…思えば大学を出てから10回ばかり、山手町、本牧…など転々と引っ越しを繰り返して来たが、いずれも横浜である。今の綺麗な無菌化した横浜と違い、不穏な怪しい気配がまだ横浜には充ちていて、幾つもの物語が交差していた感がある。
今や観光で賑わう〈みなとみらい21〉界隈は、綺麗になる前の赤レンガ倉庫が廃墟のように不気味に建っていて、引き込み線の線路にはペンペン草が生え、廃墟の裏には刺殺体が転がっていそうな危うい雰囲気が漂っていた。……私が本牧にいた頃は未だ米軍基地があって、日本人は立ち入り禁止なのだが、アトリエ裏の崖を登ってこっそりと基地内に入り、相模湾を航行する船を、柔らかな芝生の上に寝転びながら、のんびりと眺めていたものである。…つまりそうとう暇だったのである。…美術の作家と並行して私立探偵を職業にしようかと本気で考えていたのも、この頃であった。
一番長く住んでいたのは、山下公園そばの海岸通りの山下町で、30才から45才までの15年間。家を出れば目の前にすぐ横浜港が見え、背後には中華街があり、船の汽笛を遠くに聞きながら、自転車や徒歩でフラフラとしていたものである。当然何回か職務質問をされた事がある。国家も政治も権力なるものも、全て虚ろな幻に過ぎないと思っている私の事、警官の職業的勘から、この男は…何か怪しい!…と、思われたのかもしれないと、今は思う。
昼食は殆ど中華街であった。中華街の裏道りには暴力団の事務所があり、見ると、正面に巨大な額に入った一万円札が鉛筆で描かれていて、福沢諭吉の顔の場所には、明らかにその組の組長の顔が稚拙に描かれていた。
…また5階建ての怪しい古道具屋があって、商っている品は優れ物だが、廊下の壁の不自然な場所に固定されたマジックミラーが幾つも在って、来た客の多くが不審がっていた。…特に変なのは、いつも落ち着かない初老の店長の男以外は、店員はみな若い女性だけで、何故か顔ぶれがよく変わる。…そして戸口にはいつも貼り紙があってこう書かれていた。…〈求む女店員‼〉と。
「……この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持ち物だったという奴を、横浜の支那人町の、へんてこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」

…この一文は江戸川乱歩の最高傑作『押絵と旅する男』の一節である。…横浜の支那人町(今の中華街)の古道具屋で兄が見つけた不思議な遠眼鏡(…自然の法則を超越した、我々の世界とどこかで喰違っている処の、別な世界を透き視してしまう望遠鏡)を兄が入手した処から始まる幻夢譚である。

兄はその望遠鏡を持って明治二十六年時の浅草十二階の高塔に上がり、浅草寺裏の観音堂裏手に在った一軒の覗きからくり屋に在った、押絵になった覗き絵の女性(八百屋お七)に恋慕してしまう処から始まる幻想文学の頂点に位置する小説である。
…私はこの小説が好きで、文中に出てくる横浜支那人町に、昔、乱歩がモデルとして着想したような古道具屋がないか探し回ったものである。

…さて、それから数十年が経ち、……過去の沢山の思い出が詰まった中華街に在る画廊で、縁あって12月1日から21日までの3週間、『記憶の十字路に射すヴィクトリアの光』と題したオブジェ中心の個展を開催する事になった。
…画廊の名前は1010美術。…オ-ナ-の方は倉科敬子さん。10年以上、この場所で企画展を運営されているというから正にプロである。
…ご縁ともいうべき不思議な導きによって開催する事になった今回の初の個展。…東京を中心に、名古屋、札幌、熊本、鹿児島、香川、京都、冨山、福井、千葉、金沢、…と今まで沢山の画廊で個展を開催して来たが、不思議な事に地元横浜での初の個展というのは、思えば不思議ではあるが、やはりご縁という〈導き〉なのであろう。…オ-ナ-の倉科さんとは波長が合うのか、お互いの話の展開が実に面白く、私は今回の個展が実に楽しみなのである。…アトリエからも近く、ほぼ30分で行けるので、出来るだけ在廊していたいと考えている。
30代の頃、…まさか後にこの中華街の中で個展を開催するとは知る由もなく歩いていたのだから、…人生とは本当に面白い。…私も度々画廊に行く事にしている今回の個展。……乱歩の小説に登場する謎の古道具屋を探し求めてさすらっている当時の私自身とすれ違うような…………、横浜中華街とは、そんな不思議感の漂う迷宮の町なのである。





先日の5日、銀座の
…私は観ている途中でふと、彼の見事な身体表現に最も相応しい観客は誰か…と考え、すぐに



…………学生時代、店主に嫌な事を言われながらも、三茶書房はしかしめげずに度々行っていた。そのガラスケ―スの中に、今度は
その際にその展示の場所で、30年以上欲しくて探し続けていた
……しかし、その奥に入って私は我が目を疑った。……あの学生時代以来、ずっと意識し続けていた江戸川乱歩の件の書「うつし世はゆめ……」が奥の方で泉鏡花、谷崎潤一郎の書と並んで静かに展示されていたのであった。
谷崎潤一郎は、高橋お伝という伝説の姉御肌の美女と遭遇した事で、



③……そもそも、東京大学医学部内に、「解剖学標本室」なる物が存在する事を知ったきっかけは、推理小説家・
「はい、東大五月祭本部です」。私は電話した主旨を述べ見学を申し入れた。……すると大学祭で浮かれている学生達がざわつき(何か変な人から、変な電話~)という声が聞こえて来たので、私は別な角度から後日電話する事にして切った。…………それから1か月後、見学を許された私は本郷の校舎内を歩いていたのであった。
……最近気にいっている場所は
















……先日、制作の合間を縫って、私の魂の帰すべき場所、明治の面影が僅かに透かし見える浅草の今戸橋、また待乳山聖天辺りを散策した。広重の描いた風情が残る、私の最も好きな場所である。浅草寺や仲見世は人で喧しいが、この場所はたいそう静かで涼やかであった。新生の時は先ずはここから始めよう。私はそう思った。




















……翌日は、昼過ぎに紀尾井町にある文藝春秋社ビル内で打ち合わせが終わるや、私はすぐに浅草へと向かった。最近、つとに永井荷風の事が頭にちらつくので、彼が愛した浅草隅田川、吾妻橋、言問橋、向島……を眼下遥かに見下ろせるアサヒビール社の22階の展望カフェで、〈浅草〉が持っている不思議な魔の引力について考えてみたくなったのである。しかし、それにしても快晴である。……嘘のように晴れ渡った眼下を見ながら、浅草寺のやや左側に、大正12年の関東大震災で崩れ去るまで建っていた、蜃気楼のような

…………あれは何年前であったか。平凡社『太陽』の名編集長であったS氏から電話がかかって来て「今度、江戸川乱歩の特集〈怪人乱歩・二十の仮面〉で20人の書き手に、乱歩の20の謎をキ―ワ―ドにして書いてもらいたいので、あなたには〈洞窟〉を書いてもらいたいのですが……」と切り出された時に、私はすかさず「〈洞窟〉は書きたくないけれど、〈蜃気楼〉をキ―ワ―ドにして〈押し絵と旅する男〉についてなら喜んで書きますよ」と話した。意外にも、当然企画に入っていると思った〈蜃気楼〉がなく、私は即座にそれならば書こうと閃いたのである。一旦編集会議を開いて……となり、翌日再度電話がかかって来て、私は〈蜃気楼〉を書く事になった。
……ちなみに最初に依頼された〈洞窟〉は〈迷宮〉を更に追加して、直木賞作家の高橋克彦氏が書いたのであるが、この時の執筆者は他に、種村季弘、久世光彦、谷川渥、佐野史郎、鹿島茂、石内都、荒俣宏、赤瀬川原平、団鬼六、
……その、今では幻と化した浅草・〈仁丹塔〉が重要な舞台となった






