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『速度について今日は語ろうの巻』

菅という、うつむいて喋る人の覇気の無い顔を観ていたら、少しく想う事が湧いて来た。「先の総理に難題を丸投げされて巧みに去られ、この爺さん、さぞや大変だろうな…」「船頭多くして船山に登るか!」……「では他に、この国で差し迫ったコロナ禍の難題を迅速に乗り切れる人材は具体的に誰がいるのか?……答は…否!」「この後ろ向きで歩く亀のような、スピ―ドの無さは何なのか?」「小心とさえ映る論理性を欠いたこの喋りは何なのか?」……そして想う。歴代の総理の姿とは、つまりは私達自身の姿に他ならず、農耕民族特有の、曖昧さ、明確な主張を顕にしない喋り方、不徹底、明晰さの欠如、……それらを映したあからさまな姿なのだと。……こう書くとコロナ禍でピリピリされている何人かの読者は、或いは反発されるかもしれないが、近視眼でなく、この国の歴史を通史的、俯瞰的に視てみると、それがよくわかる筈である。猛烈な速度で従来の通念を断ち切り、革新的な事を断行出来た人材は、私の知る限り……二人しかいない。……それは中世の織田信長と、近世では江藤新平に指を折るだけである。剃刀と云われた大久保利通でさえ、江藤の頭の切れ味から見るとやや鈍い。この信長と江藤に共通するのは、珍しく、ほとんど奇跡的に西洋人に近いと言っていい合理主義的な資質であり、何より思考の在り方が論理的であった。

 

 

全てを西洋の方が良いとは言っていないが、やはり彼らはその意識の成熟度において、大人としての論理性を多くの人達が持っている。……わかりやすい例を挙げると、街頭でのインタビュ―の際、決まって彼、或いは彼女達は自分の言葉を持っており、安易に与しない独自の意見を語り、そこにエスプリさえ効かせたエレガントかつ粋な言葉を付け加えて、最後に自信に溢れた笑みを返す。そして、その返答の返しが早く、他者に通じる鍛えられた論理性を持っている。……これに比べて曖昧さを尊しとするわけでもあるまいが、日本でのインタビュ―の返しはどうか。…成人式の帰りらしい女子は語る「私的にはぁ、なんて言うか、そんなんありっかな、なんてちょっぴり思ったりしてぇ……」「あれぇ、質問何だったっけ?」……新橋の街頭で男性は語る「会社でみんな言ってるんですけど、今回の緊急事態宣言、あれちょっと遅すぎるんじゃないすかぁ、」そこへ訊いてもいないのに幾分酔った感じの別な男性が横から割って入り「テレワ―クになったら、あれよ、ずっと家にいるから、カミサンとしょっちゅう喧嘩だよ。どうしてくれるの、え?」……………………………………………………。

 

 

……しかし、信長も江藤新平もやり過ぎた。その迅速さ、その徹底ぶりが周囲から孤立化し、信長は本能寺で炎と化し、江藤は佐賀の乱で処刑、晒し首になって無惨な死を遂げた。西洋的な合理主義や、断行のやりすぎは、この国では自身の孤立化を産み、遂には馴染まず、悲惨なまでに浮いてしまうのである。……私達(いや私は別だ)が政治家に対し苛立つのは、何処かで期待しているのだと想う。歴史を通して視ると、期待が如何に虚しく、非常時に人材が出る筈もないという事を痛感し、今は確かな身の回りの防御を固める方が大事かと思う。マスク、手洗い、いろいろ皆がやっているが、そこの完全な徹底はしかし無理である。変種化したコロナウィルスは昨年の1.6倍の感染力で私達の身近に迫っているが、敵は想像を越えて、かなり強かで容赦がない。年末からの一気の感染増大は、変種化した感染力と比例しており、イギリスなどのロックダウンした国と同じ曲線を描いている点から考えると、未だ全く先が読めない。……私は先日、パルスオキシメ―ター(肺炎の早期発見と脈拍数を測定するのに有効)を購入し、加湿器も新たに備えた。しかし、心掛けても感染してしまったら、もはや運命として、かつてコロリで逝った広重や、スペイン風邪で逝ったクリムトやエゴン・シ―レに続くだけ、是非も無しである。……表現者として、自分の可能性の引き出しを全て開けてから死ぬ事、これは私が30代に自分に課した事である。……版画、オブジェ、コラ―ジュ、写真、美術評論の執筆……他いろいろとやって来たが、最後に未だ残っているのが、私の詩人としての可能性の開示である。その私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が、先日印刷が終わり、今は製本の段階にあり、今月中に完成する予定である。……今回は、コロナ禍の話から転じて、表現者の創る、或いは描く速度について書く予定であった。ちなみに佐伯祐三が、20号のキャンバスで1枚の作品を仕上げるのに要する時間は僅かの40分であり、晩年のクレ―は1日に3~5点(しかも、いずれの作品も完成度が高い!!)仕上げている。いずれも脅威的であるが、私の場合は、閃いて瞬間的にそのインスピレ―ションを組み伏す時間はだいたい4秒くらいである。……その創造の原点と、閃きの速度についての舞台裏を書くつもりであったが、もはや紙数が尽きてしまったようである。……これについては、またいつか書く事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男②』

……画廊主であり、小説家、美術エッセイストでもあった州之内徹(1913―1987)という人に強い関心を懐いたのは、私が最も霊妙な作品と高く評価している松本竣介の『ニコライ堂』を、この人も評価し、一時コレクションしていたという事を知ってからであった。だから、骨董市で州之内氏を特集している『芸術新潮』を見つけて買い求め、彼の人生とその意味深い足跡を読んだ時に、彼が最期に執念とも云える情熱を持って追っていたのが、版画家・藤牧義夫の24才での突然の失踪と、その失踪の鍵を唯一人握っている版画家・小野忠重にまつわる、いわゆる美術界最大のミステリ―と云われる事件であるのを知った時、おぉ、州之内氏も追っていたのか!!……という驚きがあった。そして、彼が或る言葉を残しているのを知った時、私はこの謎の失踪事件に対してのあらためての追求の意欲が湧いて来たのであった。

 

州之内徹氏が語るその言葉を、ミステリ―作家駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』から引用しよう。 「……なごやかに語らいながらも州之内は、かつての宣撫官の肩書を彷彿とさせる、ふてきな言葉をふともらす。〈嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ〉と。小野証言を指していた。」……これは、このノンフィクションミステリ―小説に於ける最も凄みあるドスの効いた場面で、事実、恐るべき眼識を持った州之内氏の睨んだとおりの方向へと真相は不気味なまでに傾いていく。そして州之内氏は連載『気まぐれ美術館』の、まさしく急死する直前の最後の文章を暗示的に次のように締め括っている。〈失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説 (注.小野忠重の説)もあるが、私は信じたくない〉と。

 

 

 

 

……………………版画家・藤牧義夫の名を知る人は、美術界の中でも、或いは少ないかもしれない。近代版画史の中に燦然と輝く一枚だけ存在する版画『赤陽』(東京国立近代美術館蔵)と数点の木版画、そして『隅田川両岸画巻』と題する、総延長60メ―トルの長さの全四巻から成る隅田川両岸を、墨一色、筆一本で正確無比に描き終えた後、僅か24才の若さで、昭和10年・9月2日の雨降る夜に忽然とその消息を絶ってしまったからである。遺作『赤陽』の深い抒情性、光に対しての澄明なる清んだ感性、そして版の可能性を極めん為の果敢にして実験的な精神。もし生きていれば近代版画史に新たな美の水脈を間違いなく切り開いたであろう、その優れた才能は惜しまれて余りあるものがある。

 

……9月2日の夕刻、浅草神吉町の藤牧の下宿を出て、向島にある姉の太田みさをの家に行き、今一人の姉の中村ていが住む浅草小島町に向かう途中、向島小梅にあった小野忠重の家に立ち寄ったところで、藤牧義夫は永遠にその姿を消してしまう。(……けっきょくみさをは、雨音を耳にとめながら、湿った暗がりに溶けてゆく、弟の背を見おくることになる。みさをが、弟・藤牧義夫の姿を見たのはこれが最後となった。……)『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』より。……一方の小野忠重であるが、小野は創作版画という新しい動き、運動に於ける、理想に燃えながらもいまだ作家とはいえないアマチュア集団に於けるリ―ダ―的な存在であった。隅田川の左岸、本所小梅の小野の自宅に版画を志す青年達が集まってくる。小野より2才年下の藤牧義夫もそこに時おり姿を見せていたという。その若者達は突出した才能を見せる藤牧義夫の作品に興味や羨望を示すが、藤牧はその誰とも距離を置き、独自な表現を模索する日々が続く。……そして若冠23才にして作り上げた完成度の高い名作『赤陽』の後に、長大な画巻による線描の独自な展開を見せ始めた直後の突然の謎めいた失踪となり、以後、藤牧義夫の名前は版画史の表舞台から消えていく。

 

藤牧が失踪した後、小野は版画家・近代の版画史に詳しい研究家として重宝され、俗にいうところの版画界の大御所的な存在となっていき、国から勲章ももらい、順風満帆な歩みを見せることとなる。……しかし、その順風が急に凪ぎとなり、また冷たい風となり、そこに、慧眼な複数の人物達が懐き始めた疑念、徹底的な推理分析、更には矛盾点を徹底的に突いた緻密な研究書が出るに及んで、小野が記して来た版画史の記述の、いま改めての見直しへと時代は少しずつ軌道を修正しつつある。……今、私のアトリエには、芸術新潮の記事『版画家Xの過剰なる献身』、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』、更には、日本の美術館が未だこの国に紹介する遥か前に、作品集を見て、直観でその才能を見抜き、日本での最初の個展、ドイツの現代美術家のヨ―ゼフ・ボイスの展覧会を開いた、画廊「かんらん舎」の画廊主・大谷芳久氏が記した、徹底して積み上げた小野忠重の矛盾点(その膨大な数)と、あろう事か、藤牧義夫の失踪後、少しずつ小野が藤牧義夫の作品として出して来た明かに稚拙な贋作を藤牧義夫の真作と比較分析し、(10年以上の年月を要して)書き上げた研究書『藤牧義夫 眞偽』(学藝書院刊行)、そして州之内徹氏の名著『気まぐれ美術館』の著作……他がある。合わせると膨大な量であり、そこには全て人物達の名前が実名で書かれている。このメッセ―ジの私の記述は、それらの文献の総体に導かれたものである。

 

……私はその全ての文献を読み、一つの結論へと推理が終わりつつあるのであるが、それを確かめるべく、藤牧義夫が消えた地点、すなわち小野忠重の家がかつて在ったというその場所(本所小梅1―7)へと向かったのであった。……州之内徹氏の二つの言葉、「嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ」という言葉と、「失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない」という言葉が、幻聴のように私の耳に響いてくる。……私は浅草駅から出て、先ずは言問橋を渡り、最初に目指す、すみだ郷土文化資料館へと歩を進めた。隅田川河畔の公園に「小梅」という名前は残っているが、肝心の「本所小梅」という地名は今は無い。地名番地が変わった後の今の現場を、先ずは調べるのである。……その日は快晴ながらも、隅田川河畔には時おり冷たい風がふく、不思議に生ぬるく、不思議に荒れた妙な日であった。

…………③・完結編へ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『作品の行き先』

銀座の画廊香月での個展も後半に入ると、九州、四国、北海道などの遠方から遥々来られる方が増えてくる。そして、自らの肖像を直に映す鏡を選ぶかのようにして、感性に触れてくる作品が次々と選ばれていく。かくして作者である私は、その不思議な出会いと観照の場に立ち会っている存在として、コレクションの行方を見届けるのである。

 

しかし私が、この作品だけはどうしてもその人に持ってもらいたいと強く願った作品が、かつて二点だけあった。その一点の持ち主は、画廊主であるだけでなく、クレ-展や瀧口修造へのオマ-ジュ展など、美術館レベルを超える企画展を次々と実現して、現代の美術市場を高いレベルで牽引し、今では伝説的な存在として語られている佐谷画廊主の、故・佐谷和彦さんである。そして佐谷さんにこの作品をと強く願ったのが『エルエスコリアルの黒い形象』という横幅2メートルをゆうに越す大作のオブジェであった。個展初日、画廊が開いてすぐに佐谷さんは画廊に来られ、その作品を観るや即決で購入を決められた時には、私は本当に感動した。そして…何かその先に開けるものが待っているとも直感したのであった。−予感はすぐに形となった。国際的に評価の高い美術家のクリストが来日して打ち合わせの為に佐谷さん宅を訪れた際に、私のそのオブジェに目が止まり、〈この作者は誰なのか!?〉と鋭く質問し、絶賛していったのであった。クリストが帰った後すぐに佐谷さんから、その時のクリストの言葉を伝える興奮した電話が入り、私は強烈な自信と、ぶれないスタンスをその時に我が物としたのであった。 佐谷さんの広い書斎にはデュシャン、タピエス、瀧口修造、荒川修作、エルンスト…といった名品がずらりと並んでいるが、一目でクリストは私の作品に釘付けになったという。私の作品が、美術という狭いジャンルを越えて、他に類のない独自性を帯始めていくのは、正にその頃からである。

 

…そして二点目が、今回の個展に出品している『黒のオブジェ〈エリュア-ルの詩片のある〉』という作品である。この作品には視覚を通してしか表現出来ない、秘めた詩的実験というものが試みられており、制作途中から詩人の野村喜和夫さんに持ってもらいたいという想いが密かにあった。しかし、個展に出品している以上、何方が購入するかはわからない。コレクションは、先に購入を決めた方の権利である。…とはいえ、私の想いは妙に通じる事が多く、ぎゃらり-図南(富山)、そして会期が半ばを超えた画廊香月でも、その作品は人々の視線を掻い潜るかのようにして、ひたすら野村さんの到来を待ち続けていた。そして先日、野村さんが画廊に来られて、一目でその作品の購入を即決されたのであった。…思えば、なかなかに不思議な事ではある。

 

野村喜和夫さんは、詩の分野における賞をことごとく受賞している、名実共に現代詩の第一人者であるが、私との付き合いも古く、二人での共著も刊行されている。詩人のランボ-を主題とした私の版画から始まり、個展の度に必ず野村さんの目線に触れ得た作品を購入されており、今ではコレクションの数はかなりの数に達している。その野村さんは、今秋の開設を目指して今、広いご自宅を大々的に改装して、詩とダンスのスタジオ、そして、コレクションされている私の作品を全て展示する空間を作り、完成後には誰でも見られる一般公開に踏み切るという構想を打ち明けられた。…ゆくゆくは野村さんと私が組んだ、詩とオブジェを絡めた実験的な新作での試みもリアルタイムで展示していく予定である。…ともあれ、個展は広く開かれたものであるが、例外的に、この二点のようなコレクションのケ-スも私にはある。作品の行方、… そこには様々な人々との、不思議な交感の生きたドラマが潜んでいるのである。

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『今夜はフラゴナ−ル』

部屋の改造をしていると、思わぬ物が現れる事がある。先日はパリ滞在時に書いていた日記が出てきたのでアトリエの庭に出て、久しぶりに読んでみた。すると次なる記述が目に止まった。「3月24日、米田君よりTELあり。解剖学者フラゴナ-ルの人体標本を見る許可が下りた由。極めて吉報なり」と。

 

パリ市の郊外に、18世紀に始まる獣医学校−メゾン・アルフォ-ルがある。映画『存在の耐えられない軽さ』に登場する異形な建物である。…この舘の中に解剖学者フラゴナ-ルが作った何体ものエコルシェ(人体剥皮標本)が封印されて在る事はあまり知られていない。…様々な動物の標本、人の片腕、片脚、羚羊、猿、男の頭、…三人の胎児の死体を立たせて作った『踊る胎児』や『ヘラクレス』のポ-ズを模して作った巨大な長身の男の標本、…しかし分けても注目すべき物は、ロジェ・グルニエの小説『フラゴナ-ルの婚約者』に登場する、馬に跨がった一人の女の標本である。その解剖学者の婚約者であった10代後半の女性は、結婚を両親に反対されて自殺したが、彼はその遺体を掘り出して、標本にした。「……両者とも皮膚はすっかり剥ぎとられている。鋭く切り込まれた筋肉の下から、静脈は青く、動脈は赤く浮かびあがり、色鮮やかな網の目を作りだす。馬は脚を曲げ、ギャロップのかたちを示していた。女は頭を僅かに後ろにのけぞらせ、乾いた唇から歯をのぞかせて、言い知れぬ恐怖に大きく見開いた琺瑯製の眼は極度の不安を叫んでいるようだった。…」(『フラゴナ-ルの婚約者』より)。

 

この驚くべき標本がパリに在る事を知ったのは、私宅に毎月送られてくる月刊誌『太陽』の「パリ-光の都市」の特集であった。不気味極まる写真がその中に在った。ある日、拙宅にその雑誌の編集長をしているS氏が遊びに来たので、話題はその話しになった。…しかし、その標本は非公開の為に取材許可が下りるまでにそうとうな時間と手間を労したという。…近く1年間の留学を控えていた私は、「僕も見たいなぁ、それを!」と言うと、「北川さん、個人で見れるほど甘くないですよ。…絶対に無理です!!」と言われた。「絶対に無理!!」と言われると、絶対に突破してみせるという異常なエネルギーが湧いてくるのが私の常なる癖である。…そしてバルセロナから、滞在をパリに移した私は、その突破に向けて、パリの部屋で獣医学校の校長宛てに手紙を書いた。…今までに私が書いた文章の中でも突出した内容であったと思う。学士論文的な品を保ちつつ、わかりやすく、かつ深い。…それを、知人で東北大学から派遣されていたA氏に仏語に翻訳してもらい、パリに詳しい知人の米田君に渡して、後は結果を待ったのであった。

 

私がパリの友人達に、そのフラゴナ-ルの話しをすると、誰も聞いた事がないという。完全な非公開ゆえに当然であろう。…しかし、私に取材許可が下りたと知るや、ぜひ見たいという人が続き、待ち合わせ駅改札口に集合した時には、つごう6人になっていた。しかも全員が手にカメラを持って来ている。… 折しも雨がぱらつき始め、舘に着いた時は、激しい豪雨になっていた。校長とはお会いした瞬間から波長が合い、私は持参したボルドーのワインを、A氏の手から渡させた。A氏が一番真面目な顔をしていたからであり、私があらかじめ打ち合わせておいた通りに、ワインを校長が喜んで手にした瞬間に、A氏は流暢な仏語で、写真撮影の希望を申し出た。校長は、勿論と言って快諾してくれた。(ちなみに、この半年後にロンドンで、私はエレファントマンの骨格標本…あのマイケルジャクソンが巨額の金を出してでも欲しいと、ロンドン病院に購入を申し出た、その非公開の標本を見る為に私は再び策を練るのであるが、その話しはまたいつか。)…そして私達は案内されて、舘の奥深くにある重い鉄の扉の前に着いた。校長が鍵を取り出して、ギシギシと擦った音を立てながら扉が開かれ、私達は世にも恐ろしい死体標本が夥しく林立する中を通って、目的とするフラゴナルの婚約者(別名—花嫁)の前に立ったのであった。その背景の巨大な硝子窓に激しい雨が吹き付けており、時折、不意の侵入者である私達を怒るかのように、春雷の青白い光がバリバリと、その窓を強く揺らした。私達は三脚を立て、夢中でシャッターを押した。…圧倒されたのか、誰もが無言であった。

 

…それから数年後、本郷の東大医学部の解剖学標本室の中に私はいた。ここも一般人は入れないのであるが、何故か私は自由に出入りを許されている。「…………と、いうわけで私はフラゴナ-ルのエコルシェ(剥皮標本)を見たわけですよ。」と語る私の言葉に、教授M氏の手がピタリと止まり、その目が一瞬光った。…M教授の膝には死んだオランウ-タンが在り、先ほどから教授は剥皮標本を作りながら、私の話に聞き入っていたのである。「君は本当にあのフラゴナ-ルの標本をみれたのか!?」教授の話によれば彼が留学時に見学申請をしたが、どうしても許可は下りなかったのだという。…「君、あのフラゴナ-ルという男は、…天才というようもむしろ…怪物だよ」と言葉が続く。ちなみに今、この膝の上にいるオランウ-タンの標本を、ここまで作るのに半年がかかっているという。…それを、あの男はたった3日間で仕上げてしまうのである。私はパリで、校長から見学の帰りがけに頂いたフラゴナ-ルの研究書を訳したのであるが、生涯に作った標本は2万体、しかしその多くがパリ革命の際に破壊されてしまったのである。
…それから数年後に東大のM教授が急死したという報を受け取った。私達が話しをしていた、あの研究室での急死であったという。…………パリでのこの非日常的な体験は、帰国後に「イメージを皮膚化する試み」という主題へと変容し、『DE SPECULO-或いはスピノザの皮膚の破れ』、『Study of skin—Rimbaud』などの作品の生まれる源になった。 ……… 暖かかった午後の日差しがいつしか薄れて来て、冷たい風が、このアトリエの庭に吹いてきた。…私は日記を閉じて、部屋へと入った。

 

フラゴナール

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『恐るべき探求と実験—勅使川原三郎』

昨日、荻窪にある勅使川原三郎氏のダンススタジオ「カラス・アパラタス」で、『静か』-—無音のダンスを見た。…いや、見たというよりも、その強度な引力に引き込まれて、不思議な美的体感を強烈に享受したと記した方が正しいか。…私は以前から時間の許す限り、勅使川原氏によって次々と繰り出される「身体表現を通してのポエジーの生成の現場」に立ち会って来た。しかし、今回のダンスにはまた格別な意味があり、その特異な生成の場に立ち会えた事の感動、興奮を御し難いままに、この文章を書いている。(このような事は私には珍しい事なのである。)

 

タイトルにある『静か』とは、正に1時間という絶対空間の中で、一切の音(音楽)を封印して、ひたすらに身体表現の可能性を追うという、ダンスの分野史上初めての試みなのである。私は今回の公演のお知らせを頂いた時に、すぐにその試みの意図を直感した。しかし、まさかという思いも抱いていた。何故なら、無音の中で、しかも長時間踊り続けるという事は、耳栓をして目隠しをしながら完璧に踊るにも等しい至難の試みであり、しかも立ち会っている観客を美的空間に引き込むという、難易度の高いものがあり、…… ダンス史上、この事に果敢に挑戦した者は皆無だったからである。

 

かつてはジョンケ-ジが『4分33秒』というタイトルで、ピアノの前に座ってピアノの蓋を開いたままに、一切弾く事をせずにジャスト4分33秒後に蓋を閉じて終わるという試みがあった。しかし、身体、…つまりは心臓の鼓動をも音楽であるという問いがそこにあるとしても、マルセルデュシャンが『秘められた音に』という作品で開示した「観念の中にも美はある」という思念の影響下にあった事は否めない。 しかし、あえてこの難題に挑んだケ-ジの試みは、果たして音楽の多面性を拡大し、音楽分野のそれまでの領域を突き破った功績は大きいものがある。

 

しかし、ケ-ジは無音、不動のままに試みは終わったが、ダンスは事情が大いに違ってくる。何よりも身体を止める事なく、常に動的緊張のままに集中を切らしてはならないのである。 ニジンスキ-はストラヴィンスキ-やドビュッシ-の音楽を表現の際の絶対不離のものとして公演し、以来、土方巽、大野一雄の時代まで、世界のダンス表現に音楽は欠かせない必須の、むしろ当然必要なものであった。音と絡む事によって、身体はそのリズムを刻み得るからである。「音楽には気をつけろ」と言ったのは、ジュネかコクト-であったと思うが、この勅使川原氏の試みの前には、ダンスは聴覚と視覚を併せ持つというのが既存の発想としてあったのである。

 

観客の中の一人として、私はその開演の時を待った。前日までは、佐東利穂子、勅使川原三郎両氏が各々にソロを無音で踊り、今日は対のデュエットの初の試みなのである。佐東氏は動、勅使川原氏は静の動きを見せながら、動の中には静のヴェクトルが、そして静の中には激しい動へのヴェクトルを、まるで水銀が放つ、あの彷徨引力のように透かし見せながら、眼前に奇跡のような美の結晶が鮮やかに紡ぎ出されていく。勅使川原、佐東両氏が各々に孕む幻視の時間が、そして時に二人の交点が結ばれる瞬間に立ち上がる幻視の時間が、更には私達観客が絡んでいる現実の時間という、つごう四つの時間が交響して、無音の中の豊穣へと私達を引き込んでいき、私達の内なる感性を揺さぶって、今までに体感した事のないカタルシスの感覚を覚えて、私は、このダンス史上、画期的な瞬間に立ち会っている事の興奮の中にいた。…天才ニジンスキ-はやがて狂いの静まりの中に入って伝説と化したが、勅使川原三郎氏に狂いが訪れる事は絶対に無いであろう。…彼にあっては、〈狂気〉や〈オブセッション〉もまた幼児の掌中にある親しい玩具と等しく、既にして馴染みの物だからである。そうでなければ、誰がこのような「無音」に挑むなどという、美の禁忌への侵犯を着想するであろうか。いや、美の本質は禁忌の側にこそ息づいているのである。…思うに、藤原定家の危ういまでの先鋭なる美、或いは、一秒に百年を可視化して顕在化して見せる世阿弥の美意識とその試みの近くに、勅使川原三郎氏はいるように思われる。

 

この作品『静か』は、3月に勅使川原氏がスウェーデンのイエテポリ・バレエ団へ振付・創作する「Tranquil」(トランキル=静か」に先駆けての公演である。日本と西欧では、沈黙への感覚に違いがある。故にどのような反響になるかは興味が尽きないものがあるが、いずれにしても、ダンスの概念を突き破り、更なる美とポエジーの可能性を切り開いた、この『静か』という作品が伝説の中に刻まれていく事は間違いのない事である。…この作品は、荻窪のカラス・アパラタスで、2月1日、2日、3日、4日まで公演が行われる予定である。ぜひご覧になられる事をお薦めしたい極めて優れた作品である。

 

カラス・アパラタス のお問い合わせは、http://www.st-karas.com/ TEL 03-6276-9136

 

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『その時、私は24才であった』

横浜高島屋での個展が終わった。今まで発表しなかった作品や新しい試みも展示したので、昨年秋に東京で御覧になれなかった方も興味を持たれたようである。いろいろな出会いがあったが、中でも関西からはるばる来られ、今回の個展で、版画『Bruges – グラン・プラスの停止する記憶』を購入された女性の方は、特に印象的であった。私に「以前あなたの事はTVで見ていて知っていたわよ!」と突然言われ、別に犯罪者でもないのに一瞬ドキリとしたのであった。

 

私はタレントではないので、それほどTVには出ていない。以前にフジテレビでダ・ヴィンチについて語り、日本テレビでは拙著『モナリザ・ミステリー』が刊行された際に出ている。「水と終末論」についての番組にも出た。しかし話しぶりからすると、もっと昔の私をどうやらその方は知っているらしい。

 

…… それは38年前にNHKの教育テレビで日曜日の夜8時から放送された若い世代向けの1時間番組であった。(題名は忘れてしまった。)突然NHKのプロデューサーから連絡が入り、芥川賞を受賞したばかりの池田満寿夫氏に対し、各々のジャンルでこれから飛躍しそうな若い男女二人とを、30分づつ対談させるという内容であった。そしてプロデューサーが選んだ若者二人が、私と女優の桃井かおりさんであった。共に24才である。台本も何もない、いきなりのぶっつけ本番である。その本番前に私たち三人が控室で1時間ばかり談笑していると、三人の感性が合ったのか、面白い話がどんどん飛び出した。プロデューサーがあわてながら、「あんまり面白い話はここではなく、どうか本番でお願いします」と言われたので、私たちは少し静かになった。

 

最初は池田満寿夫X桃井かおりで本番撮りが始まった。バーのカウンターを模したようなセットで酒を飲みながら話が始まる。各々1時間くらい話をして、その中から30分づつを編集する。話のテーマは私たちに自由に任されていたので、桃井さんが出したテーマは〈男と女〉というくだけた内容であった。それに比べ、私が出したテーマは硬かった。〈文学と美術の間(はざま)で 〉という愚直なまでに真面目なものだったのである。当時42才だった池田氏は24才の尖った若僧である私の話に、しかし真剣に応えてくれたものであった。それ以前に画廊や焼き鳥屋などで既に何度も話は交わしていたが、本番時に私が出す質問はかなり鋭かったらしく、私たちはいつにない深い話 ― 言葉(語り得るもの)と語り得ぬ暗示を常とする美術について語り合い、その番組はかなり反響が大きかった。

 

あれから38年の月日が経った。既に池田満寿夫氏は逝かれ、ふと振り返ると、今の私は美術と文学の間(はざま)を一人切り開きながら、北川健次という独自のジャンルを作ろうともがいている。思えばあの時、池田氏に向けた問いは、池田氏を通して、おそらくは文学にも関わっていくであろう彼方の自分に対しての問いかけであり、予感であったのかもしれない。後日にニューヨークから送られて来た池田氏の手紙の末尾にもそれは記してあった。「…… あなたの美術と文学との関わり合いに僕は大きな関心があります。」と。

 

個展で初めてお会いした女性の方から言われた突然の言葉。それは、私を38年以上前に引き戻してくれる懐かしいものであった。…… 昨年夏に刊行した『美の侵犯 ― 蕪村 X 西洋美術』に続き、次作への執筆を促してくれる、それは嬉しい言葉であった。個展にはいつも面白い出会いが待っている。今年もまたいろいろな出会いがあるに違いない。

 

 

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『絶対のメチエー名作の条件』の事が展覧会評に掲載されました。

前回このメッセージ欄にてご紹介した展覧会『絶対のメチエー名作の条件』の事が、2月26日の毎日新聞の展覧会評に掲載されましたので、ご紹介します。まだ展覧会をご覧になっておられない方は是非ご覧下さい。

 

『絶対のメチエー名作の条件』の事が展覧会評
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『絶対のメチエ ― 名作の条件』

4月20日(日)まで、東京メトロ半蔵門線「水天宮前」駅近くにある美術館「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」で『絶対のメチエ ― 名作の条件』と題する展覧会が開催中である。出品作家は、ルドンエゴン・シーレヴォルスフォートリエルオーホックニー、サルタン、メクセベルゴヤ、そして日本の作家は、加納光於駒井哲郎川田喜久治斎藤義重浜口陽三長谷川潔、そして私を含む計16名である。この展覧会の立ち上げに際し、私は美術館から顧問としてアドバイスを求められたので、展覧会名とその主題(名作とマチエールとの必須関係)、そして出品作家に写真家の川田喜久治氏を加える事によって、〈マチエールとはただ単に表象の物質感を指すという安易なものではなく、見えるものと見えざるものとの両義性を孕むミステリアスな問題である〉という、この展覧会の主旨が明瞭に立ち上がる事などを提案した。思えば、作家も評論家も気付いていない事の一つに、美術の分野から「名作」という言葉が冠せられるような作品が生まれなくなってから久しいものがある。特に版画の分野では・・・・。私はその辺りの事を、先月号の美術誌の『美術の窓』に書いているので、その文の冒頭をここに記しておこう。

 

「芸術とは、元来私たちの感覚の髄を突いてくるものであるが、その強度が薄くなったあたりから、現代の美術表現の迷走が始まったと言えるであろう。わけても今日の版画家たちの作品が見せる衰弱ぶりは、目を覆うばかりである。― 求心性を欠いた曖昧な主題、未熟なメチエ、その核であるべきマチエールの不在、そして何よりも表現者本人の批評眼の欠如。この展覧会は、そういった状況に対する懐疑から立ち上げた〈美の襲撃〉といってよい、秘めた主題をも孕んでいる。」(後略)

 

1月25日から始まっているこの展覧会はかなりの盛況で、多くの版画ファンたちが訪れて、自問するように長時間をかけて、じっくりと作品との無言の対話を交わしているという。私は初日に訪れてみて、写真家の川田喜久治氏に加わって頂いた事が正解であった事を確信した。川田氏の代表作のひとつとも言える、イタリア・ボマルツォの怪物庭園を撮った「地獄の入口」と題する写真作品は、私とルドンの作品の間に展示されているのであるが、その強度なマチエールが放つ光と闇の輪舞の凄みは、写真の意味を〈記録〉にしか見ない凡百の写真家たちや現代の版画家たちに、痛烈な美と魔の刃の切っ先を突きつけているのである。そして、ルドンの代表作、駒井・加納の秀作、ホックニーの最高傑作、またメゾチントの表現の地平を切り開いた長谷川・浜口両氏の作品が初めて並ぶ事など、本展の見所は多く、この展覧会に寄せる学芸員の方たちの情熱が伝わってきて、見応えのある内容になっている。また併せて、〈銅版画という硬質な表現における可能性とは何か!?〉を問い続けながら形にして来た、私の作品も御覧いただければ嬉しいかぎりである。

 

さて、今の私は、3月15日から銀座の画廊・中長小西で開催される二回目となる個展『反重力とバルバラの恩寵 ― ダンテ「神曲」地獄篇より』のための制作で、ほとんど毎日、アトリエの中にいる。既にコラージュ40点近くは作り上げ、今はオブジェの新作に取り組んでいる。先日降った雪がアトリエから見る庭を白く染めはじめ、それが次第に積もり、なおもしんしんと降り続く白の抒情は、私のノスタルジックな情感を呼び起こし、オブジェに注ぎ入れんとするポエジーの核とリンクして私を喜ばせた。雪は、雪国で育った私の遠い記憶を突いてきて、私を元気にしてくれる。その時、作品と向かい合っている私は今の私ではなく、幼年の時の私がそこにありありといるのである。

 

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『偽』

今年1年間の日本のありようを漢字一文字で表わすのは、京都・清水寺の大僧正の仕事であるらしいが、毎年「?」という違和感を覚えていた。今年もやはりそうだった。今年は「輪」であるという。私だったら、〈歪〉〈空(から)〉〈虚〉〈脱〉〈偽〉〈疑〉・・・・・などが浮かぶが、まぁ今年は『偽』がふさわしいだろう。そう思っていたら、何と韓国も『偽』を挙げていた。知らなかったが、中国や韓国でも一年の世相を漢字一文字で表わす習慣があるらしい。中国の今年のそれは知らないが、想うに孤立の『孤』であろうか・・・・・。

 

今年の後半は偽装問題が次々と明るみに出たが、たとえばエビ料理を例に挙げれば、普通のエビの味をブラックタイガー風にするのは、調理上の当然のテクニックとしてあるのだという。又、それを見破れない私たちの文化の底の浅さも、つまりは浮き彫りになるわけで、これは現代の日本を正に映した事象のようにも思われる。

 

偽装と直結するとは言えないが、例えば骨董市に行くと、明らかに偽物の棟方志功の版画などがあったりするが、警察が踏み込んだといった話は聞いた事がない。また逆に店主がその価値を知らず、おかげで私は月岡芳年の『英名二十八衆句』を二点、信じられない安価で入手出来た事もある。芥川龍之介・江戸川乱歩・三島由紀夫といった面々もコレクションしていた逸品である。さて、ここに掲載した書は勝海舟と山岡鉄舟の書であるが、各々に二十八万と十五万の値が付いていた。本物であればかなりする物であるが、高からず安からず、つまりは(掘り出し物感)を揺さぶる絶妙な価格である。因みに手元にある勝海舟の手紙の資料と比べてみたが、どう見ても別人といった観がある。

この話をもっと膨らますと、例えば伏見にある〈寺田屋〉はどうであろう。薩摩藩の侍同士が殺し合った寺田屋事変・龍馬の常宿・幕府の役人に囲まれた時、おりょうが全裸で階段を駆け上がって急報した際に入っていたという風呂までが今に残るという龍馬ファンならずとも必見の場所である。今日まで残っていることの不思議を、むしろ奇蹟と熱く感じながらこの地を訪れる人は今も絶えない。大の龍馬ファンで知られるタレントの武田鉄矢氏などは学生時に訪れて興奮の延長で一泊したという。私も学生時に訪れて、熱く高揚しながら階段の手摺りをさすったものである。しかし、史実に照らせば、寺田屋があった辺りは全て、鳥羽伏見の戦の時に焼けて全てが灰燼と化している。この事を知った時はさすがに〈あの時の青春を帰せ!!〉という怒りと虚しさが突き上げたが、今は、まぁ良いかという想いになっている。一種のテーマパークと見れば、それも諒とする感じであるが、そう思わせるのは、つまりは龍馬の魅力の投影のようなものかもしれない。しかし、京都の壬生にある新撰組屯所のあった八木邸の子孫は、かつて私にこう言った事がある。〈うちのは間違いなく本物で、寺田屋はんとは違いますからね!!〉と。・・・・・。しゃべり方は柔らかい分、その内に京都特有のトゲを覚えたものである。

 

赤穂事件から今年で310年以上経ったが、浪士たちの墓所である泉岳寺は今も線香の煙が絶えない。ここにある資料館には、かつては赤穂浪士たちの遺品と称する物が、ザクザクと展示されていた。吉良邸前の米屋に潜入していた浪士(確か・・・前原伊助と神崎与五郎であったか!?)の話はスリリングであるが、その米屋の看板までもが展示されているのを見た時には、私は興奮のあまり脳内出血をしたものである。しかし、さすがに各方面から疑惑を呈されるようになってからは自粛したらしく、最近訪れた時は、展示物が五十分の一くらいに激減していたのには唖然としたものである。おそらく客寄せの為に明治の頃に、浅草の道具市あたりで、夕暮れ時に住職か誰かが、それらしい物を買い集めていたのであろうが、その姿を想えば〈切なさ〉すら漂ってくるものがある。偽装に対する言葉を書けば〈いっそ知らずにいたかった〉、そして〈知らぬが仏〉という言葉になろうか。知らぬが仏、・・・・・まことに古人は含蓄のある、うまい言葉を考えたものである。

 

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『北の大地にて』

飛行機に乗るたびに思うことであるが、離陸時のあの感覚は他には変え難い、一種の性的恍惚感のようなものがある。ある程度の高度に達して向きを変える瞬間、飛行機がゆらりと揺らいで、貧血のように頼りなく思う時がある。一瞬思う、落ちるのでは?・・・・という感覚、あれがたまらないのである。その瞬間に、私は決まったように思う事がある。飛行機が飛ぶのは〈揚力〉の力だというのは実は嘘で、やっぱり、機長や乗客全員の総力による〈気力〉で飛んでいるのだと・・・・。

 

「雪原に映える、美しい白樺林」

というわけで、私は先月末から五日間の日程で北海道を訪れていた。豪雪で知られる岩見沢にある北海道教育大学で集中講義をするためである。札幌に宿をとり、毎朝、岩見沢間を特急列車で往復する日々が始まった。最初の二日間は快晴であったが、三日目は吹雪であった。車窓から見る白樺林、そして遠景の平野のすべてが白一色となり、風景の総てがかすんで何も見えなくなってしまった。私はその様を見ながら、昔日の、まだ小学生であった頃の自分を想い出していた。

 

私が生まれた北陸の福井も、その頃は未だ冬の厳しい豪雪地帯であった。映画の『八甲田山・死の行進』の何人もの兵士が寒さで死んでいく場面が実にリアルに感じられるような,一寸先が全く見えない吹雪の中を、集団登校のまとまった小さな影が学校(が在ると思われる方向)に向かって必死で進んで行く。呼吸をすれば、冷たい風と雪が口中に襲うように入ってきて息すらも危うくなる。先頭の子供は見えず、唯、自分の前を行く,2、3人の後姿の影について行くのである。灰白色の平野に道はなく、私たちは凍った田んぼの上の積雪を踏みしめながら、一歩また一歩と進んで行くのである。その途中で、突然、前にいた子供の姿がズボリと沈む。張った氷が割れて泥田の水の中に沈み始めるのである。その両脇を私たちは無言のままに抱え上げ、年下の子供を引き上げる。この土地に生まれた事の宿命を皆で受け止めるかのように誰もが無言。・・・・そして無言のままに、再び歩き出すのである。

タレントでモデルの〈みちばた三姉妹〉は、小学校の後輩になるらしいが、彼女たちの頃は気象体系が変わって、福井も豪雪地帯ではなくなってしまった為に、一転して冬の登校も気楽なものであっただろう。・・・・・・・・想えば、その冬の厳しさに鍛えられたのは、結果として良かったと思う。一度しかない人生、これ全て自己責任。だから自主的な姿勢で人生をプロデュースしていく気力が、それと知らずに自分の中に宿っていったのだと私は今にして思うのである。

講義の方は学生達の関心度がとても高く、手応えを覚えながら進める事が出来た。今回の私の講義を企画された、教育大学教授の福山博光さんは知的な考察対象の幅の広い方であり、今日の美術における問題点において共有するところが多く、私は自分からの希望で、授業のわくの中に福山さんとの対談も組み入れてもらう事にした。福山さんは既に私の作品(オブジェ・版画)も数点コレクションされており、今回、授業の参考にと持参したオブジェも即座に気に入られてコレクションに新たに加えて頂いたのは、望外の喜びであった。福山さんとは、長いおつき合いが今後も続いていくという嬉しい予感が私にはある。ともあれ、今回の北海道行は、充電となる得難い体験であったといえよう。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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