ニジンスキ―

『巴里・モンマルトルの美しき姉妹』

……1月末に完成した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の反響が大きく、驚いている。今までも新潮社や求龍堂その他から著書は何冊か出しているが、今回はそれらとはまた違った手応えなのである。……私が詩も書いている事を知る人達は、なかば予想されていた事かもしれないが、しかし、まさか本格的な詩集を本当に出すとは!!…といった感が伝わって来て面白い。また、先のブログで詩集の購入法を詳しくお知らせした事もあり、未知の方々も含めて、アトリエに毎日、購入申込みを希望される人からの書留便が届き、銀色の手書きの署名を入れた詩集を梱包して発送する日々が続いている。……正に映画『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』の文藝版である。……また、詩集を献呈した方からも毎日のように手紙やメールでの感想が届き、正月の年賀状の如く既に束になって積み上がっている。何より嬉しいのは、献呈のお礼といった儀礼でなく、実際に詩集を丁寧に読まれており、その上での具体的な作品をあげて、その感想を書かれている事がなにより作者として嬉しいのである。

 

……頂いた感想の共通した点を挙げれば、私のオブジェと同じく、一瞬でその人工美の虚構の世界に引き込まれる事、そして言葉の転移がイメ―ジを連弾的に紡ぎ上げ、そこに酩酊を覚える、……といった意見が実に多い。この人達の感想は実に正鵠を射るものであり、他の詩人はいざ知らず、私の場合は、オブジェの方法と詩作の方法には通奏低音のように重なるものがある。沢山頂いた感想のお手紙の中で私がわけても意識したのは、30年以上の旧知であり、この国の最も優れた詩人の一人である阿部日奈子さんからの、具体的に好きな詩を五作列挙された内容であり、それらの五作は私もまた同感のものであった。……さすがの洞察という思いで阿部さんにお電話をした。……阿部さんは更に考えを述べられ、私の今回の詩集から連想する作品として、川端康成の『掌の小説』を挙げられた。『掌の小説』は川端が40年余りにわたって書き続けてきた、実に短い掌編小説122編を収録した作品集で、1篇づつがこの世の危うい断片世界を切り取って、鋭い方解石の結晶のように開示して視せた珠玉の小説集なのである。……私は実に手応えを覚えたのであるが、次なる第二詩集の為の詩作を強く意識したのは、この時であった。

 

……さて、今回のブログでは、詩集の中から1篇を選び、作者による自作解説をしてみようと思う。ポーはその『詩論』の中で、作者が自作解説をするのは意味のある試みであるが、多くの作家がそれをしないのは、内実の見栄であり気取りであると書いている。私は見栄とは無縁であり、一気に書き上げた詩を改めて分解して語る事に、今、自身で興味を覚えている。……今回、分解する詩は詩集の中の『ニジンスキ―頌』と題する詩である。

 

 

 

「ニジンスキ―頌」

 

作られた秘聞、ニジンスキ―の偽手。/弓なりに反った十本の指に二本のネジを固定し/小さなレンズを左右に配し/加乗して肖像を描けば軸足が動く。/指は鳥の趾足のままに細く/42と8の数字を穴に嵌め込み/オブジェをオブジェのままに/犯意と化せば/偽手は手鎖を解かれて本物となる。/ニジンスキ―、或いは擬人法、/モンマルトルの安息の夜に。/

 

 

 

 

……以上である。先ずは第1行から一気に虚構に入る(かなり強引に)。本来ならば「義手」であるが、ここでは私が作った「偽手」という造語が書かれる事で、ニジンスキ―という存在自体が実際のニジンスキ―から逸脱して擬人的に立ち上がる。2行から4行までは、私のオブジェ作品『ニジンスキ―の偽手』の、記憶による制作過程の記述である。加乗は過剰とニュアンスが重なり、「軸足が動く」の動詞形に転じて次の行に移る。「指は鳥の趾足のままに細く」の行は、ニジンスキ―に纏わる伝説の叙述➡ニジンスキ―の死後、高く宙に浮き、鳥人の異名のあった稀人のその遺体を解剖した時、彼の足の骨格は人のそれではなく、鳥の趾足(しそく)の形状に寧ろ近かったという興味深い伝説を記述。「犯意と化せば…………本物となる。」は、実作のオブジェに、ポエジ―と不穏なリアリティ―が入ったところで制作を完了するの意。「ニジンスキ―、或いは擬人法、」は、この詩の主題そのもの。

 

 

……さて、問題は、何故この最終行で唐突にモンマルトルの地名が出て来るか?……である。モンマルトル、この場合は直にモンマルトル墓地を指すが、ニジンスキ―の墓がモンマルトル墓地に在る事を知る人は或いは少ないかと思う。しかし、たとえ知らなくても、読者は私の気持ちが入った息の発語から、何かの暗示をそこに覚えると思う。意味の叙述ならば散文に任せれば良いのであるが、詩の本意と醍醐味は、暗示とその享受の様々な拡がり―多様性にあると私は思っている。……つまり詩は意味で読むのでなく、アクロバティックな直感の織りで読むのである。正しい解釈などなく、読者の数だけ、詩は想像力を立ち上がる言葉の装置として在ると私は思っている。他の詩人はいざ知らず、少なくとも私の詩は、そこに自作のオブジェとの近似値を視るのである。

 

 

 

 

 

 

 

……さて、モンマルトル墓地が出たので、今回のブログの最後は、かつて体験した或る日の出来事を書いて終わろうと思う。

 

 

…………あれは、いつの年であったか定かではないが、たしか季節が春へと向かう頃、その日、私はサクレ・ク―ル寺院の人混みを離れて坂道を下り、次第に人影が絶えていく方へと進み、ラシェル通りという所の緩やかな階段を上がって、モンマルトル墓地の中央入り口へと辿り着いた。……パリの墓地は訪れる人が少ないため、殺人や強姦、窃盗などが最も多い危険区域であるが、それをおしてもこの墓地に来たのは、敬愛するドガや、モロ―、フ―コ―、ハイネ、……そしてニジンスキ―の墓を観る為であった。……しかし、薄日のさす遅い午後のこの墓地は、全く人気というものが絶えたように無人であった。驚いた事に、ニジンスキ―の隣の墓が深さ3m以上も掘られていて、ぽっかりと巨大な暗い穴がそのままで、墓掘り人夫の影さえも無かった。。……ドガの墓を視ようと思い、地図を頼りに歩いていくと、急に背後で少女の悲鳴に近い声が一瞬した。振り向くと、しかしそこに人影はなく、ただしんとした墓地の静まりがあるだけであった。空耳か……と思った瞬間、苔むした低い墓石の影から一人の少女が突然のように躍り出た。少女と見えたのは間違いで、……身長が1mくらいのその人は、かなり歳を重ねた小人の老婆であった。しかも、歪な面相を帯びていて、まるでゴヤの絵にでも出て来そうな「グロテスク」で奇怪な人形のような造りであった。娼婦のような真っ赤な短いスカ―トがアンバランスに生々しい。……しかし驚きはまだあった。……暗い墓の陰から、今一人の同じ面相の小人が躍り出て来たのであった。……二人は小人の双子だったのである。そして、先ほどの悲鳴はその一人が、ぬかるみの為に転倒したものと想われた。……まるでシャ―ロック・ホ―ムズの映画の冒頭にでも出て来そうな、しかも、シンメトリー(対称性)を愛する私の作品の構図そのままに二人は並んで、私の方をじっと見つめ、恥じらいと、妙な誘いの表情を浮かべたままにじっとそこにいるのであった。

 

 

……好奇心が強く、不穏な方に傾き易い私は、一瞬妄想した。……この双子の老婆の誘われるままに、もしついて行ったならば、間違いなく明日は無いな……と。『浴槽の花嫁』など「世界怪奇残酷実話」の著者で知られる牧逸馬の熱心な読者であった私は、巴里に実際に起きた不気味な奇譚を数多く知っている。……私は、なおも見ている二人を背にそこを離れて、墓地の出口へと歩き始めた。……振り向くと、二人の姿は墓石の並びに隠れたのか、もはや姿は掻き消えていた。……坂を下り石段を踏みながら、私は彼女達の家は何処なのかを推理した。……そして想った。あの双子の小人の家は、最初に現れた、あの墓石の湿った暗い底なのだと。………………風が湿りを帯びて来た。どうやら雨気が流れてくるらしい。……ふと気がつくと、ゴッホの弟のテオが住んでいた建物を示すプレ―トが目に入った。ゴッホはパリの最後をこの場所で過ごし、死地のオ―ヴェルへと向かっていった。……そう想った瞬間、何故か背筋が一瞬寒くなった。

 

 

 

 

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『君は初夢をみたか!?』

1月1日だけでなく、2日にみた夢も初夢というらしい。私が2日にみた夢は奇妙なものであった。私がかつて版画で度々モチ―フにしたバレエダンサ―のニジンスキ―が、どうも『牧神の午後』を踊り終えた後らしく、疲れて寝そべっている姿が現れたかと想うや、夢のカメラには次にポンペイの浴場が官能的に霞んで見え、次に噴火前のヴェスビオス火山がわずかに噴煙を不穏げに上げているのが、これまた薄く霞んで彼方に見えるという、……ただそれだけの、いささかの淫蕩、暗示に富んだ夢であった。以前のブログでも書いたが、私は美大の学生時にそれまで打ち込んでいた剣道をやめて方向転換し、何を考えたのか、熱心にクラシックバレエを学んでいた時期があるが、夢に出てきたニジンスキ―はその時の自分が化身した、ふてぶてしい姿なのであろうか。…………ともあれそんな夢をみた。

 

……正月5日は、映画『ジャコメッティ・ 最後の肖像』を観た。観て驚いた。昨年の夏に私はこのブログで、3回に分けてジャコメッティのこれが実像と確信する姿を直感的に書いた。それはこの国の評論家や学芸員、更にはジャコメッティのファン、信奉家諸君が抱いているようなストイックな芸術至上的な姿ではなく、殺人の衝動に駆られ、特に娼婦という存在にフェティッシュなまでの情動を覚える姿―その姿に近似的に最も近いのは、間違いなく、あのヴィクトリア時代を血まみれのナイフを持って戦慄的に走り抜けた〈切り裂きジャック〉である……という一文を書いたが、この映画は、まさか私のあのブログを原作としたのではあるまいか!!と想うくらいに、ピタリと重なる内容の展開であった。切り裂きジャックと同じく、〈女の喉を掻き切りたいよ!!〉と言うジャコメッティの犯意に取り憑かれたような呟き。……マ―グ画廊から支払われる莫大な額の画料のほとんどを、気に入りの娼婦とポン引きにむしりとられる老残を晒すジャコメッティ……。妻のアネットを〈俗物〉と罵り、自らは深夜にアトリエ近くの娼婦街を酔ったように虚ろにさ迷うジャコメッティの姿は、矢内原伊作の名著『ジャコメッティのアトリエ』の真摯な表層を一掃して、不可解な、その創造の神髄に更に迫って容赦がない。私の持論であるが、フェティシズムとオブセッション(強迫観念)、犯意、更には矛盾の突き上げが資質的に無い表現者は、創造の現場から去るべしという考えがある。芸術という美の毒杯は、強度な感覚のうねりと捻れから紡ぎ出される、危うさに充ちた濃い滴りなのである。……ともあれ、この映画はジャコメッティ財団が協力に加わっている事からも、かなり客観性の高い事実や証言に裏付けられたものとして興味深いものがある。

 

7日は、勅使川原三郎氏、佐東利穂子さんのデュオによるアップデ―トダンス『ピグマリオン―人形愛』を観るために、荻窪の会場―カラス・アパラタスに行く。……実は、昨年12月に両国のシアタ―Xで開催された、勅使川原・佐東両氏によるデュオの公演『イリュミナシオン― ランボ―の瞬き』の批評の執筆依頼をシアタ―Xから頼まれていたのであるが、極めて短い原稿量でありながら、これが意外に難航して年越しの作業になってしまった。私はかなり書く速度が速く、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の連載時も、毎回二時間もあれば、直しなく一発で書き上げていた。しかし、勅使川原氏の演出・構成・照明・音楽・出演を全て完璧にこなすその才能に対しては、私ならずともその批評なるものの、つまりは言葉の権能がその速度に追いつかない無効というものがあって、私は初めて難渋して年を越してしまった。このような事は私には珍しいことである。最初に書いた題は『勅使川原三郎―速度と客体の詩学』、そして次に書いたのが全く異なる『勅使川原三郎―ランボ―と重なり合うもの』である。そもそも、このような異才に対するには、批評などというおよそ鈍い切り口ではなく、直感によって一気に書き上げる詩の方が或いはまだ有効かと思われる。……さて今回の公演であるが、毎回違った実験の引き出しから呈示される、ダンスというよりは、身体表現による豊かなポエジ―の艶ある立ち上げは、私の感性を揺さぶって強度に煽った。キリコの形而上絵画やフェリ―ニの映像詩を彷彿とさせながらも、それを超えて、この身体におけるレトリシャン(修辞家)は、不思議なノスタルジックな光景を彼方に遠望するような切ない抒情に浮かび上がらせたと思うや、一転して最後の場面で、『悪い夢』の底無しの淵に観客を突き落とす。その手腕は、〈観る事〉に於ける時間の生理と心理学に精通したものがあり、ドラマツルギ―が何であるかを熟知した観がある。とまれ、この美の完全犯罪者は、今年のアパラタス公演の第1弾から、全速力で走り始めたようである。

 

…………翌日の8日は、ご招待を頂き、歌舞伎座で公演中の『初春大歌舞伎』を観に行く。松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎の高麗屋―同時襲名披露を兼ねている事もあり、勘九郎・七之助・愛之助・扇雀・猿之助……と賑やかである。しかし私が好きな、九代目中村福助が長期療養中の為に観れないのは寂しいものがある。静かな面立ちに似合わないこの破天荒者の才が放つ華の光彩には独特の魔があって、他の追随を許さないものがある。……さてこの日、私が観たのは昼の部―『箱根霊験誓仇討』『七福神』『菅原伝授手習鑑』であった。『菅原伝授……』を観るのは今回が二回目である。伝統の様式美の中に如何にして「今」を立ち上がらせるかは、歌舞伎の常なる命題であるが、私はそこに脈々と流れる血と遺伝子の不思議と不気味を垣間見て、時としてこの華やいだ歌舞伎座が一転して暗い宿命の呪縛的な檻に見えてゾゾと想う時がある。三島由紀夫は「芸道とは、死んで初めて達成しえる事を、生きながらにして成就する事である。」と、その本質を見事に記しているが、確かに芸道とは、その最も狂気に近い処に位置しており、精神の過剰なる者のみに達成しえる業なのかもしれない。精神の過剰が産んだ美とは、西洋では例えばバロックがそれであり、この国に於いては、歌舞伎、すなわちその語源たる「かぶく―傾く」が、それに当たるかと想われる。精神、感性の過剰のみが達成しえる美の獲得、……それはこのブログの先に登場したジャコメッティ、それに勅使川原三郎についても重なるものがあるであろう。……さて、飛躍して結論を急げば、おそらく20年後の歌舞伎の世界にあって、これを牽引しているのは、松本幸四郎の長男、……今回襲名した市川染五郎(現在まだ12才)と、市川中車(香川照之)の長男―市川團子、つまり名人・三代目市川猿之助(現二代目市川猿翁)の孫あたりがそれであろうかと想われる。……遺伝とはある意味で残酷なものであり、才はそれを持って宿命へと変える。美におけるフォルム(形・形状)の問題とは何か。……それを考える機会とそのヒントを歌舞伎は与えてくれるのである。…………さて、今月の12日からは東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」で、写真家・川田喜久治さんの個展『ロス・カプリチョス―インスタグラフィ―2017』が始まり、私はそのオ―プニングに行く予定である。私は先に写真家として川田さんの事を書いたが、正しくはゴヤの黒い遺伝子を受け継いだ写真術師という表現こそ相応しい。唯の言葉の違いと思うと、その本質を見逃してしまう。シュルレアリストの画家たちの事を絵師という表現に拘った澁澤龍彦のこの拘りに、いま名前は失念したが、フランスのシュルレアリズム研究の第一人者もまた同意したことと同じく重要である。光の魔性を自在に操って、万象を川田喜久治の狙う方へと強力に引き込んでいく恐るべき術は、正に魔術師の韻にも通ずる写真術師のそれである。私はゴヤの最高傑作の版画『妄』のシリ―ズの何点かを、パリやマドリッドで購入してコレクションしているが、この度、川田さんから届いた個展案内状の写真を視ると、伝わってくるのは、写真の分野を越えて、世界を、万象を、暗黒のフィルタ―で透かし視たゴヤの変奏を想わせて尽きない興味がある。個展は12日から3月3日までと会期は長い。……ぜひご覧になる事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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