谷川渥

『一から三へと拡がっていく話』

…まずは近況から。…先だって、法政大学出版局から『記憶と芸術』(共著)と題する本が出版され、その中の執筆者の一人として『記憶と芸術/二重螺旋の詩学』と題した文章(原稿用紙約30枚)を寄せている。

 

執筆者は13名。敬称を略して掲載順に書くと、私・小針由紀隆・谷川渥・水沢勉・宮下規久朗・海野弘・秋丸知貴・進藤幸代・萩原朔美・高遠弘美・虎岩直子・中村高朗・丸川哲史の諸氏。…執筆依頼が来た時は個展の作品制作で一番忙しい時であり、お断りしようと思ったが、送られて来た執筆者の名前を見て、美術作品の実作者は私と萩原朔美さんだけで、皆さんほとんどが美術評論家ばかりだったので、(これは読者の人に比較してもらうのに絶好の機会‼)と思って引き受けた。

 

…執筆者で私が面識があるのは、谷川さん中村さん萩原さんだけで他の方は全く存じあげない人ばかりで勿論その著書も知らない。しかし出来上がるであろう本の大体の予想はつく。ただ、海野弘さんだけは別格で、私はその著書を読んでおりひそかに尊敬もしている人。海野さんが参加されるならば…というのも引き受けたもう1つの理由。先月、駿河台の明治大学で出版記念会が開かれ、盛況であった。ただ、お会いしたかった海野さんはその途中で急逝され、掲載予定であった「プル-ストに関する未発表の文章」ではなく、『生の織物』という文章がご遺族の方からの意向で掲載されている。…実作者と評論家との視点や文章の違いにもしご興味がある方は、ぜひのご購読をお勧めする次第である。

 

 

…さて、では本題に入ろう。……昨年の末くらい頃であったか、私は友人の人たちと会って話をしている度に、決まってこの話を話題にしたものであった。すなわち「この世には決まって何らかの二元論的な摂理のようなものがあって、例えば善があれば悪がある。光があればその傍には決まってそれに相当するだけの闇が在り、そのバランスの絶妙な調和によって世界(特に人間関係)は成り立っていると思うわけですよ。しかし、あの二人にはそれが見えない。一見したところ明る過ぎるし破調が無い。その事がどうも不自然でならない。…その裏にもう一つの何かがある筈、きっと何かが動いているに違いない!」と。………途中でピンときた方もおありかと思うが、そうあの二人とは、大谷選手と通訳の水原一平の事である。…私がそう話すと決まって、皆さんお笑いになる。そして考え過ぎと言わんばかりに次の話題へと移ってしまわれるのであった。…しかし、見えない先に不穏を感受してしまう私のセンサ-は、話題が変わっても尚もピコピコと揺れるのであった。…ちょうど、雲一つ無い晴天の空の彼方に、遠雷の不穏な音を早々と聴きとってしまうように。

 

…はたして、年が明け、3ヶ月が過ぎた頃にその事件が明るみになった事は周知の通り。…私はやはりこの世には二元論的な摂理がある事を確認して得心のいくものがあった。…水原一平。…大谷選手の光の余波を受けて世間は、この人までも、実はよく知らないながらも自然と善いイメ-ジを抱いてしまっていたように思われる。…古い例で恐縮であるが、「何処の誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている」という『月光仮面』のあの歌詞のように。

 

…想えば、水原一平という軽みある名前がそもそも、善い人と思ってしまう響きがありはしないだろうか。…(一平~ちょいと一平やぁ、何処にいるんだぁい)と、おかみさんが呼ぶと舞台の袖で(へぇ~い)とかん高い少年の声が返ってでも来るような。…これが水原一平でなく、例えば速水龍蔵、古鬼塚昌也、パンチ吉村…といった名前なら少しは警戒をしようものを。………桁外れの札束が動くギャンブル賭博、その重度の依存症であると本人は事件が発覚時に動機の理由に自ら挙げて来た。…そう話せば、多くの人間に有りがちな脳の病という普遍性に視点が転嫁して、賭博以前の犯行へと至る個的な闇が薄らいでいく事を、追い詰められた中で考えたのでもあろうか。

 

……信頼していた相手から裏切られる事を「飼い犬に手を咬まれる」というが、この事件にピッタリとすることわざは「吉凶禍福は糾える縄の如し」よりも、単純に「好事魔多し」の方が近いかもしれない。…江利チエミ島倉千代子の場合は信じていた身内に金銭を根こそぎ取られたが、要は、このような事件の犯人は自分の実力を勘違いし、自分が尽くした事は大きい筈、故にその見返りがあって然るべきという、見当違いの歪みを抱いてしまうのであろうか。…「七年目の浮気」というタイトルがあったが、その逆で「信じたい相手(雇い始めた人間)が七年間、何も事件を起こさなければ、漸くその相手を信用して大事を任せる事が出来る」という、商人の道の知恵があるという事を聞いた事があるが、ちなみに水原一平は、大谷選手とこのサポ-ト関係を築くにあたり、何年前にそれが成立したのか、ふと知りたいと思った。

 

 

…一平の事を話したのなら、三平についても何か話さないと片手落ちだよ、という読者の方からの声がいま一瞬聴こえたので、では三平についても少し書こう。先日の夜半にテレビで六代目桂文枝(昔の桂三枝)が大学で学生を相手に講義をしている姿が出たので、その話芸を観たくなり、話に聞き入っていた。…その講義の最後に林家三平の臨終時の話になった。

 

…三平がまさに今、逝くというその時に、主治医が三平の耳元で大声で叫んだ。(しっかりして下さい!…ご自分の名前が言えますか!!)と。…すると三平は切れ切れのかすれた声で、自分の名前をこう言ったという。…(……カヤ マ…ユウゾウ)と。…学生達は爆笑したが、私は三平という芸人の性(さが)を垣間見た思いがしてゾッとした。…人は亡くなる時はさすがに自分というものを留めおく事に固執するものだと思うが、この恐るべき自己放棄を知ってその笑いの底に暗澹たる不気味ささえも思ったのであった。

 

 

……この三平のように、最期の瞬間まで、虚構という芸の凄みに徹した俳優の例として、…正に死ぬ直前に、自分がデビューした時に演じた弁慶が、死んでもなお目を見開いたまま死んでいたという伝説を自らが演じて目を見開いたまま死んでいった名優の緒形拳がおり、また森繁久彌のライバルだった俳優の山茶花究が、末期の時に枕元に森繁久彌を手招きして呼び、森繁の肩に最期の力をかけて逃げられないようにして、掠れる声で森繁の耳元でこう言ったという(……なぁ繁ちゃん、……一緒に逝こう‼)と。瞬間、森繁は恐怖におの退いて真顔で腰を抜かすと、それを見届けた山茶花究は、してやったりとばかりに、にゃっと笑って息絶えたという。

 

…昔、学生の頃にベルクソンの名著『笑い』を読んだ事がある。笑いの底にある複雑な底無しの闇を知って驚いた事があるが、ブログを今書いていて、久しぶりにこの名著を再読したくなって来た。……今回のブログのタイトル『一から三へと拡がっていく話』は、そのまま拡がって、いつしかバラバラになってしまったようである。……次回のブログはゴジラや勝新太郎、丹波哲郎といった濃いキャラクターが続々と登場する予定。…乞うご期待である。

 

 

 

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『近況―春から続く展覧会の中で……』

4月24日にアップしたブログで、詩人の高柳誠氏からは新刊の詩集が、そして同じく詩人の野村喜和夫氏からは対談集(私との対談も所収)が送られて来た事はご紹介したが、先日は、いまパリに滞在中の歌人の水原紫苑さんが1月の2冊同時刊行に続いて歌集『快楽』を、そして美学の谷川渥氏が『三島由紀夫/薔薇のバロキスム』を、ちくま学芸文庫から刊行し、先日、西麻布でその刊行記念講演が開催され、私も出席した。

 

……ことほどさように、我が文芸の友人諸氏は健筆を振るってますます盛んに表現領域の開拓に意欲的であるが、……ふとその眼差しを美術の分野に転じれば、私と同じ頃に登場した版画家や画家はことごとく、その存在が薄墨のように目立たなくなってしまって既に久しい。全く発表しなくなったか、発表しても、小林旭のヒット曲「昔の名前で出ています」ではないが、同じパタ―ンの繰返し、或いは旧作を弄くっているだけで、その作家における「現在」が無い。特に版画の分野はそのほとんどが死に体のごとく、沈んだ沼の底のごとくである。しかし、その理由は判然としている。未開の版画にしか出来ない表現というのが実は多々ある筈なのに、既存の版画概念の範疇内で作り、複眼性、客観性を欠いた、つまりは批評眼が全く欠けている事に気づいていないのである。

 

「私は版画家だけにはなりたくない」と日記に記したパウル・クレ―の、その文章の強い意思の箇所に、銅版画を作り始めたその初期に鉛筆で線を強く引いた事を私は今、思い出している。…………私は、美術の分野では15年前に、自分が銅版画でやるべき事は全て作り終えたという発展的な決断の元、次はオブジェ制作に専念すべく意識を切り替え、既に1000点以上のオブジェを作り、文芸の分野では、詩作や美術論考の執筆をやら、そして写真も……と、分野を越境して制作しているので、その比較が俯瞰的にありありと見えてしまうのである。

 

私個人の展覧会に話を移せば、4月は1ヶ月間にわたって個展を福井で開催し、5月24日から6月12日迄は西千葉の山口画廊で個展『Genovaに直線が引かれる前に』を開催。……そして今月の10日から24日迄、日本橋の不忍画廊が企画した『SECRET』と題したグル―プ展で、池田満寿夫さん他6名の作家の作品と共に、私のオブジェや版画が多数出品されている。本展では、私のオブジェの中では大作と云える、イギリス・ビクトリア期の大きな古い時計を真っ二つに切断したオブジェ(画像掲載)や、銅版画『回廊にて―Boy with a goose』(画像掲載)も出品しているので、是非ご覧頂きたい。また詩も作品に併せて各々に書いているので、こちらもお読み頂ければ有り難い。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、10月11日から10月30日迄の3週間にわたって、日本橋高島屋の美術画廊Xで個展を開催する予定で、現在アトリエにこもって制作が続いている日々である。その間にも充電と称して、ブログに度々登場する、不穏な怪しい場所、ミステリアスな場所へと探訪する日々が続いている。……こちらもまた追ってブログで書いて登場する予定であるので、乞うご期待である。

 

 

……さしあたっては湿気の多い病める梅雨なので、いっそそれに相応しい阿部定事件のあった荒川区尾久の現場跡にでも行ってみようかと思っている、最近の私なのである。

 

 

 

 

 

 

 

不忍画廊『SECRET』展

会期: 6月10日~24日 (休廊日:月曜・火曜)

時間:12時~18時

東京都中央区日本橋3丁目8―6 第二中央ビル4F

TEL03―3271―3810

東京メトロ銀座線・東西線・都営浅草線「日本橋駅」B1出口より徒歩1分

東京メトロ半蔵門線「三越前駅」B6出口より徒歩6分

http: //www.shinobazu.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『謹賀新年―1月の佐伯祐三』

昨年は、近年あまりない多忙な一年であった。制作の間は当然無言であるが、昨年はその時間が特に長かったせいか、反動で全ての個展が終わった年末の日々はよく喋った。私のオブジェや版画について鋭い論考のテクストを書かれている四方田犬彦氏(比較文化・映像の論者・著書は160冊以上に及ぶ)や、谷川渥氏(美学の第一人者)とも久しぶりにお会いして喋りあい、宇都宮の市民大学講座では、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』の中からゴヤとヴァルディについて熱心な聴衆を前にして語り、暮れの28日には、ダンスの勅使川原三郎氏と荻窪の公演会場『アパラタス』で、たくさんの観客を前にして対談をおこなった。23時頃には終わる予定であったが、終電時間がとうに過ぎ、観客が帰ってからも話題が尽きず、場所を移して話が続き、結局、東の空が明るくなるまで喋って帰途についたのであった。……そして年が明け、一転して静かな正月が訪れた。

 

新年の1日、2日はアトリエの中で静かな時間が過ぎていった。……窓外の景色を眺めながら、来し方の日々をぼんやりと思い出していた。……そしてふと、若年時より私の最も好きな画家で影響を強く受けた―佐伯祐三の事を思い、彼がいた当時のパリ(95年前)に、自分が過ごした、今から29年前のパリの冬の光景を重ねてみた。……1991年1月6日、私は前年の秋に1ヶ月ばかりバルセロナに住み、年末にパリの郊外トルシ―へと移り、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレにあるギザルド通り12番地に引っ越して来たのであった。その部屋は偶然であるが、かつて写真家エルスケンが棲み、写真集の名作『サンジェルマン・デ・プレの恋人たち』を現像した部屋であり、天窓から差し込む強烈な光の体験を通して、私が写真を撮影し始めるきっかけとなった部屋でもあった。……石畳のしんしんと冷えた1月のパリは寒い。その厳寒のパリに在って、私は、この街を駆け抜けて30歳の若さで、精神の病と結核のために亡くなった天才画家―佐伯祐三の事を考えていた。

 

……「私は巴里へ行って街の美しさにあまり驚かなかった。その一つはたしかに佐伯祐三氏の絵を沢山見ていたからだと思ふ。祐三氏の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違うことの事実は、分かりきったことである。誰もそれには気附かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気附いた画家の一人である。(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」(横光利一・佐伯祐三遺作展覧会目録より)

…………14歳の頃に私は佐伯祐三の作品を知り、取り憑かれたように佐伯の作品の模写をし、線路の鉄路や駅舎、古い教会など、佐伯の絵のモチ―フに似た、パリのそれと重なりそうな場所を求めて描きまくり、時には吹雪の中で三脚にキャンバスを固定して絵を描いた事もあった。硬質な対象、鋭い1本の線への拘り、正面性……今思えば、自分の資質の映しを佐伯祐三の作品に見て感受していたのであるが、とまれ、私が最も影響を受けた画家の一人が佐伯祐三である事は間違いない。……そんなわけであるから、初めてのパリを見て、横光利一の文章にあるように、佐伯祐三の作品の事が浮かんで来るのは自然な事なのであった。……そしてパリの部屋にいて、持参して来た荷物から佐伯祐三の画集を取り出して読んでいた時、ふと面白い事に想いが至ったのであった。それは佐伯祐三がパリに在って描いた作品数に対して現存する作品数があまりに少ないという事である。……例えば、〈CORDONNERIE(靴修理屋〉という作品は、パリ滞在時にドイツの絵具会社に買われ、現在は行方不明であるが、それにしても……と、私は電卓を打ちながら考えた。多くの作品が美術館などに収蔵され確認され、現存する数は360点あまり。しかし、1日に二点以上描く事もあり、かつて佐伯がパリに滞在した月日を考えると450点近くは描いた事になる。気に入らず焼却した作品もあるというが、単純な推定にしても、計算に差がありすぎる。ひょっとすると、このパリの何処かに、まだ佐伯の作品が人知れず眠っているのではないだろうか……私は1991年の1月に、パリの部屋の中で、ふと、そんな事を考えていたのであった。

 

……それから月日が経った今年の正月、私はアトリエで、昨年末の古書市でたまたま見つけて買った新潮社刊の『佐伯祐三のパリ』という、小さな画集を開いていた。……その中に、佐伯祐三研究の第一人者として知られる朝日晃さんの文章が載っていた。「……私は1991年の1月、パリ環状線の北東、モントルイユの引っ越し荷物倉庫で、薄っぺらいひん曲がった木の額に入った佐伯祐三氏の作品を見付けた。既に死去した船乗りの荷物の中にあったものを、日本人の作品……と、うろ覚えのままの姪が家具などと一緒に持ち続けていた。発見した絵は、はみ出しそうな視角で、街角の二階建てレストランや周辺の古い壁を抱き抱え、ピラミッド形構図は石畳の街の空間を緊張させている。……倉庫の中で私は背筋が寒くなった。きっとアトリエ探しで歩きまわっている間に見つけたモチ―フ、と見当をつけた。」……そして朝日晃さんは翌日から、発見されたその絵の現場風景探しを始め、遂に1月の寒いパリの中、歩き始めて5日後に、その絵の現場を突き止めたのであった。……1991年の1月、私がパリの部屋で、佐伯の作品はまだこの街に人知れず眠っている筈に違いないと、何故か閃いて結論づけた、正に同じ頃に、そのパリで、思った通り、佐伯祐三の作品が発見されたのである。……私はその文章を読んで、偶然の一致に驚くよりも〈あぁ、またしても〉という想いであった。……昨年の2月に、このメッセ―ジ欄でも書いたが、大正12年の関東大震災で崩れ去った、あの江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階(通称―凌雲閣)の高塔。明治から大正にかけて建っており、震災で崩れ去って今は無い筈の、その高塔をせめて幻視しようと、私は隅田川河畔に建っているアサヒビ―ル本社隣の高層の最上階にあるレストランから浅草寺の方角にかつて在った浅草十二階の姿を、幻視への想いの内に透かし見ていた。……すると、(後日に詳しく知ったのであったが)正にその同じ日、ほぼ同じ時刻に、浅草花屋敷裏を作業員が工事していた地中から、その浅草十二階の1階部分の赤煉瓦の遺構が現れ出たのであった。そして、後日に行ったその工事現場で、長年想い続けていた完全な姿の浅草十二階の赤煉瓦までも、何故か現場に人の姿の絶えた淡雪の降る中で入手して、今、それはアトリエに大事に仕舞われているのであるが、同じ時刻、あるいは予知的な後日に、私の脳裡に閃いた事が、点と点を結ぶように現実化するという事は、このメッセ―ジでも度々書いて来たので、今回の佐伯祐三の遺作発見の符合も、静かな感慨で受け取ったのであった。……佐伯祐三、浅草十二階……と強い想いを抱いていると、奇妙な、不可解な時間隨道(トンネル)を通って、現実の前に現れる。……この、いつからか私に入り込んだ直感力はインスピレ―ションとなって、イメ―ジの交感を生み出し、オブジェやコラ―ジュ、或いはタイトルや執筆の際の、自分でも異常と思う事がある閃きの速度や集中力となって現れ、私をして作品化へと向かわせるのである。………………思うのだが、私達表現者が「芸術」や「美」と正面から立ち会い、この危うい魔物と絡み合うには、この交感力こそ最も必要な能力なのではないだろうか。私は、インスピレ―ションの鋭さを孕んでいない作品には全く反応しない。……例えば佐伯祐三の作品から伝わってくる最大の物は、巴里の硬い壁のマチエ―ルを通して、〈絶対〉という言葉でしか表わせられない、何物かを捕らえんとする激しくも崇高な、衝動なのではないだろうか。放射された衝動の〈気〉が転じて〈強い引力〉と化す!!……そうとしか言えないものが、そこには宿っているのである。

 

 

〈佐伯祐三〉

 

 

〈1991年1月に発見された作品と現場写真〉

 

 

 

 

 

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『市ヶ谷は、意外にも華やかだった』

……先日の10日の6時から、市ヶ谷アルカディア(私学会館)で、第五十六回歴程賞の受賞式があり出席した。……2011年に宇宙飛行士の毛利衛さん・山中勉さんが宇宙ステ―ションから『宇宙連詩』を発信したのが評価されて歴程特別賞を受賞して以来、私は七年目・2回目の受賞となる由。受賞した理由は、私の全業績に対してとの事で、作品が持っているポエジ―の具現化がその理由であるらしい。「自作を、人々の想像力を煽り、ポエジ―を立ち上げる為の詩的な装置」と昨今、特に強く意識しはじめているだけに、確かな後押しとなるタイムリ―な時期での受賞だったかと思われる。……歴程同人が内輪で集まった渋くて地味な式かと思って会場に入ると、意外にも実に華やかな雰囲気の中、100名以上が入る大きな室内のメインテ―ブルに、私や他の受賞者の名前が大きく記されていて、大切な友人・知人の方々が次々にたくさん来られたので、私は嬉しさと驚きでテンションが上がってしまった。予想よりも遥かに大きな、まるで結婚式か出所祝いのような賑やかな式だったのである。……私を含む三人の受賞者各々に、その人物について語るスピ―チの人が付き、私の場合は、美学の第一人者である谷川渥氏が、表現者としての私の像について実に雄弁に語られて、会場にピンと張り詰めた心地好い緊張感が漂った。谷川渥氏、さすがの役者であり、これ以上の人物は他にいない。氏の明晰な分析によって語られていく私の像について聴きながら、まるで名医の執刀によってさばかれる病める患者のような気持ちで、実に興味深く拝聴した。なるほどという部分と、そうか、そういうふうに映っているのか……という箇所が交錯して実に面白かった。……谷川氏に続いて、私は自作とポエジ―について語り、ランボ―にのめり込んだ20才の頃の話、駒井哲郎さんとの出会い、瀧口修造・西脇順三郎・吉岡実……といった今では伝説の中に入りつつある人との幸運な出会い、……また天才詩人アルチュ―ル・ランボ―の肖像をモチ―フとした拙作が、ジャコメッティ、ピカソ、ミロ、クレ―、エルンスト、ジム・ダイン……といった20世紀を代表する美術家達と共に選ばれて、ランボ―の生地のフランス・シャルルヴィルのランボ―ミュ―ジアムで展示された事や、その2年後にもパリ市立歴史図書館で展示された時の手応えある展示の事などを話した。そして、私は既に美術という狭い分野を越境して、今は独自なところから制作をしているという、自負にも似た認識を語って、スピ―チを終えた。……私は賞というものに、権威や名誉や、また徒な意味を抱いてしまうような凡夫ではないが、ポエジ―の可能性を、言葉による詩表現だけにとどまらず、各分野にもその対象者を探して顕彰するという高い理念を持っているのは、この国に於いては歴程賞だけであるので、私はその純度の高さに於て、快く今回の受賞を快諾した次第なのである。……さぁ、明日からはその事も忘れて、新たな表現の場へと進んで行こう。……次回は、再び観た『デュシャン展』について、新たに気付いた事などを書く予定。……乞うご期待!!

 

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『作品集刊行の反響』

求龍堂の企画出版で私の作品集『危うさの角度』が刊行されて半月が過ぎた。本を入手された方々からメールやお手紙、また直接の感想なりを頂き、出版したことの手応えを覚えている。……感想の主たるものは先ず、印刷の仕上がりの強度にして、作品各々のイメ―ジが印刷を通して直に伝わってくる事への驚きの賛である。……私は色校正の段階で五回、ほぼ全体に渡って修正の徹底を要求し、また本番の印刷の時にも、二日間、埼玉の大日本印刷会社まで通って、担当編集者の深谷路子さんと共に立ち会って、刷りの濃度のチェックに神経を使った。私の要求は、職人が持っている経験の極を揺さぶるまでの難題なものであったが、それに響いた職人が、また見事にその難題に応えてくれた。昨今の出版本はインクが速乾性の簡易なもので刷られているが、私の作品集は、刷ってから乾燥までに最短でも三日はかかるという油性の強くて濃いインクで刷られている。私の作品(オブジェを中心とする)の持っているイメ―ジの強度が必然として、そこまでの強い刷りを要求しているのである。……しかし、当然と思われるこのこだわりであるが、驚いた事に、自分の作品集でありながら、最近の傾向なのか、色校正をする作家はほとんどおらず、また印刷所に出向いて、刷りに立ち会う作家など皆無だという。信じがたい話であるが、つまり、出版社と印刷所にお任せという作家がほとんどなのである。……、昔は、作家も徹底して校正をやり、また印刷所にも名人と呼ばれる凄腕の職人がいて、故に相乗して、強度な印刷が仕上がり、後に出版物でも、例えば、写真家の細江英公氏の土方巽を撮した『鎌鼬』や、川田喜久治氏の『地図』(我が国における写真集の最高傑作として評価が高い)のように、後に数百万で評価される本が出来上がるのであるが、今日の作家の薄い感性は、唯の作品の記録程度にしか自分の作品集を考えていないようで、私にはそのこだわりの無さが不可解でならない。だから、今回、その川田喜久治氏から感想のお手紙を頂き、「写真では写せない深奥の幾何学的リアル」という過分な感想を頂いた事は大きな喜びであった。また、美学の谷川渥氏からも賞賛のメールが入り、比較文化論や映像などの分野で優れた評論を執筆している四方田犬彦氏からは、賛の返礼を兼ねて、氏の著書『神聖なる怪物』が送られて来て、私を嬉しく刺激してくれた。また、作品集に掲載している作品を所有されているコレクタ―の方々からも、驚きと喜びを交えたメールやお手紙を頂き、私は、春の数ヵ月間、徹底してこの作品集に関わった事の労が癒されてくるのを、いま覚えている。

 

私のこの徹底した拘(こだわ)りは、しかし今回が初めてではなかった。……以前に、週刊新潮に池田満寿夫さんが連載していたカラ―グラビアの見開き二面の頁があったが、池田さんが急逝されたのを継いで、急きょ、久世光彦さんと『死のある風景』(文・久世光彦/ヴィジュアル・北川健次)という役割で連載のタッグを組んで担当する事になり、その後、二年近く続いたものが一冊の本になる際に、新潮社の当時の出版部長から、印刷の現場にぜひ立ち会ってほしいと依頼された事があった。これぞという出版本の時だけ印刷を依頼している、最も技術力の高い印刷所にその出版部長と行き、早朝から夜半まで立ち会った事の経験があり、それが今回役立ったのである。……久世光彦さんとの場合も、久世さんの耽美な文章に対峙し、食い殺すつもりで、私は自分のヴィジュアルの作品を強度に立たせるべく刷りに拘った。結果、久世さんの美文と、私の作品が共に艶と毒の香る本『死のある風景』が仕上がった。……表現の髄を熟知している名人・久世光彦の美意識は、私のその拘りの徹底を見抜いて、刊行後すぐに、手応えのある嬉しい感想を電話で頂いた。共著とは云え、コラボなどという馴れ合いではなく、殺し合いの殺気こそが伝わる「撃てば響く」の関係なのである。……今はそれも懐かしい思い出であるが、ともかく、それが今回役立ったのである。だから職人の人も、印刷の術と許容範囲の限界を私が知っている事にすぐに気づき、その限界の極とまで云っていい美麗な刷りが出来上がったのである。この本には能う限りでの、私の全てが詰まっている。…………まだご覧になっておられない方は、ぜひ実際に手に取って直にご覧頂きたい作品集である。

 

……さて、6月から3ヶ月間の長きに渡って福島の美術館―CCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催されていた個展『黒の装置―記憶のディスタンス』が今月の9日で終了し、8月末には作品集『危うさの角度』も刊行された。(『危うさの角度』の特装本100部限定版は、9月末~10月初旬に求龍堂より刊行予定)……そして今の私は、10月10日から29日まで、東京日本橋にある高島屋本店の美術画廊Xで開催される個展『吊り下げられた衣裳哲学』の作品制作に、今は没頭の日々を送っている。今回は新作80点以上を展示予定。東京で最も広く、故に新たな展開に挑むには、厳しくも最高にスリリングな空間が、私を待っているのである。今年で連続10回、毎年続いている個展であるが、年々、オブジェが深化を増し、もはや美術の域を越境して、私自身が自在で他に類の無い表現の領域に入ってきている事を、自分の内なる醒めた批評眼を持って分析している。「観者も実は創造に関わっている重要な存在であり、私の作品は、その観者の想像力を揺さぶり、未知とノスタルジアに充ちた世界へと誘う名状し難い装置である」。これは私独自の云わば創造理念であるが、私の作品は、今後ますます不思議な予測のつかない領域に入りつつあるようである。……その意味でも、10月から始まる個展には、乞うご期待という事を自信を持って、ここに記したいと思う。

 

 

 

 

 

 

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『満開の桜に寄す』

名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美学の谷川渥さん、それに東大の国文学教授のロバート・キャンベルさん等、多士済々の方々がたくさん会場に来られて、盛況のうちに新作個展が終了した。個展の手応えが大きく、企画者の森岡督行さんからは、さっそくまた来年の個展の依頼の話を頂いた。森岡書店のレトロモダンな空間は、私のオブジェが面白く映える空間である。また新しい試みをしたいと思う。

 

個展が終了した翌日、東京国際フォーラムで開催中の『アートフェア東京』に行く。今回も海外を含めて多くのギャラリーが、自分たちの推す作家の作品を出品しているが、玉石混交の観があり、そのほとんどが芸術の本質からはほど遠い(石)として映った。その石の群れの中に在って、唯一光彩を放つ〈玉〉として映ったのは、またしても「中長小西」であった。またしても・・・・と云うのは、数年前のアートフェアで中長小西が出品していた天才書家・井上有一の、それも彼におけるトップレベルの作品や瀧口修造のそれを見て以来、私がアートフェアの印象をこのメッセージに書く際に必ず登場するギャラリーが「中長小西」だからである。その中長小西の今回の出品作家の顔ぶれは、斎藤義重山口長男白髪一雄松本竣介ジャスパー・ジョーンズモランディピカソフォンタナジャコメッティデュシャン、そして今回は私の作品も出品されている。未だ存命中の私の事は差し引くとしても、それにしても堂々たる陣容であり、他の画廊を圧して揺るがない。私の作品も含め、その多くに早々と「売約済み」が貼られ、如何に眼識のあるコレクターの人達の多くがこの画廊を意識しているかが伝わってくる。かつての南画廊、佐谷画郎以来、ギャラリーの存在が文化面にも関わってくるような優れた画廊は絶えて久しいが、オーナーの小西哲哉氏は、その可能性を多分に秘めている。若干四十一歳、研ぎ澄まされた美意識を強く持った、既にして画商としての第一人者的存在である。

 

昨年の秋に「中長小西」で開催された私のオブジェを中心とした個展は大きな好評を得たが、その小西氏のプロデュースで次なる個展の企画が立ち上がっている。未だ進行中のために多くは語れないが、その主題は、今までで、ドラクロワダリラウシェンバーグの三人のみが挑んだものであり、難題にして切り込みがいのあるものである。ここまで書いてピンと来た方は相当な美術史の通であるが、ともあれ今後に御期待いただければ嬉しい。

 

その日の午後に、国立近代美術館で開催中のフランシス・ベーコン展に行く。予想以上に面白い作品が展示されていて、かつてテートギャラリーでベーコンの絵を見て、ふと「冒瀆を主題とした20世紀の聖画」という言葉を吐いたのを思い出す。教皇を描いたベラスケスやマイブリッジの連続写真などが放つアニマをオブセッショナルなまでに感受して、その振動のままに刻印していくベーコンの独自な表現世界。今回の展示で秀れていたのは、展示会場で天才舞踏家・土方巽の「四季のための二十七晩」の映像が上映されていた事であった。この演出法はまことにベーコンのそれと共振して巧みであった。ずいぶん昔であるが、私は土方巽夫人の燁子さんとアスベスト館の中で話をしていて、急に燁子さんが押し入れの中から土方の遺品として出して来て私に見せてくれた物があった。それはヴォルスやベーコンの作品の複製画を切り取ってアルバムに貼り、そこに自動記述のように書いた、彼らの作品から感受した土方巽の言葉の連なりであった。その中身の見事さ、鋭さは三島由紀夫のそれと同じく、「表現とは何か!?」という本質に迫るものであった。私はそれを夫人からお借りして持ち帰り熟読した事があったが、そこから多くの事を私は吸収したのであった。そのアルバムが、今、ガラスケースの中に展示されていて、多くの人が熱心に見入っている。このアルバムの意味は、次なる舞踏家たちへの伝授の為に書かれたものであるが、精巧な印刷物として形になり、文章も活字化されて伝われば、一冊の優れた“奇書”として意味を持つ本となっていくに充分な内容である。ともあれ、このベーコン展はぜひともお薦めしたい展覧会である。

 

個展が終わると同時に、今年の桜が急に満開となってしまって慌ただしい。桜はハラハラと散り始めの時が私は一番好きである。今回は、桜の下に仰向けに寝ころばり、頭上から降ってくる桜ふぶきを浴びるように見てみようと思っている。梶井基次郎の小説のように、春に香る死をひんやりと透かし見ながら・・・・。

 

追記:先日、慶應義塾大学出版会から坂本光氏の著書『英国ゴシック小説の系譜』という本が刊行された。表紙には私のオブジェ『Masquerade – サスキア・ファン・アイレンブルグの優雅なる肖像』が、装幀家の中島かほるさんの美麗なデザインによって妖しい光を放っている。久世光彦氏との共著『死のある風景』(新潮社刊)以来、私の作品を最も多く装幀に使われているのは中島かほるさんである。この本はなかなかに興味深い。味読して頂ければ嬉しい。

 

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『本が二冊刊行間近!!』

 

拙著『「モナ・リザ」ミステリー』が新潮社から刊行されたのは、2004年の時であった。美学の谷川渥氏や美術家の森村泰昌氏をはじめ多くの方が新聞や雑誌に書評を書かれ、“我が国におけるモナ・リザ論の至高点”という高い評価まで頂いた。しかし本を刊行してから数年して、私はとんでもない発見をしてしまったのであった。

 

今までの美術研究家たちの間では、ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」と呼ばれる、あの謎めいた作品について何も書き記していない、というのが定説であった。しかし私は、あれほどの作品である以上、作者は必ずや何か書き記しているに相違ないとふんで、徹底的にレオナルドの手記を調べたのであった。評論家とは異なる画家の現場主義的な直感というものである。そして・・・遂にそれと思われる記述を、その中に見つけ出したのであった!!これはレオナルド研究の最高峰とされるパリのフランス学士院でも、未だ気付いていない画期的な発見であると思われる内容である。そして、その内容は驚愕すべき記述なのである。しかし、私の「モナ・リザ」の本は既に出てしまっている。私は発見した喜びと共に、本が出る前に何故気がつかなかったのかを悔やんだ。又、後日にもう一つの新事実までも「モナ・リザ」に見出してしまい、ますます完全版を出す事の必要を覚えていた。・・・それから七年が経った。

 

一冊の本が世に出るには、必ずそこに意味を見出してくれる編集者との出会いがある。私にとって幸運であったのは、歴史物の刊行で知られる出版社- 新人物往来社のK氏が、その発見に意味を見出し、たちまち刊行が決まった事であった。今回は文庫本である為に発行部数も多く、若い世代にも読者の幅が広がるので、刊行の意味は大きい。福井県立美術館の個展で福井のホテルに滞在している時、また森岡書店での個展の合間を見ては執筆を加えており、先日ようやく校正が終った。そして私は文筆もやるが写真もやるので、表紙に使うための画像をアトリエの中で撮影し、全てが刊行を待つばかりとなった。本の刊行は3月2日が予定されている。又、同社からは続けて四月に私と久世光彦氏との共著『死のある風景』も新装の単行本で刊行される事になっている。新潮社から出した時は、『「モナ・リザ」ミステリー』というタイトルであったが、今回は加筆した事もあり、タイトルを『絵画の迷宮』に変えた。とまれ、刊行は間もなくである。ご期待いただければ嬉しい。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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