川田喜久治

『作品集刊行の反響』

求龍堂の企画出版で私の作品集『危うさの角度』が刊行されて半月が過ぎた。本を入手された方々からメールやお手紙、また直接の感想なりを頂き、出版したことの手応えを覚えている。……感想の主たるものは先ず、印刷の仕上がりの強度にして、作品各々のイメ―ジが印刷を通して直に伝わってくる事への驚きの賛である。……私は色校正の段階で五回、ほぼ全体に渡って修正の徹底を要求し、また本番の印刷の時にも、二日間、埼玉の大日本印刷会社まで通って、担当編集者の深谷路子さんと共に立ち会って、刷りの濃度のチェックに神経を使った。私の要求は、職人が持っている経験の極を揺さぶるまでの難題なものであったが、それに響いた職人が、また見事にその難題に応えてくれた。昨今の出版本はインクが速乾性の簡易なもので刷られているが、私の作品集は、刷ってから乾燥までに最短でも三日はかかるという油性の強くて濃いインクで刷られている。私の作品(オブジェを中心とする)の持っているイメ―ジの強度が必然として、そこまでの強い刷りを要求しているのである。……しかし、当然と思われるこのこだわりであるが、驚いた事に、自分の作品集でありながら、最近の傾向なのか、色校正をする作家はほとんどおらず、また印刷所に出向いて、刷りに立ち会う作家など皆無だという。信じがたい話であるが、つまり、出版社と印刷所にお任せという作家がほとんどなのである。……、昔は、作家も徹底して校正をやり、また印刷所にも名人と呼ばれる凄腕の職人がいて、故に相乗して、強度な印刷が仕上がり、後に出版物でも、例えば、写真家の細江英公氏の土方巽を撮した『鎌鼬』や、川田喜久治氏の『地図』(我が国における写真集の最高傑作として評価が高い)のように、後に数百万で評価される本が出来上がるのであるが、今日の作家の薄い感性は、唯の作品の記録程度にしか自分の作品集を考えていないようで、私にはそのこだわりの無さが不可解でならない。だから、今回、その川田喜久治氏から感想のお手紙を頂き、「写真では写せない深奥の幾何学的リアル」という過分な感想を頂いた事は大きな喜びであった。また、美学の谷川渥氏からも賞賛のメールが入り、比較文化論や映像などの分野で優れた評論を執筆している四方田犬彦氏からは、賛の返礼を兼ねて、氏の著書『神聖なる怪物』が送られて来て、私を嬉しく刺激してくれた。また、作品集に掲載している作品を所有されているコレクタ―の方々からも、驚きと喜びを交えたメールやお手紙を頂き、私は、春の数ヵ月間、徹底してこの作品集に関わった事の労が癒されてくるのを、いま覚えている。

 

私のこの徹底した拘(こだわ)りは、しかし今回が初めてではなかった。……以前に、週刊新潮に池田満寿夫さんが連載していたカラ―グラビアの見開き二面の頁があったが、池田さんが急逝されたのを継いで、急きょ、久世光彦さんと『死のある風景』(文・久世光彦/ヴィジュアル・北川健次)という役割で連載のタッグを組んで担当する事になり、その後、二年近く続いたものが一冊の本になる際に、新潮社の当時の出版部長から、印刷の現場にぜひ立ち会ってほしいと依頼された事があった。これぞという出版本の時だけ印刷を依頼している、最も技術力の高い印刷所にその出版部長と行き、早朝から夜半まで立ち会った事の経験があり、それが今回役立ったのである。……久世光彦さんとの場合も、久世さんの耽美な文章に対峙し、食い殺すつもりで、私は自分のヴィジュアルの作品を強度に立たせるべく刷りに拘った。結果、久世さんの美文と、私の作品が共に艶と毒の香る本『死のある風景』が仕上がった。……表現の髄を熟知している名人・久世光彦の美意識は、私のその拘りの徹底を見抜いて、刊行後すぐに、手応えのある嬉しい感想を電話で頂いた。共著とは云え、コラボなどという馴れ合いではなく、殺し合いの殺気こそが伝わる「撃てば響く」の関係なのである。……今はそれも懐かしい思い出であるが、ともかく、それが今回役立ったのである。だから職人の人も、印刷の術と許容範囲の限界を私が知っている事にすぐに気づき、その限界の極とまで云っていい美麗な刷りが出来上がったのである。この本には能う限りでの、私の全てが詰まっている。…………まだご覧になっておられない方は、ぜひ実際に手に取って直にご覧頂きたい作品集である。

 

……さて、6月から3ヶ月間の長きに渡って福島の美術館―CCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催されていた個展『黒の装置―記憶のディスタンス』が今月の9日で終了し、8月末には作品集『危うさの角度』も刊行された。(『危うさの角度』の特装本100部限定版は、9月末~10月初旬に求龍堂より刊行予定)……そして今の私は、10月10日から29日まで、東京日本橋にある高島屋本店の美術画廊Xで開催される個展『吊り下げられた衣裳哲学』の作品制作に、今は没頭の日々を送っている。今回は新作80点以上を展示予定。東京で最も広く、故に新たな展開に挑むには、厳しくも最高にスリリングな空間が、私を待っているのである。今年で連続10回、毎年続いている個展であるが、年々、オブジェが深化を増し、もはや美術の域を越境して、私自身が自在で他に類の無い表現の領域に入ってきている事を、自分の内なる醒めた批評眼を持って分析している。「観者も実は創造に関わっている重要な存在であり、私の作品は、その観者の想像力を揺さぶり、未知とノスタルジアに充ちた世界へと誘う名状し難い装置である」。これは私独自の云わば創造理念であるが、私の作品は、今後ますます不思議な予測のつかない領域に入りつつあるようである。……その意味でも、10月から始まる個展には、乞うご期待という事を自信を持って、ここに記したいと思う。

 

 

 

 

 

 

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『光の旅人』

……ここに1冊の写真集がある。1932年から1935年の僅か数年間の短い間に写真雑誌『光画』に幻の夢見のような写真を連続的に発表しながら、突然、本人自身が幻のように消えてしまった写真家・飯田幸次郎の写真集である。浅草六区に住み、木村伊兵衛に人工着色の技術を伝授したのも飯田幸次郎であるが、忽然として、台頭しつつある写真の表舞台から消えてしまったのである。…………私がその写真家の存在を知ったのは昨年の秋であった。私のアトリエに毎月届く『がいこつ亭』なる私家版の薄い文芸冊子があるが、詩・映画評論・短歌・小説など多彩な内容が詰まっており、その質は高く私は毎回楽しみにしている。ある日届いたその冊子の中に、私の40年来の知人である中村恵一さんが「飯田幸次郎を発掘」と題して、その消えた写真家について詳しく言及してあり、なかなかに興味深かったのであるが、私はそこに掲載されていた飯田の二点の写真をみて、この写真家がただ者ではない事を直感した。……その数日後に、私は高島屋の個展に中村さんをお呼びして来て頂き、さらに、この幻の写真家―飯田幸次郎について詳しく教えて頂いた。……それによると、最初にこの人物に強い興味を持ったのは、写真評論で知られる飯沢耕太郎氏であった。そして、飯沢氏から中村さんは飯田幸次郎の消えた後の追跡調査を依頼されたのである。……しかし、中村さんの難航しながらも徹底した追跡によって、飯田幸次郎のその後の謎に光が当てられるようになり、今回の写真集が刊行されるに至ったのである。

 

「……看板と建物ばかりで、人の影すらもない、この写真。夜半にふとみた夢の中に、突然現れたようなこの光景。……パリの通りを描いたバルチュスの絵をふと連想したが、あの絵のようなマヌカンめいた人物たちは、ここにはなく、全くの無人……。まるで芝居の書き割りでもあるような。そして人間の視点からは僅かに外れた高みが呈する、不思議な静寂と懐かしさ、そして不安。……この不安は岸田劉生の『切り通し』にも通じる不穏と犯意があるが、やはり、画面を第一に領しているのは郷愁であろう。懐かしいが、しかし今まで見た事のない不思議な風景、不思議な時間。……そして死者たちが静かに佇んでもいるような…………。私は中村さんが飯田幸次郎の写真集を大変な苦労をされて刊行したというのを伺った時に、購入を申し出たのであるが、初版は私が最後ですぐに絶版になってしまったという。

 

 

飯田幸次郎「看板風景」1932年 

 

 

前回のメッセージでも書いたが、先日、川田喜久治さんの写真展を観に.東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」を訪れた。オ―プニングで沢山の来客であったが、私は一点一点、川田さんの表現世界の強度な暗部に入るべく、あたかも現代の『雨月物語』を読むような覚悟で集中して視入った。川田さんの写真には観る度にひんやりとする発見がある。…「美しい、そしてぞっとするような光景」……海外の美術館のキュレタ―達の多くもまたこのように高く評価している川田さんの写真世界は、その表象の皮膚が実に厚い。この厚さは、以前に川田さんと並べて書いたゴヤに通ずる厚さである。……ゴヤの中には、その後のシュルレアリスムや、更にはピカソまでが既に内包されていると鋭く指摘したのは、美術評論の坂崎乙郎や澁澤龍彦といった慧眼の人達であるが、私が川田喜久治という異才の人に視るのも、そういった意味の厚みであり、昨今ますます貧血と迷走の観を呈している写真の分野を尻目に、更には無縁に、川田喜久治さんの強靭な厚みが更に極まりを見せてくるのは必然であり、また事実でもあるだろう。……光の謎を直視している川田さんのみの独歩が、写真が未だ魔術的であった時代の韻を帯びて、現代の陰画の様を光を刈り込んで放射してくるのである。

 

私は前回、今回と続けて写真について記してきたが、この熱い想いは、数年ぶりとなる水都幻想の街―ヴェネツィアへの写真撮影行が控えているからなのかもしれない。また、今年に予定されている数々の画廊での個展、そして、6月から9月の長期にわたって、福島の美術館―CCGA現代グラフィックアートセンターで開催される予定の、大規模な私の個展が控えているからなのかもしれない。そう、つまり私は年始めから熱くなっているのである。……一昨年は中林忠良氏、そして昨年は加納光於氏、そして今年が私の個展と、この美術館では作家を密に絞って個展を開催しているが、これから、この個展に多くの時間を私は割いていく事になるであろう。出品作は私の版画を主として、近作のオブジェも出品する事になっている。……この個展については、折々にまた触れていく予定である。

 

 

 

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『君は初夢をみたか!?』

1月1日だけでなく、2日にみた夢も初夢というらしい。私が2日にみた夢は奇妙なものであった。私がかつて版画で度々モチ―フにしたバレエダンサ―のニジンスキ―が、どうも『牧神の午後』を踊り終えた後らしく、疲れて寝そべっている姿が現れたかと想うや、夢のカメラには次にポンペイの浴場が官能的に霞んで見え、次に噴火前のヴェスビオス火山がわずかに噴煙を不穏げに上げているのが、これまた薄く霞んで彼方に見えるという、……ただそれだけの、いささかの淫蕩、暗示に富んだ夢であった。以前のブログでも書いたが、私は美大の学生時にそれまで打ち込んでいた剣道をやめて方向転換し、何を考えたのか、熱心にクラシックバレエを学んでいた時期があるが、夢に出てきたニジンスキ―はその時の自分が化身した、ふてぶてしい姿なのであろうか。…………ともあれそんな夢をみた。

 

……正月5日は、映画『ジャコメッティ・ 最後の肖像』を観た。観て驚いた。昨年の夏に私はこのブログで、3回に分けてジャコメッティのこれが実像と確信する姿を直感的に書いた。それはこの国の評論家や学芸員、更にはジャコメッティのファン、信奉家諸君が抱いているようなストイックな芸術至上的な姿ではなく、殺人の衝動に駆られ、特に娼婦という存在にフェティッシュなまでの情動を覚える姿―その姿に近似的に最も近いのは、間違いなく、あのヴィクトリア時代を血まみれのナイフを持って戦慄的に走り抜けた〈切り裂きジャック〉である……という一文を書いたが、この映画は、まさか私のあのブログを原作としたのではあるまいか!!と想うくらいに、ピタリと重なる内容の展開であった。切り裂きジャックと同じく、〈女の喉を掻き切りたいよ!!〉と言うジャコメッティの犯意に取り憑かれたような呟き。……マ―グ画廊から支払われる莫大な額の画料のほとんどを、気に入りの娼婦とポン引きにむしりとられる老残を晒すジャコメッティ……。妻のアネットを〈俗物〉と罵り、自らは深夜にアトリエ近くの娼婦街を酔ったように虚ろにさ迷うジャコメッティの姿は、矢内原伊作の名著『ジャコメッティのアトリエ』の真摯な表層を一掃して、不可解な、その創造の神髄に更に迫って容赦がない。私の持論であるが、フェティシズムとオブセッション(強迫観念)、犯意、更には矛盾の突き上げが資質的に無い表現者は、創造の現場から去るべしという考えがある。芸術という美の毒杯は、強度な感覚のうねりと捻れから紡ぎ出される、危うさに充ちた濃い滴りなのである。……ともあれ、この映画はジャコメッティ財団が協力に加わっている事からも、かなり客観性の高い事実や証言に裏付けられたものとして興味深いものがある。

 

7日は、勅使川原三郎氏、佐東利穂子さんのデュオによるアップデ―トダンス『ピグマリオン―人形愛』を観るために、荻窪の会場―カラス・アパラタスに行く。……実は、昨年12月に両国のシアタ―Xで開催された、勅使川原・佐東両氏によるデュオの公演『イリュミナシオン― ランボ―の瞬き』の批評の執筆依頼をシアタ―Xから頼まれていたのであるが、極めて短い原稿量でありながら、これが意外に難航して年越しの作業になってしまった。私はかなり書く速度が速く、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の連載時も、毎回二時間もあれば、直しなく一発で書き上げていた。しかし、勅使川原氏の演出・構成・照明・音楽・出演を全て完璧にこなすその才能に対しては、私ならずともその批評なるものの、つまりは言葉の権能がその速度に追いつかない無効というものがあって、私は初めて難渋して年を越してしまった。このような事は私には珍しいことである。最初に書いた題は『勅使川原三郎―速度と客体の詩学』、そして次に書いたのが全く異なる『勅使川原三郎―ランボ―と重なり合うもの』である。そもそも、このような異才に対するには、批評などというおよそ鈍い切り口ではなく、直感によって一気に書き上げる詩の方が或いはまだ有効かと思われる。……さて今回の公演であるが、毎回違った実験の引き出しから呈示される、ダンスというよりは、身体表現による豊かなポエジ―の艶ある立ち上げは、私の感性を揺さぶって強度に煽った。キリコの形而上絵画やフェリ―ニの映像詩を彷彿とさせながらも、それを超えて、この身体におけるレトリシャン(修辞家)は、不思議なノスタルジックな光景を彼方に遠望するような切ない抒情に浮かび上がらせたと思うや、一転して最後の場面で、『悪い夢』の底無しの淵に観客を突き落とす。その手腕は、〈観る事〉に於ける時間の生理と心理学に精通したものがあり、ドラマツルギ―が何であるかを熟知した観がある。とまれ、この美の完全犯罪者は、今年のアパラタス公演の第1弾から、全速力で走り始めたようである。

 

…………翌日の8日は、ご招待を頂き、歌舞伎座で公演中の『初春大歌舞伎』を観に行く。松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎の高麗屋―同時襲名披露を兼ねている事もあり、勘九郎・七之助・愛之助・扇雀・猿之助……と賑やかである。しかし私が好きな、九代目中村福助が長期療養中の為に観れないのは寂しいものがある。静かな面立ちに似合わないこの破天荒者の才が放つ華の光彩には独特の魔があって、他の追随を許さないものがある。……さてこの日、私が観たのは昼の部―『箱根霊験誓仇討』『七福神』『菅原伝授手習鑑』であった。『菅原伝授……』を観るのは今回が二回目である。伝統の様式美の中に如何にして「今」を立ち上がらせるかは、歌舞伎の常なる命題であるが、私はそこに脈々と流れる血と遺伝子の不思議と不気味を垣間見て、時としてこの華やいだ歌舞伎座が一転して暗い宿命の呪縛的な檻に見えてゾゾと想う時がある。三島由紀夫は「芸道とは、死んで初めて達成しえる事を、生きながらにして成就する事である。」と、その本質を見事に記しているが、確かに芸道とは、その最も狂気に近い処に位置しており、精神の過剰なる者のみに達成しえる業なのかもしれない。精神の過剰が産んだ美とは、西洋では例えばバロックがそれであり、この国に於いては、歌舞伎、すなわちその語源たる「かぶく―傾く」が、それに当たるかと想われる。精神、感性の過剰のみが達成しえる美の獲得、……それはこのブログの先に登場したジャコメッティ、それに勅使川原三郎についても重なるものがあるであろう。……さて、飛躍して結論を急げば、おそらく20年後の歌舞伎の世界にあって、これを牽引しているのは、松本幸四郎の長男、……今回襲名した市川染五郎(現在まだ12才)と、市川中車(香川照之)の長男―市川團子、つまり名人・三代目市川猿之助(現二代目市川猿翁)の孫あたりがそれであろうかと想われる。……遺伝とはある意味で残酷なものであり、才はそれを持って宿命へと変える。美におけるフォルム(形・形状)の問題とは何か。……それを考える機会とそのヒントを歌舞伎は与えてくれるのである。…………さて、今月の12日からは東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」で、写真家・川田喜久治さんの個展『ロス・カプリチョス―インスタグラフィ―2017』が始まり、私はそのオ―プニングに行く予定である。私は先に写真家として川田さんの事を書いたが、正しくはゴヤの黒い遺伝子を受け継いだ写真術師という表現こそ相応しい。唯の言葉の違いと思うと、その本質を見逃してしまう。シュルレアリストの画家たちの事を絵師という表現に拘った澁澤龍彦のこの拘りに、いま名前は失念したが、フランスのシュルレアリズム研究の第一人者もまた同意したことと同じく重要である。光の魔性を自在に操って、万象を川田喜久治の狙う方へと強力に引き込んでいく恐るべき術は、正に魔術師の韻にも通ずる写真術師のそれである。私はゴヤの最高傑作の版画『妄』のシリ―ズの何点かを、パリやマドリッドで購入してコレクションしているが、この度、川田さんから届いた個展案内状の写真を視ると、伝わってくるのは、写真の分野を越えて、世界を、万象を、暗黒のフィルタ―で透かし視たゴヤの変奏を想わせて尽きない興味がある。個展は12日から3月3日までと会期は長い。……ぜひご覧になる事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

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『必見 – 川田喜久治写真展』

「幻視者」という言葉は、或いは現実の核にある不気味で異形な実相をも見究められる人の謂ではあるまいか。・・・・昨日私は、フォト・ギャラリー・インターナショナルで開催中の川田喜久治写真展「2011-Phenomena」を見ながら、そう思った。そして本当の意味での写真が持つ権能と力に対峙した思いがした。タイトルにあるPhenomenaとは〈現象〉の複数形。ここは森羅万象と解すべきか。ともあれ、川田喜久治氏の表現世界にこの世の万象が引き寄せられている。そんな印象を抱きながら、耽美と凶事の気配が濃密に詰まった氏の世界を、畏怖を覚えながら堪能したのであった。

 

ゴヤ『砂に埋もれる犬』

アンドレ・マルローの『ゴヤ論』の最終行は「・・・・かくして近代はここから始まる。」という文で終っている。この言葉はある意味で正しく、例えばそれを受け継いだのがマネであり、そこから近代絵画の幅が広がった。しかしゴヤの目は、私に言わせればむしろ近代を超えて現代の実相までも遍く照射しているのではあるまいか。私は昨日の川田氏の個展会場でそこまでも考えてみた。そう思ったのは、その場で見た氏の或る写真(それは太陽と、今一つのどす黒い太陽の巨大なシルエットが共存しているという凄みのあるもの)を見た時の印象が、かつてプラドで見たゴヤの『黒い絵』中の名作『砂に埋もれる犬』と卒然と重なったからである。つまりゴヤの眼差しは、時を経て、絵画ではなく写真の領域の上に —-  川田喜久治氏に受け継がれていると思ったのである。かつてベンヤミンは写真におけるアニマの可能性を否定したが、それは凡百の写真に対してであり、こと川田氏の写真を見る限り、それが間違いである事を観者はその場で体感し首肯するであろう。

 

私のアトリエには、ルドンゴヤ(妄のシリーズ)、ヴォルスベルメールホックニーレンブラント・・・・などの版画が掛かっている。そして私はあえてゴヤの横に川田氏の名作「ボマルツォの奇顔」の写真を掛けているのであるが、その写真が持つ強度な波動は、表現者として生きている私を鼓舞してくれている。ここに掲載した画像は川田氏の巨大な写真集「ラスト・コスモロジー」の中の「太陽黒点とヘリコプター」である。鮮明に掲載出来ないのが残念であるが、太陽の黒点と不気味に飛翔するヘリコプター、そして夢魔のような暗雲と、日付が写っている。したたかなまでに完璧であって、付け足すものは何もない、妖かしの瞬間定着術!!これを見ると、写真家というよりは写真術師と呼びたい衝動に駆られてくる。写真が未だ光線魔術と呼ばれていた頃の手を、川田氏は間違いなく掌中に隠し持っている。(想定外・・・・)などと言い逃れている現代人の盲目を突き刺してくる、これは現象の奥に不気味に息づく「気」を捕えた紛れもない名作であろう。川田氏の写真展は始まったばかり。しかし暑い中を汗を流しても訪れて見るだけの価値は充分にある。ぜひ御覧になられる事をお薦めしたい写真展である。

 

写真集「ラスト・コスモロジー」より見開き(部分)

 

「ラスト・コスモロジー」より見開き(上の写真の更なる部分アップ)

 

 

川田喜久治写真展「2011年-Phenomena」

2012年9月4日(火)~10月31日(水)
フォト・ギャラリー・インターナショナル
東京都港区芝浦4-12-32/TEL.03-3455-7827

月~金 11:00 – 19:00
土   11:00 – 18:00
日・祝日休館 入場無料

JR田町駅・芝浦側(東口)より徒歩10分

 

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『写真集、遂に刊行さる!!!』

11月の24日に福井を訪れて以来、実に19連泊続いたホテル暮らしがようやく終わり、横浜へと戻った。福井にいる間は、展示、新聞の連載執筆、テレビ、ラジオの収録、講演、対談、そして画廊での新作展発表、さらには中学の同窓会、高校での講演etc、あっという間に過ぎた多忙な19日間であった。

 

 

 

福井県立美術館刊行による私の個展図録があまりに出来が良く、充実した内容になっているので、その事をメッセージに記したところ、全国から美術館宛に問い合わせや注文が殺到し、係の人が対応に追われている。係の人に伺ったところ、ひとりで5冊まとめて注文する人などもおり、在庫がかなり少なくなっているようで、作者としても嬉しい反響である。おそらく今のペースでいくと、個展が終了する今月の25日頃には完売の為に絶版となる事は必至であるだろう。

 

さて、予告で記したとおり、遂に私の写真集『サン・ラザールの着色された夜のために』が、出版社の沖積舎から刊行された。写真74点それぞれに詩を74篇書いているが、私はその詩の全てを三日間で書き上げた。今までにない集中力を出したために、書き終えた後はしばし放心状態であった。写真集であると同時に、独自な詩集としての新しい形も倶えている。帯には、「〈美の侵犯〉美術家:北川健次による、写真と詩が切り結ぶ夢の光跡!幻視のエクリチュール!!」の文が入り、写真家 ー 川田喜久治氏のテクストからの引用文が光彩を放っている。既に福井県立美術館の個展会場では先行販売され、一日で二十冊以上のペースで売れているという。限定五百五十部(内五十部はオリジナル写真入り特装版)と少ない部数の為、これもおそらくは二ヶ月で完売・絶版となるであろう。印刷は最先端の技術を使ったアミ点の少ない直刷りの為、極めて美しく、日本の印刷技術のレベルの高さを示している。私の、詩集としての最初の本でもある。御興味のある方はぜひ御購読頂き、写真と詩による、私の新しい表現世界を楽しんで頂ければと願っている。

 

限定五百部の普及版は定価が7140円(税込)。限定五十部の特装版は定価が31.500円(税込)で、未発表のオリジナル写真が1点、写真集に付いている。ご注文は直接、沖積舎まで。TEL.03-3291-5891。FAX03-3295-4730。注文の受付は毎朝9時より開始しています。

 

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『真の幻想絵画とは・・・』

神田神保町にある出版社の沖積舎に行く。社主の沖山氏と、私の写真集刊行の打ち合わせのためである。沖山氏は、私の最初の版画集「正面の衣裳」を企画・刊行した人であり、恩人である。会社の階段を昇っていく途中で携帯電話が鳴った。電話は映画プロデューサーのS氏からであった。S氏云わく「銀座の画廊で個展をしている或る画家の絵を見ていて、次第にいらだちを覚えた」との由。その画家は、いわゆる(幻想画家)を謳っているわけであるが、S氏は、いかにも(幻想絵画風)の小道具を並べただけの予定調和の画面を見て、はたしてこれが言葉の正しい意味での「幻想絵画」と云えるのか!?という疑問を抱いたのだという。S氏は数々の映画のヒット作を出してきた才人であり、いつもその発言は私には興味深いものがある。この度のS氏の疑問は正しい。

 

真の幻想絵画とは、物象を物象として描きながらも、なおも立ち上がってくる、あやしくも捕え難い想念を見る者に抱かせる力を持った絵画でなくてはいけない。例えば靉光の「眼のある風景」の直接的なものから、春草の「落葉」、劉生の「道路と土手と塀(切通之写生)」といった暗示的なものまでも含めて、、、。しかし今日の(幻想画家と称する)作家の絵からはそのような表現に至ったものはなく、ありていに云えば、70年代に入ってきたウィーン幻想派の作品をなぞったものにすぎなく、マリセル・ブリヨンが著した幻想の定義からも程遠い。事実、S氏が今見てきたという画廊の画廊主自身が、アートフェアーで他の画商たちに云われた言葉として、「今の傾向で見ると、あなたの画廊の作家たちが、一番癒し系に見えるよ」と、私に笑いながら語った事がある。まあ、この辺りが話の落ちと云えるところであろう。

 

そういった話をS氏と電話でしていると、扉のガラス越しに沖山氏が、早く入ってくるようにと、笑顔で促している。打ち合わせは1時間あまりで主だった話は決まった。特装本には、限定一部だけの様々な写真プリントを各々に入れても良いのでは・・・と私は提案した。複数制の逆説を行くのである。写真家の川田喜久治氏に書いて頂いた実に美しいテクストを英語と仏語で翻訳した文も入れ、また掲載する写真の各々に私が短い詩を書く事になった。これは私の好きな仕事であり、ランボーではないが、一晩で一気に書こうと思う。バタバタと慌ただしいが、そういう中で今日はめずらしくアトリエの庭の芝生に寝そべり、ぶどうを食べながら、空行く秋の雲をぼんやりと眺めた。気象のリズムは完全に狂ってしまっている。しかし、その中でも季節は確実に晩秋へと移ろっている。

 

 

追記:

現代美術を牽引した画商である佐谷和彦氏と、シュルレアリスム研究家の鶴岡善久氏が編集した『身振りの相貌(現代美術におけるヒューマンイメージ)』という美術書が1990年に沖積舎より刊行されたが若干の在庫があり、興味のある方にはお薦めしたい本である。本の帯に記された『39人の日本を代表する詩人・評論家・画家などの論客が迫った、クレーピカソデュシャンたち38人の画家の作品への言葉による活写』という文にある通り、スリリングな試みの本である。ちなみに私はコーネルについて書いている。書き手は他に、岡井隆寺田透大岡信吉岡実、、、など多彩である。

本のお問い合わせは、沖積舎(TEL:03-3291-5891)まで。

 

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