覧会を見に行ったが、会場に展示してあったパネルの解説を読んで唖然とした。そこには、宗達を琳派の創始者と断定した解説が記してあったのである。もし書くならば、「宗達は琳派の(結果としての)先駆者となった」と記すべきであって、創始者と先駆者ではその意味に開きがある。また正しくは、宗達には琳派という概念は全く無く、故に結果としての先駆者であったと記すのが、より正しいかと思われる。

 

琳派、…そもそも「派」の意味とは何か!? 「派」とは芸術、宗教などにおいて、教義・様式などを同じくするグループ、或いは党派、仲間、小集団を意味し、つまりは行動を同じくするグループを意味するものである。しかし、宗達は光琳を知らず、宗達の百年後を生きた光琳も、その百年後を生きた抱一を知らない。光琳は宗達の美意識を継いだと評されているが、宗達と光琳では、そもそも絵の次元に於て格段の差があり、光琳が晩年に描いた『紅梅白梅図屏風』と『杜若図屏風』の僅かに2点がある事によって、宗達の域にかろうじて絡まっているにすぎない。

 

光琳は確かに宗達に美の規範を見た。しかし、それはあくまでも光琳の感性というレンズを通した私的な、しかも誤謬を孕んだ翻訳であって、宗達の腰に手を当てたくらいのものでしかない。この辺りの事を、宗達研究の第一人者である村重寧氏は「大和絵における近世的装飾化、という大きな鉱脈は宗達によって徹底的に堀り尽くされてしまった。以後同じ仕事に取り組んだ者はいない。光琳は宗達の掘り出した産物そのものに興味を示し、巧みに活用したにすぎない。彼は宗達画の近代的装飾性をとり上げ、その他の大きな部分は切り捨ててしまった。だから彼は大和絵の長い伝統とは無縁である。二人の違いはそこにある。光琳以後の作家も等しく彼に倣った。…」と記しているが至言である。故に琳派とは、その一面だけを掴んだ、実に曖昧で実体のない概念にしかすぎない物である事がおわかり頂けたかと思う。「琳派」と一括りにする事によって、その豊かで大きな実質的な意味の多くがこぼれていってしまうのである。

 

…このような曖昧な誤りは、たとえば「印象派」という言葉にも当てはまる。「印象派」なるものが、光りが綾なす色彩の一瞬のうつろいの刻印に意味を見るという、視点の着眼と認識に、モダニズムとしての価値があるとするのであれば、その代表者たるモネは、タ-ナ-の遺伝子を継ぎ、その導きはブ-ダン、そしてその筆法はマネに拠っており、その意味に純度を求めるならば、印象派とはモネ独自のものと解さねばならない。そもそも「印象派」なる言葉自体が、モネの『印象・日の出』というタイトルを見た評論家の造語から始まっているのである。また、印象派の中でモネの次に人気があったと言われるドガは、「自分は印象派などではない。私は独立派である。」と明言している。この流れで書けば、ゴッホなどの「後期印象派」という言葉が、実に意味不明な妙な言葉であるかが浮かび上がって来よう。「後期」ではなく、次世代の芸術の要求しているところは、明らかにポストモダンなのである。…美術史というものは、えてして十羽一絡めに括って語ろうとするが、そこに実は無く、短絡的な社会学の域で終わってしまうものがある。…ともかくも原物を自分の目で見て、自分の中で意味を掘り下げていく事が重要なのである。…美術史とはあくまでも仮説でしかない。その意味で、美術館に掛けてある解説は、学芸員による安易な断定的記述を記してはならないのである。

 

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『そして、私は閃いた!』

私が大学に入った1970年という年は、ある意味で最悪な年であった。自分を導いてくれる教授(斎藤義重氏ほか)に会いたいと期待して入った大学は、大学紛争の例に漏れず、教授をしていた内でも、優れた作家達はことごとく学外に出てしまい、代わりに空席を埋める為に頭数を揃えるように、全く名前も知らない団体展の画家たちが〈教授〉として入ってきた。…この憤りは大きかった。我々はその画家達を、学ぶに足る教授としては認めないとして、多くの学生と〈教授?〉とが授業中ににらみ合いをして対立し、この年は失望した学生達の多くが大学を去っていった。…また世の常として、そういう〈教授〉達に取り入ろうとする(腰巾着)のような学生達もおり、バラバラな虚無の嵐が大学には吹いていた。…私は油画専攻で在籍していたのであるが、油絵よりも三島由紀夫の戯曲に惹かれ、その舞台装置・或いは映像・文芸評論などの道を逡巡と模索しながら進むべき方向性を模索していた。そして二年の春に銅版画に漸く自分の可能性を見出だしていた。しかし、版画専攻は3年生からなので私は技法書を読みながら独学で銅版画を作っていた。版画科には、教授として来ている「銅版画の詩人」と言われる駒井哲郎氏との出会いが半年後には待っているのである。…そういう次第なので、油画科に在籍していながら、油絵の課題作品は、全く大学に提出してはいなかった。

 

…その2年生の終わり頃に、私が住んでいる大学の寮に、私宛てで、大学の油画科から一通のハガキが届いた。…読んで見ると、明後日迄に未提出の油画の課題作品30点を提出しなければ、八王子の新校舎(私の代までは世田谷の上野毛に校舎があった。)に留年させる、という内容であった。当時、八王子の新校舎への留年と転居は〈島流し〉という言葉で学生達から悪い響きで呼ばれていた。…………まいったなぁ!留年すれば版画をやれなくなってしまうではないか!!…さすがにこの時の私は一瞬絶望的になってしまった。—— しかし、しかしである。必ずこのピンチを突破する何らかの策がある筈である。…とはいえ明後日迄に油絵30点を描く事は物理的に絶対に不可能事である。だいいち絵の具が乾かない!…佐伯祐三、ゴッホ、フラゴナ-ル、ピカソは数時間で1点仕上げたというが、彼らでも明後日迄に30点は絶対に不可能である。…しかし、難題ほど燃える私は諦めなかった。……寮の部屋で仰向けに寝て天井を見ながら私は考えた。 そして、遂に私は閃いた!!!〈ひょっとして、あすこにあるのではないか!?〉と。

 

私は寮の部屋を出て、裏庭に行き、今まで入った事の無かった薄暗い物置の扉をこじ開けた。…籠った黴臭い匂いが鼻をつく。その暗がりの中に私は入った。〈…あった!!〉…先ほど浮かんだ閃きとよみは正しかった。…その暗がりの中には寮の昔の先輩達が残していった古くかびたキャンバスが夥しく棄ててあったのである。私は中から30点を引き出して部屋に運んだ。そしてクリナ-で黴を洗い去り、その上から速乾性のニスを塗りまくり、部屋の四方の壁面に積んで、…後は乾くのを待った。一晩、ニスの強い匂いが漂う中で私は寝た。そして翌朝には、ニスで光る30点の初々しい油絵が、提出課題数に化けた油絵が、鎮座ましていた。

 

寮に住む友人二人に手伝ってもらい、電車に乗って大学の教授室に行くと、タイミングよく一人の教授がいた。私は大学からのハガキを見せて、課題数の確認をしてもらい、その後で教授の(とりあえず)の批評が待っていた。どう言うか興味津々であったが、批評は、あっけない程の、たった一言であった。その教授いわく「何だか、全部違った感じがするねぇ」と。…ここぞとばかりに私いわく「えぇ、型に拘らずにいろんな描き方を試してみました!」と。私の言葉を聞いて、教授はウン、ウンと頷いた。
…それで終わりである。私は課題数を克服したとされて漸く進級した。そして、版画専攻に入る事になり、私の本格的な制作が待っていた。…しかし、ふと思うのであるが、もしあの物置に先輩達の残していった油絵が無かったならば、その後でどうなっていたであろうか!? 無理な事ほど必ず突破してみせるというのが私の信条であるが、それは微妙な偶然で成り立っている事が多々である。それを思うと、寒い風がサァっと吹き抜けて行くのである。

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『電話ボックス』

昭和期の詩人・中原中也(1907-1937)は、新しい発明、すなわち文明の力が人間の精神に及ぼしてくる害が多々あるとして、「電話」までなら許す!と書いている。…電話といっても当時は手回しのアナログな物なので、今とはずいぶんと形態が異なってくる。私達に馴染み深いのは、その後の形態であり、街中に見た電話ボックスであるが、それについては有り難かった思い出がある。

 

私の学生時代は、極貧にあえいでおり、生活費が安くてすむ美大の男子寮に住んでいた。朝夜飯付きで確か7000円であったかと記憶する。場所は川崎の溝の口という所で、当時は別名が溝口(どぶのくち)と陰口を言われていた。 確か3年生の頃であったが、夜半に私は誰かと寮の前にある電話ボックスで話しをしていた。たぶん借金の相談か送金の依頼をしていたのではなかったか。…かなり生活に追い詰められていたように思う。話しが上手くいかなかった事の焦りか、それとも弾みだったのか、電話を切る際に受話器を強くガチャンと戻した事は覚えている。…信じがたい奇跡はその直後に起きた!!…電話ボックスを出ようとした私は、聞いた事のないジャラジャラ…という音に気がついて振り返って見た。

 

眼前では、まさしく信じがたい夢のような事が起きていた!!電話のお釣り口から吐き出されるようにして、10円玉が次から次と際限なく足下に落ちてくるのである。うず高く積もる10円玉の山! 触ってみると、息をしている様にかなり熱かった。…おそらく電話会社の社員が回収する業務を怠った為に受話器の箱の中いっぱいに溜まっていた金が、私がガチャリ!と強く叩いたその一撃加減が、何かのショックとなり、作動し始めたのに違いなかった。…無神論者である私が“神”はいる!と思ったのは、この瞬間である。負けずに頑張って芸術の使徒となれ!!- この神の恩寵は、そのようにさえも私には響いたのであった。…そう思うまでに私は興奮の坩堝と化していた。

 

…私は上着を脱いで端を結び、風呂敷状にした中に、ジャラジャラと10円玉をかき集める事に夢中であった。ずっしりと重く膨らんだ神の恩寵!!……その重さは明日からの命の証となるであるに違いない。風呂敷にした上着の薄さは頼りなく破れそうなまでに膨らんでいた。電話ボックスを出て、暗い寮の玄関へと私は向かった。、……… 私は「生きよう!!」と思った。

 

この話しを何かの二次会の席で話した事があった。…するとその中の一人が、満タンではなかったが、やはり10円玉がジャラジャラと落ちてきて本当に有り難かったという共通体験を語ってくれた事があった。〈神は、この男の上にも舞い降りていたのである。〉… アナログな時代に纏わる、もはや時効の恩寵話であるが、ともあれ、テレフォンカ-ドが登場する前までの、電話は良い!!。…中原中也ならずとも、電話は良いのである。

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『2016年 開ける』

謹賀新年・ 今年も徒然なるままに様々な角度から書いていくつもりでおりますので、ご愛読のほどよろしくお願いします。
さて、年明けと共に思い切ってアトリエの改装に入り、今もなお続いている。オブジェの制作を中心にした空間を考えているのであるが、それに伴い、不要な文芸書およそ500冊くらいを先ずは処分する事にした。…とは言いながら、片付けていると、カフカの自選短編集『観察』などに目が止まり、外の芝生に椅子を出して読み耽ってしまい、遅々としてなかなか進まないのである。
 
先日(8日)、川田喜久治さんの写真作品展「Last Things」のオ-プニングに行く。会場のギャラリーは、PGI(東京都港区東麻布2-3-4 TKBビル3F)。…昨年の冬から春にかけてロンドンのテ−トモダンで企画開催された、川田さんを含む主要な写真家達による大規模な写真展を見る予定でいたのであるが、あいにく私の二つの個展が同時期に重なってしまい、念願のロンドン行を果たせずにいた。昨年秋の高島屋での私の個展に川田さんが来られ、その時の写真展の図録と川田さんの貴重な作品集をプレゼントして頂き恐縮していたのであるが、今回の個展はその意味でも年末から楽しみにしていたのである。PGIは昨年末にこちらにギャラリーの場所を移した由であるが、今回の方が全体がゆったりと見れて私は好感を持った。会場の各面に主題ごとに、異なる文体とも言うべき様々な切り口で虚と実のあわいを縫う様にして、写真術師 川田喜久治さんの手による異界の断層が、強度な深いマチエ-ルを帯びて開示されている。
 
私の見るところ、写真界の現在の傾向として、そのほとんどの写真家達は、いかにもこの方向こそが私の専売特許とでも主張したげに、観念をモ-ド化へと繋げることに必死なあまり、写真本来の光と闇が産む毒性を忘れており、総じての単眼化に陥っているように私には思われる。… この点、川田さんの場合は、光と闇が生み出す毒性と観念、更には対象を客体(オブジェ)として客観的に突き放し、かつ絡め取る技(或いは術)、更には表現におけるア-ティフィシャルというものの熟知…などの塩梅が絶妙であり、複眼としての独歩を悠々と唯一人歩いているように思われるのである。…出品作品の中では、暗緑色に領された、テムズ河近くのグロ−ブ座(shakespeare)を高みから映した作品と、不穏な四谷の崖沿いの二つの小屋を写した作品に特に強く惹かれるものがあった。会期は3月5日まで開催中。ぜひご覧になられる事をお薦めしたい必見の展覧会です。

 

 

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