名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美学の谷川渥さん、それに東大の国文学教授のロバート・キャンベルさん等、多士済々の方々がたくさん会場に来られて、盛況のうちに新作個展が終了した。個展の手応えが大きく、企画者の森岡督行さんからは、さっそくまた来年の個展の依頼の話を頂いた。森岡書店のレトロモダンな空間は、私のオブジェが面白く映える空間である。また新しい試みをしたいと思う。
個展が終了した翌日、東京国際フォーラムで開催中の『アートフェア東京』に行く。今回も海外を含めて多くのギャラリーが、自分たちの推す作家の作品を出品しているが、玉石混交の観があり、そのほとんどが芸術の本質からはほど遠い(石)として映った。その石の群れの中に在って、唯一光彩を放つ〈玉〉として映ったのは、またしても「中長小西」であった。またしても・・・・と云うのは、数年前のアートフェアで中長小西が出品していた天才書家・井上有一の、それも彼におけるトップレベルの作品や瀧口修造のそれを見て以来、私がアートフェアの印象をこのメッセージに書く際に必ず登場するギャラリーが「中長小西」だからである。その中長小西の今回の出品作家の顔ぶれは、斎藤義重、山口長男、白髪一雄、松本竣介、ジャスパー・ジョーンズ、モランディ、ピカソ、フォンタナ、ジャコメッティ、デュシャン、そして今回は私の作品も出品されている。未だ存命中の私の事は差し引くとしても、それにしても堂々たる陣容であり、他の画廊を圧して揺るがない。私の作品も含め、その多くに早々と「売約済み」が貼られ、如何に眼識のあるコレクターの人達の多くがこの画廊を意識しているかが伝わってくる。かつての南画廊、佐谷画郎以来、ギャラリーの存在が文化面にも関わってくるような優れた画廊は絶えて久しいが、オーナーの小西哲哉氏は、その可能性を多分に秘めている。若干四十一歳、研ぎ澄まされた美意識を強く持った、既にして画商としての第一人者的存在である。
昨年の秋に「中長小西」で開催された私のオブジェを中心とした個展は大きな好評を得たが、その小西氏のプロデュースで次なる個展の企画が立ち上がっている。未だ進行中のために多くは語れないが、その主題は、今までで、ドラクロワ、ダリ、ラウシェンバーグの三人のみが挑んだものであり、難題にして切り込みがいのあるものである。ここまで書いてピンと来た方は相当な美術史の通であるが、ともあれ今後に御期待いただければ嬉しい。
その日の午後に、国立近代美術館で開催中のフランシス・ベーコン展に行く。予想以上に面白い作品が展示されていて、かつてテートギャラリーでベーコンの絵を見て、ふと「冒瀆を主題とした20世紀の聖画」という言葉を吐いたのを思い出す。教皇を描いたベラスケスやマイブリッジの連続写真などが放つアニマをオブセッショナルなまでに感受して、その振動のままに刻印していくベーコンの独自な表現世界。今回の展示で秀れていたのは、展示会場で天才舞踏家・土方巽の「四季のための二十七晩」の映像が上映されていた事であった。この演出法はまことにベーコンのそれと共振して巧みであった。ずいぶん昔であるが、私は土方巽夫人の燁子さんとアスベスト館の中で話をしていて、急に燁子さんが押し入れの中から土方の遺品として出して来て私に見せてくれた物があった。それはヴォルスやベーコンの作品の複製画を切り取ってアルバムに貼り、そこに自動記述のように書いた、彼らの作品から感受した土方巽の言葉の連なりであった。その中身の見事さ、鋭さは三島由紀夫のそれと同じく、「表現とは何か!?」という本質に迫るものであった。私はそれを夫人からお借りして持ち帰り熟読した事があったが、そこから多くの事を私は吸収したのであった。そのアルバムが、今、ガラスケースの中に展示されていて、多くの人が熱心に見入っている。このアルバムの意味は、次なる舞踏家たちへの伝授の為に書かれたものであるが、精巧な印刷物として形になり、文章も活字化されて伝われば、一冊の優れた“奇書”として意味を持つ本となっていくに充分な内容である。ともあれ、このベーコン展はぜひともお薦めしたい展覧会である。
個展が終わると同時に、今年の桜が急に満開となってしまって慌ただしい。桜はハラハラと散り始めの時が私は一番好きである。今回は、桜の下に仰向けに寝ころばり、頭上から降ってくる桜ふぶきを浴びるように見てみようと思っている。梶井基次郎の小説のように、春に香る死をひんやりと透かし見ながら・・・・。
追記:先日、慶應義塾大学出版会から坂本光氏の著書『英国ゴシック小説の系譜』という本が刊行された。表紙には私のオブジェ『Masquerade – サスキア・ファン・アイレンブルグの優雅なる肖像』が、装幀家の中島かほるさんの美麗なデザインによって妖しい光を放っている。久世光彦氏との共著『死のある風景』(新潮社刊)以来、私の作品を最も多く装幀に使われているのは中島かほるさんである。この本はなかなかに興味深い。味読して頂ければ嬉しい。



では何故、彼らはスムーズに吉良邸に辿り着けたのか!?私は以前にもこのコラムで書いたが、それはおそらく水路を舟で行き吉良邸近くの河岸から一気に上陸したのではなかったか・・・・という推理をしていた。一種の奇襲戦法である。23日まで個展を開催中の
・・・・とすると、私が立っているこの場所から亀島川を舟で行き、吉良邸へ・・・・。その可能性は高い。そう考えると、夜陰に乗じて水路を行く浪士たちの緊張がリアルに伝わって来る。個展を開催している井上ビルは昭和2年築のレトロな建物で、不思議な趣に充ちているが、それを超えて江戸時代までタイムスリップ出来る空間がこの土地にはある。森岡書店の窓からは眼下にその亀島川の流れが見えて心地よい。昭和が見える。大正が見える。明治が見える。・・・・そしてこの窓からは江戸時代までが透かし見えるのである。
森岡書店の店主、森岡督行氏は神保町の一誠堂書店を経て、ここに七年前に森岡書店を開いた。半分はプラハなどから入って来た貴重な写真集や画集が並び、半分はギャラリーである。唯、企画の私の場合だけ、全てがギャラリーへと変貌する。私がここで個展を企画してもらうのは今回で連続四回目である。画廊と違って客層は三十代が最も多い。そして彼ら達は私の作品と出会い、それをコレクションしていく。巧みな表現の言葉は持っていないので、ひたすら「カッコいい!!」と形容している。言葉は単純であるが、「カッコいい!!」というのはひとつの批評の「極」である。そこからスタートして芸術というものの面白さを彼らの人生の彩りにしていけば、そこから豊かな人生が広がっていく。作家とコレクターはほぼ同世代であるのが、他の作家たちの常であるが、私の場合は十代から八十代までと幅広いのがひとつの大きな自信である。このビルはミステリアスな雰囲気があり、映画やテレビのドラマの撮影が連日のように行われていて、会場に入ってくるまでが面白い。しかし一歩、森岡書店の中に入ると雰囲気は一変して静謐である。そこに広がっているのは、紛れもない私の作品が放つイメージ空間なのである。




今月の11日(月)から23日(土)まで茅場町の
木版画家のKから「ぜひ君に参加して頂きたいのだが・・・・」という手紙をもらったのは、あれは私が30才を少し過ぎた頃であったろうか。当時の私は銅版画だけの表現からオブジェへと移行していく、その端境期にあった。しばらく考えた後に参加する事にしたのは、いろいろ理由はあげられるが、一言でいえば・・・・暇だったのである。今日では伝説的な存在となった故・湯川成一氏の湯川書房が版元となり、『容器』はⅢ号まで続いた。Ⅲ号とはずいぶん短い寿命であったが、もう辞めようと言い出したのは私からであった。Ⅰ号が出た時は単純に嬉しかったが、すぐに覚めてしまった。ここには批評が無いと思ったのである。二人の詩人はレトリックに長け、木版画家の彫る「肖像」の細かさは微に入ったものであったが、この「容器」の姿には、未知ではなく既知をなぞるものがあり、自己満足的であり、予定調和的であり、何より大事な「本」という形における構造的な火花がまるで無い事に苛立を覚えてしまったのである。更に云えば、このまま続けていれば、表現者としての危ういところに陥ってしまうという危機感を痛感したのである。『容器』は限定100部で、四人のメンバー各人に10冊づつが手渡された。定価は確か一冊が1万円であったかと思う。しかし、私はこの詩画集に執着は無かったので、我がアトリエに来る友人達にプレゼントをした。皆がけっこう喜んでくれるので私も嬉しくなって更にプレゼントしてしまい、とうとう手持ちは一冊もなくなってしまった。後日、神田の神保町の古書店のガラスケースの中に三冊が展示してあり、価格を見ると三冊で28万円の評価がついていたが、まるで対岸の風景を見るような感慨しか立たなかった。私の主張はメンバー達にも理解され、Ⅲ号で終わったが、やはり、終了したのは正解であったと思う。こういう場合「継続は力である」ではなく、表現者として成長していくための大切なものをことごとく奪い去っていったであろう。私たちは〈同人雑誌〉を唯々好むマニアックな好事家を喜ばす為に作っているのではない、という自明の事を通しただけなのである。そして四人はその後、各々全く違う方向を生きる事となった。・・・・四人の誰もが皆、若かった頃の話である。






