池田満寿夫

『作品集刊行の反響』

求龍堂の企画出版で私の作品集『危うさの角度』が刊行されて半月が過ぎた。本を入手された方々からメールやお手紙、また直接の感想なりを頂き、出版したことの手応えを覚えている。……感想の主たるものは先ず、印刷の仕上がりの強度にして、作品各々のイメ―ジが印刷を通して直に伝わってくる事への驚きの賛である。……私は色校正の段階で五回、ほぼ全体に渡って修正の徹底を要求し、また本番の印刷の時にも、二日間、埼玉の大日本印刷会社まで通って、担当編集者の深谷路子さんと共に立ち会って、刷りの濃度のチェックに神経を使った。私の要求は、職人が持っている経験の極を揺さぶるまでの難題なものであったが、それに響いた職人が、また見事にその難題に応えてくれた。昨今の出版本はインクが速乾性の簡易なもので刷られているが、私の作品集は、刷ってから乾燥までに最短でも三日はかかるという油性の強くて濃いインクで刷られている。私の作品(オブジェを中心とする)の持っているイメ―ジの強度が必然として、そこまでの強い刷りを要求しているのである。……しかし、当然と思われるこのこだわりであるが、驚いた事に、自分の作品集でありながら、最近の傾向なのか、色校正をする作家はほとんどおらず、また印刷所に出向いて、刷りに立ち会う作家など皆無だという。信じがたい話であるが、つまり、出版社と印刷所にお任せという作家がほとんどなのである。……、昔は、作家も徹底して校正をやり、また印刷所にも名人と呼ばれる凄腕の職人がいて、故に相乗して、強度な印刷が仕上がり、後に出版物でも、例えば、写真家の細江英公氏の土方巽を撮した『鎌鼬』や、川田喜久治氏の『地図』(我が国における写真集の最高傑作として評価が高い)のように、後に数百万で評価される本が出来上がるのであるが、今日の作家の薄い感性は、唯の作品の記録程度にしか自分の作品集を考えていないようで、私にはそのこだわりの無さが不可解でならない。だから、今回、その川田喜久治氏から感想のお手紙を頂き、「写真では写せない深奥の幾何学的リアル」という過分な感想を頂いた事は大きな喜びであった。また、美学の谷川渥氏からも賞賛のメールが入り、比較文化論や映像などの分野で優れた評論を執筆している四方田犬彦氏からは、賛の返礼を兼ねて、氏の著書『神聖なる怪物』が送られて来て、私を嬉しく刺激してくれた。また、作品集に掲載している作品を所有されているコレクタ―の方々からも、驚きと喜びを交えたメールやお手紙を頂き、私は、春の数ヵ月間、徹底してこの作品集に関わった事の労が癒されてくるのを、いま覚えている。

 

私のこの徹底した拘(こだわ)りは、しかし今回が初めてではなかった。……以前に、週刊新潮に池田満寿夫さんが連載していたカラ―グラビアの見開き二面の頁があったが、池田さんが急逝されたのを継いで、急きょ、久世光彦さんと『死のある風景』(文・久世光彦/ヴィジュアル・北川健次)という役割で連載のタッグを組んで担当する事になり、その後、二年近く続いたものが一冊の本になる際に、新潮社の当時の出版部長から、印刷の現場にぜひ立ち会ってほしいと依頼された事があった。これぞという出版本の時だけ印刷を依頼している、最も技術力の高い印刷所にその出版部長と行き、早朝から夜半まで立ち会った事の経験があり、それが今回役立ったのである。……久世光彦さんとの場合も、久世さんの耽美な文章に対峙し、食い殺すつもりで、私は自分のヴィジュアルの作品を強度に立たせるべく刷りに拘った。結果、久世さんの美文と、私の作品が共に艶と毒の香る本『死のある風景』が仕上がった。……表現の髄を熟知している名人・久世光彦の美意識は、私のその拘りの徹底を見抜いて、刊行後すぐに、手応えのある嬉しい感想を電話で頂いた。共著とは云え、コラボなどという馴れ合いではなく、殺し合いの殺気こそが伝わる「撃てば響く」の関係なのである。……今はそれも懐かしい思い出であるが、ともかく、それが今回役立ったのである。だから職人の人も、印刷の術と許容範囲の限界を私が知っている事にすぐに気づき、その限界の極とまで云っていい美麗な刷りが出来上がったのである。この本には能う限りでの、私の全てが詰まっている。…………まだご覧になっておられない方は、ぜひ実際に手に取って直にご覧頂きたい作品集である。

 

……さて、6月から3ヶ月間の長きに渡って福島の美術館―CCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催されていた個展『黒の装置―記憶のディスタンス』が今月の9日で終了し、8月末には作品集『危うさの角度』も刊行された。(『危うさの角度』の特装本100部限定版は、9月末~10月初旬に求龍堂より刊行予定)……そして今の私は、10月10日から29日まで、東京日本橋にある高島屋本店の美術画廊Xで開催される個展『吊り下げられた衣裳哲学』の作品制作に、今は没頭の日々を送っている。今回は新作80点以上を展示予定。東京で最も広く、故に新たな展開に挑むには、厳しくも最高にスリリングな空間が、私を待っているのである。今年で連続10回、毎年続いている個展であるが、年々、オブジェが深化を増し、もはや美術の域を越境して、私自身が自在で他に類の無い表現の領域に入ってきている事を、自分の内なる醒めた批評眼を持って分析している。「観者も実は創造に関わっている重要な存在であり、私の作品は、その観者の想像力を揺さぶり、未知とノスタルジアに充ちた世界へと誘う名状し難い装置である」。これは私独自の云わば創造理念であるが、私の作品は、今後ますます不思議な予測のつかない領域に入りつつあるようである。……その意味でも、10月から始まる個展には、乞うご期待という事を自信を持って、ここに記したいと思う。

 

 

 

 

 

 

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『次へ !!!』

不忍画郎での展覧会『名作のアニマー駒井哲郎・池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』が盛況の内に終了した。三人の作品が一堂に会すという話題性や、読売新聞の文化欄で紹介されたことなどもあり、来廊者は1000人を超えた。画廊の展覧会としては、異例の数字である。昨今の美術の分野の内容の薄さに対し、私は「芸術は精神を突く強度なものでなくてはならない!!!」という理念がある。その私の理念と、不忍画郎の荒井裕史氏のプロデューサーとしての版画への想いが合致した今回の企画が、多くの人々に支持されたのだと思う。会期の三週間の間に何度も足を運ばれる方も多くおられ、手応えのある展覧会であった。

 

詩画集『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』(普及版)

23日(日)の産經新聞の朝刊の文化欄に、5月に刊行したばかりの、詩人・野村喜和夫氏と私の共著による詩画集『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』の書評が大きく掲載された。書き手は、多摩美術大学の教授で美術評論家の中村隆夫氏。私と野村喜和夫氏がコラボレーションの形でこの本に何を込めようとしたか、そして、詩とヴィジュアルとの絡みと相関性について実に的確に書かれており、書評の域を超えた鋭い言及が成されている。産經新聞のインターネット版にも載っているので、ご興味のある方はぜひ読んで頂きたい内容である。先日、版元である思潮社から連絡があり、詩集としては異例の売行きで、完売も既に視野に見えてきているとの由。普及本は1000部であるが、先月、茅場町の森岡書店で開催した詩画集刊行記念展の時に、50部だけ特別に特装本を作った。私のオリジナル写真作品1点と、オフセット+シルクスクリーン刷りのコラージュ作品1点と野村喜和夫氏の詩のフランス語訳の凸版刷りに氏のサインが入り、本の内側にも、私と野村喜和夫氏の署名が銀文字で入った豪華版である。しかし、思潮社と野村氏と私とで配分した為に、私の方で販売可能な部数は今は僅かに5部しか残っていない。定価は三点のオリジナル作品が入って52,500円(税込み)。御希望の方は、この私のオフィシャル・サイトに申し込んで頂ければ購入が可能である。但し、残部が少ないために完売し、絶版になってしまった場合は御了承されたし。

 

個展を含め、昨年の秋から毎月、展覧会を続けざまに開催して来たが、ようやく充電の時期に入る事になった。しかし、今秋の高島屋の個展をはじめ、美術館での作品展示、更には異なるそれぞれのテーマでの個展が来年の春まで、早くも幾つか企画が入っている。私が次にどのような表現世界を展開するのか予測がつかないのが楽しみであると、展覧会に来られる方の多くが語っている。私自身も又、その意味ではスリリングな中にいる。多くの作家は、自分への批評眼の欠如ゆえに、作品が全く変わらないマンネリという澱みの中にいる。私は次なるイメージの狩猟場を求めて新たな場に移る事を自分に課している。私は有言実行の人間である。楽しみにして頂きたいと思っている。

凸版製法により刷られた野村喜和夫氏の詩・直筆サイン入り

野村喜和夫氏の詩のフランス語訳の凸版の金属製型版

 

オリジナル写真(ドイツ製:ハ-ネミュ-レ社バライタ紙使用)

 

詩画集の特装本

(私のオリジナル写真1点・コラージュ1点・野村喜和夫氏の詩のフランス語訳の凸版刷      り・サイン入りの計3点入り)定価52500円(残部5部のみ)

 

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『23日(日)まで開催中』

前回のメッセージで記したとおり、今月の23日(日)まで、東京の日本橋の不忍画郎で、『名作のアニマ ー 駒井哲郎池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』が開催中である。先日の10日(月)に読売新聞の文化欄で大きく紹介された事もあり、たくさんの来廊者で賑わっている。30点近い新作のコラージュ作品や版画も、縁ある方々、高い美意識を持った方々との出会いを通してコレクションされていっている。今回の展覧会で、初日の最初に私のコラージュ作品をコレクションされたのは、寺山修司と共に60年代〜70年代の、時代を過激に演出してこられた、パートナーで女優・プロデューサーの九條今日子さんである。「寺山が生きていたら、間違いなくあなたの作品を気に入るに違いない。」という九條さんの評は、私を大いに高めてくれる。何よりも天才歌人であった寺山修司。短歌もまた言葉による(磁場を帯びた)コラージュ表現である。三島由紀夫と共に、私の表現の核に棲まう本物の才能を持った人物である事に間違いはない。

 

新聞でも、「美術作品が持つ生命・魂」と題して書かれているが、〈池田の版画は国際的名声を得た60年代の「落書き」風と違い、古典的な静けさの中に詩心を宿す。〉と評され、又、駒井氏の版画も、その深い陰影をたたえていると評され、〈明るく表層的な表現があふれる今日、美術作品から見失われたアニマ(生命・魂)や詩心を問い直す展覧会〉というふうに、本展の骨子が的確に紹介されている。強度なポエジーある作品を求めておられるコレクターの方々、表現すべき方向を見出せないでいる若い美術家たち、・・・・その他、多くの美術を愛する方々にぜひ見て頂きたい、この展覧会である。

 

会場内ディスプレイ

会場の不忍画郎にいた私は、最新作の自作のコラージュを見ていて、詩を書きたい衝動に駆られてその場で数点の詩を書き上げ、それも各々の作品の横に展示されている。今回の私は、あまり画廊には行かないつもりでいたが、本展を最後にしばしの沈黙(充電)に入る事もあり、なかなか親しい方々とも御会いする機会がないので、結局、23日まで毎日、画廊にいることになった。今回も又、多くの出会いが待っている。

 

 

駒井哲郎(上:「果実の受胎」下:「鳥と果実」)

 

池田満寿夫「メラグラーナ」(西脇順三郎との詩画集)より

 

北川健次『鳩の翼 - ヴェネツィア綺譚』

 

北川健次「幾何学の夜に」(銅版画・部分)

 

北川健次「拉致される貴婦人のいる室内楽」

 

北川健次「FROLENZの赤い石榴」

 

 

北川健次・オブジェ作品(部分)

 

北川健次・オブジェ作品(部分)

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『東京日本橋・不忍画廊』

東京の日本橋にある不忍画廊で昨日から『名作のアニマ ー 駒井哲郎池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』が始まった。私は最新作のコラージュ30点近くと、代表作として考えている銅版画を13点近く出品している。銅版画のパイオニア的存在であった駒井氏の作品は名作『果実の受胎』他、そして池田氏の作品は、その存在は知られていてもなかなか見る機会の無かった西脇順三郎氏との詩画集『トラベラーズ・ジョイ』全点が展示されている。この国が生んだ最大の詩人西脇順三郎氏の詩は英語で書かれていて版画集に所収されているが、その訳も展示されており、詩画集の金字塔的存在を直接見ることが出来る、今回はその最後の機会であるだろう。今回の展覧会に際し、私は画廊のオーナーである荒井裕史氏から、駒井・池田・そして私の自作に対しての小論を書いて欲しいという依頼を受け、展覧会直前にそれを書き上げた。駒井・池田両氏とも私をプロの作家へと導いて頂いた恩人であるが、私は客観的な視点を自分に強いて、その小論を書き上げた。三つの小論の題は『駒井哲郎という現象』『トラベラーズ・ジョイ小論』そして自作への文『コラージュ〈イメージの錬金術として〉』である。ご興味のある方は不忍画廊の公式ページでも配信されているのでお読み頂ければ有り難い。

 

普通に開催されている展覧会というものは、作家が作った新作を並べる事に終始しているが、今回の展覧会にはその核に秘めた強い骨子がある。ー それは、現代の衰弱を極めた版画界への鋭い切っ先が、問題提示として在るという事である。私のアトリエには毎日展覧会の案内状が送られてくる。そのほとんどが芸術とは無縁と化したイラストレーションのごとき内容であるが、その中でも悲惨を極めているのが〈版画〉である。強いアニマ、馥郁としたポエジー、つまりは見る事の愉楽からはほど遠い、ペラペラと化した状況へと陥っているのである。原因はある程度わかっている。技術(それも既存の)しか教えられない美大の形骸化した指導のやり方。唯のマニアしか読者として意識しない版画誌の編集スタイル。デューラーからクレー、さらにはルドンといった名作から何らかのエッセンスを盗んで自らの物としようという気概ある意識の向上を欠いた作家志望(?)の個々の問題etc。しかし、それにしても表現には不可欠なアニマやポエジーはことごとく、この版画というジャンルからは消え失せて、それも久しい。その貧しき現状への、この展覧会は問題提示が骨子として在るのである。

 

以前に、やはり不忍画廊の企画で私と池田満寿夫氏の二人展が開催され、また別な企画では私と駒井氏の作品が並んだ事は度々あった。しかし、駒井・池田両氏と私が並ぶ事は今までなかっただけに、そこから立ち上がってくる三者のアニマやポエジー、そしてそもそもの各人の在りようを検証出来る事は、私にとっても大きな意味がある。昨日、私は駒井氏の作品の前に立って、学生の或る時の自分を想い出していた。・・・・それは駒沢の駒井哲郎宅を一人で訪れた時の事である。私は駒井氏に向かって「あなたの考えておられる銅版画の理念とは、せいぜいその程度でしかないのですか!?」という暴言を吐露したのである。既に『束の間の幻影』という名作をはじめ、銅版画界の最高の表現者であった氏に向かって、私はかくの如き言葉を突き刺した。長州の久坂玄瑞ではないが、ともかくその頃の私は「激」であった。・・・そして、駒井氏と私はしばらくの間ひたすら睨み合った。池田満寿夫氏はそういう私を面白がり、「君の神経は表に出過ぎている!!」と言って笑われたものである。同じ頃、美術評論家の坂崎乙郎氏もまた私の作品を見て「君の神経は鋭どすぎる。これでは君自身の身が持たない!!」と言われた。私は池田・坂崎両氏共に敬愛していたために素直にその言を聞いた。・・・坂崎氏と会って深夜の新宿の雑踏の中を帰る時、私は「長距離ランナーになろう!!」・・・そう自分を一瞬で切り換えた。しかし切り換え過ぎたのか、私は「作る人」から「しばし考える人」に変わってしまった。すると、或る夜の二時頃に電話が鳴った。作品を作る速度が遅くなった私にいらだった池田氏からの激しい叱咤であった。それはかなり激しいものであった。「・・・とにかく、頑張ります!!」私はそう答えただけで、電話を切った。坂崎氏をはじめ、その駒井、池田両氏ももはやこの世にはいない。しかし、彼らが生の証しとして作り上げた作品は、今も私たちの前に或る光輝さえも帯びて燦然と在る。私は今月は、出版社と約束してある与謝蕪村の原稿の残りを書き上げなければならず、また個展ではないので度々は画廊には行けないが、それでも会期中には何度か訪れる予定でいる。そして泉下の駒井・池田両氏の作品から、出来るだけの更なる発見をしたいと思っているのである。

 

駒井哲郎『果実の受胎』

 

池田満寿夫・西脇順三郎による詩画集『トラベラーズ・ジョイ』全点

 

 

北川健次『鳩の翼 - ヴェネツィア綺譚』


 

北川健次 『青のコラージュ「廃園の中の彫像と鳩」』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『五月の雨』

5月20日。今日は、午前の早い刻から強い雨が降っていて、アトリエの窓外に見る庭の葉群らの緑がいっそう美しい。その濡れた雨音を聞きながら、私は6月3日から東京・日本橋の不忍画廊で開催される『名作のアニマ ー 駒井哲郎池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』のためのコラージュ作品を作っている。近代からの美術史やエスプリを解さない人には理解出来ないかもしれないが、コラージュは〈速度〉である。神経をギリギリにまで絞り、多層なイメージの混沌としたアニマを沸々とたぎらせ、制作までの時間をギリギリにまで追い込んで一気に作品を〈結晶化〉へと向かわせる。それが私の流儀であるが、それは何も私だけに限らない。例えば、マックス・エルンストが、シュルレアリスムにおける一つの金字塔とも云えるコラージュ・ロマン『百頭女』を制作したのは、ローマを旅行中の時であったが、突然の啓示を受けた旅先の宿で、あの膨大なコラージュの連作を僅か数日間で仕上げたという。繰り返して言うが、コラージュは〈速度〉である。故にそれは美術の領域にありながら、むしろ寸秒夢の刻印という意味では詩法に近く、ふと、あのランボーを想わせる。そういえば、エルンストも常に〈見者的存在〉としてランボーを意識し、彼の作った『Hommage a Rimbaud』は、現代版画における頂点といっていい作品であるが、かつてシャルルヴィルを訪れた際に、ランボーミュージアムで、その作品と私の版画二点が並べて展示されているのを見た時には、さすがに私は或る感慨を覚えたものであった。・・・・・そういえば、そのシャルルヴィルを訪れた時も確か今日のような寒い日で、時折気まぐれのように小雨が降り、このランボーの生地をうっすらと濡らしていたのを覚えている。

 

一昨日に開催された、詩人・野村喜和夫氏との対談は定員を超える人が集まり盛況であった。二時間という時間は短かったが、私達は、各々にランボーについての想いや制作法について語り、この対談を聴きに来られた方々も満足されたようであった。昨今、詩と美術との交感というのは絶えて久しいが、私たちのような切り結ぶ関わり合いはもっと出てきてもいいのではないかと思う。実際には役者がいないと云えばそれまでであるが、こういう試みへの知的好奇心と気概は、表現者として大事な事であるだろう。対談の後で野村氏が自らの詩の朗読を行った。シャルルヴィルのランボーミュージアムを訪れた時を回想した詩であったが、氏がそこを訪れた時も、雨が静かにこの街を濡らしていたという。

 

5月1日に刊行された詩画集『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間」は、主としてランボーがモチーフであるが、低奏音のように、もう一人の人物がその陰に隠れている。それは、ダンテである。ダンテの『神曲 – 地獄編』とランボーの『地獄の季節』が重なって、この詩画集は成り立っている。この着想はもちろん野村氏に拠るが、同時に野村氏は次なる私の方向性もこの詩画集の中で予見するように暗示している。私が今後の大いなる主題としてダンテを考えている事は実は、誰にも語っていない事であるが、氏の直観はそこまでも見通したかのように、秘めやかにそこに言い及んでいる。まことに〈本物〉の詩人の直観は、かくも怖ろしい。

 

17歳のランボー

 

詩作を放棄した10年後・29歳のランボー

 

マックス・エルンスト『Hommage a Rimbaud』

 

ジム・ダイン『Rimbaud wounded in Brussels』


ロバート・メイプルソープ『ランボーへのオマージュ』を主題とした写真

 

 

北川健次「肖像考-Face of Rimbaud」

 

 

北川健次 「STUDY OF SKIN - RIMBAUD」

 

 

 

 

 

 

 

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『個展がまもなく終了』

画廊香月での個展も残り数日(27日まで)となった。今回の大きな成果は、今までに私の作品をコレクションされている方々に加えて、未知の方がかなりの数で、私の作品と直接出会い、コレクションされていっている事である。昨今の、存在感の薄い作品を作る作家が多い中で、「芸術は美と毒と深いポエジーを併せ持った強度なものでなくてはならない!!」という私の信条と、画廊香月のオーナーである香月人美さんの理念が一致しているせいか、この画廊を訪れた方の多くが、その事を理解しており、実に手応えのある個展になっている。今回の個展を勧めて頂いた先達の美術家の池田龍雄さんも時折、画廊に来られて成り行きを見守って頂いている。本当に有り難い事であるし、私は池田さんと御会いする度にとても良い波動を頂きプラスのエネルギーとなっている。昨年の秋から数え、七ヶ月で七回の個展を開催して来た。たいていの作家が、決められた、たった一つの画廊で二年に一回のペースで個展をやっている事を思えば、ギネス入りのようなペースで駆け抜けて来たわけであるが、この画廊香月での個展を節目として、しばらくは個展は行わない。「風林火山」ではないが、動く時は疾風のように駆け抜け、静まる時は無明に見る山影のごとく、全くの静まりの中へと私は入ってしまう。すなわち次に備えての、というよりも、次なる未知のイメージの領土に向かって行く為に、感性を研ぐのである。とは云え、個展は行わないが、五月は詩画集の刊行記念展(森岡書店)、六月は『名作のアニマ –  駒井哲郎池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴 』(不忍画廊)が続いて予定に入っている。

先日、早稲田大学の近くで、思潮社の藤井さん、装幀の伊勢さんと集い、詩画集に入れる作品の色校正の最終チェックを行った。実に美しい仕上がりで、今月末の完成が待ち遠しい。また不忍画廊では、六月の展覧会と合わせたように駒井哲郎氏の名作が集まり、池田満寿夫氏の作品は、普段はあまり見る事の出来ない、西脇順三郎氏との詩画集の名作『トラベラーズ・ジョイ』が展示される予定になっている。駒井・池田・両氏のポエジーの在りようは異なるが、各々に銅版画の権能において極を究めたものである。なかなか見応えのある、昨今に類のない展覧会になるであろう。

 

話は戻るが、画廊香月での展示は、香月人美さんのアイディアで、(壁面に、まるで映画などに登場するイギリスの館の壁面に夥しく掛けられた絵のごとく、)作品が全面に展示されている。私も以前から密かに一度はやってみたいと思っていたこの展示法を、遂に香月さんは断行し、今までになかった効果を上げてコレクターの方にも好評である。どの作家にも出来るという展示法ではないが、私の作品においては非常に画期的な良い効果を上げていることは確かである。そこから考えて、私のイメージの特質もまた見えて来ようかと思う。ともあれ、個展はしばらくは封印となる為に、まだ御覧になっておられない方には、ぜひ御覧頂きたい今回の個展である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『未知の方との出会いを求めて』

御覧になって頂いているこのオフィシャル・サイトは、個展を開催している地域以外の方から度々届く御手紙がきっかけに立ち上げられる事になった。それらの文面には、私の作品を見たいのだが地元には画廊が無い為にそれが叶わない。出来れば作品も入手したいし、折々の情報も知りたい・・・・という内容が数多くあり、その点と点が繋がっていないものを繋ぐものとして実現したのである。かつて版画集を刊行した時は、計七つの種類の版画集がいずれもだいたい三ヶ月くらいで全て完売となってしまった為に、版画集を入手出来なかった方がかなりおられる事をその後で知った。その方たちは限定版が全て絶版となった為に、15部のみのAP版の作品を個々に求められる事になるのだが、それもだいぶ残りが少なくなってきてしまった。個展以外では、このオフィシャル・サイトでの作品入手が可能であるが、このサイトを通して自由に作品をコレクションされる方が、最近増えてきているからである。

 

現在個展を開催中の画廊香月のオーナー香月人美さんは、前回のメッセージで記したとおり、美術家の池田龍雄さんからの御紹介でお知り合いになれたわけであるが、画廊で香月さんとお話をしていて、なかなかに人間として多彩であり、ギャラリストとしても逸材の人であるという事がわかってきた。人生は一度きりである。故に良き人との出会いは大事な意味があるのである。私は先達の池田龍雄さんに感謝しなければならない。画商とは企画一本で貫いている精神が骨太の画廊主のみを指すわけであるが、その本当の意味での画商が少なくなってきた。香月さんは勿論、この画商と云える数少ない人であるが、この人の強みは、その人間性の豊かさゆえに、全国からこの画廊を訪れる人が多いという事である。私が画廊にいると、そういう未知の方との出会いが多く、今回はいろいろな方を知る機会が一気に増えた。何しろ画廊を訪れる人が多く、人の絶え間がないのである。そして嬉しいのは、その方たちの求めているものと、私の作品が照応し、大作の銅版画『ドリアンの鍵』や一点物のオブジェがかつてない勢いでコレクションされていっている事である。ちなみに『ドリアンの鍵』は、〈二次元のオブジェ〉という言葉で私が表現している代表作であるが、最近この作品に対する評価が更に高まってきている事は、作者として嬉しい手応えを覚えている。

 

かつて池田満寿夫氏は「作者にとって最大の批評は、その作品がそれを賞賛する人にコレクションされる事である。」という名言を記しているが、これは至言である。それを証すように、初日の個展が始まる時間の前に地方から早くも画廊香月に来られた方があり、その場でまとめて四点の作品を購入された事は、この個展に際しての私の大いなる励みになっている。又、私が画廊に不在の時に来られた方がおられたが、後で香月さんから、その方が100点以上も私の版画やオブジェ、そしてコラージュをコレクションしている日本でも代表的なコレクターである事を知った。勿論、私にとっては未知の人である。最初に記したように、私の存じ上げない方も含めて、全国にはかなりのコレクターの方がおられるが、実際に個展が出来る機会は限られているので、このオフィシャル・サイトでの情報発信を続けながら、まだ出会ってはいない、しかし私の表現世界と感覚が直結する人たちとの出会いを求めて積極的にやっていきたいと思っている。安定を求めず、常に新しいイメージの狩猟場へと感性を動かしながら、表現者一本だけで生きているわけであるが、この崖っぷちに身を置く事でのみ、はじめて見えてくる絶景というものがある。そして、その凄まじい絶景の享受こそが、プロのみに体感出来る醍醐味であると思っている。表現者にとって〈安定〉こそは、メンタリティーの落ちる最大の敵なのである。

 

昨年の秋から八ヶ月で八回、毎月異なった個展を開催して来たが、五月には、思潮社から刊行される、詩人・野村喜和夫氏との詩画集刊行記念展があり、六月は東京の不忍画廊で『名作のアニマ ー 駒井哲郎・池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』が予定されている。画廊香月での個展は残り二週間となった。自信作を集中的に展示した密度の濃い集大成的な内容になっているので、ぜひ御覧頂きたい今回の個展である。

 

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『澁澤龍彦』

28日の夕方に北鎌倉で美術評論家の中村隆夫氏と同行の方々と待ち合わせて澁澤龍彦邸を訪うた。20数年前に初めてお伺いしてからおよそ5回目くらいの訪問になろうか。既に澁澤氏はおられぬが、奥様の龍子さんの美味しい手料理とワインを頂き、尽きない会話が続いて、けっきょく辞去したのは夜半であった。

 

かつて一度だけ澁澤氏とは銀座のバルハラデンというお店でお会いしているが、その時に見たダンディズムの極の姿は私の目に焼き付いていて離れない。二人だけの至福の時を邪魔するように入って来たのは岡本太郎であった。澁澤氏は全く岡本太郎を無視して悠然とパイプの煙をくゆらしていたが、無視された方の岡本太郎の虚ろな姿は、この男特有の自意識を根こそぎ折られたようで、彼の仮面の奥の脆い素顔を見た思いがした。内実、最も認めて欲しい人物から完全に拒否された時、人は時として、そのような表情を不覚にも露呈してしまう。

 

私が20年前に1年間ヨーロッパを廻っている時に携えていたカバンの中には、いつも澁澤氏の著書『ヨーロッパの乳房』が入っていた。そして氏が訪れたスペインのグラナダやセビリヤ・・・・、イタリアのローマや、ミラノの北にあるイゾラ・ベッラ島などに行った折りには、氏の本を開いてその描写を読み、眼前の実景と比べては、氏のエッセンスを我が物とすべく、それなりの修行のような事をした事があった。私はそれを通して眼前の奥にある「今一つの物」をつかみとる術を、それなりに掌中に収めていったように思われる。

 

夥しい数の書物に囲まれた澁澤氏の書斎は、今も研ぎ澄まされたような気韻を放って、あくまでも静かである。机上の鉛筆削り器には、削られた木屑がびっしりと詰まったままであるのを私も中村氏も共に気付いたが、そこから龍子さんの澁澤氏への想いが伝わってきて胸を打つ。この空間は今でもふらりと澁澤氏が現れて執筆をはじめても自然なくらいに、時間が永遠に止まったままなのである。かくも超然とした絶対空間。高い知性と鋭い眼識によって万象を巨視と微視との複眼で捉え得た稀人の牙城。ここにはサドの直筆の手紙や、外国で求めた硬質なオブジェ、それに危うい種々の物と共に、四谷シモン、加納光於、金子国義中西夏之池田満寿夫加山又造たちの版画がある。若輩ながら私の版画もここには在るが、それらを眺めていると、澁澤氏は版画の中でもよほど銅版画が好きであった事が見てとれる。明晰さと硬質さは氏の資質を映したものであるが、それは銅版画の本質と相通じるものがあるように私には思われる。

 

昨今の文学者や美術家はプロとして食べていくのが難しい為に、大学教授などに安定の道を求め、結局時間に追われ(たという理由で)感性の鋭さを失っている。しかし、この館の主である澁澤氏は見事に筆一本で人生を全うし、その死後には珠玉のような全集が残り、今もそしてこれからも若い世代たちにも影響を与え続けながら読み継がれている。私も何とか筆一本で今まで生きて来たが、氏の生き様は誠に範であり、力強い精神的な支柱である。かつて澁澤氏は自分の性格の最も好きな部分は何かと問われた際に、「自信」と答えている。私の答もまた同じである。「自信」ー これなくして芸術の闇に入っていく事などおよそ不可能な事であろう。夜半になり、書斎から庭を見ると、この高台からはその向こうに鵺(ぬえ)が横行しているような闇が広がり、彼方の山すそには澁澤氏が眠っている浄智寺の墓所が遠望できる。それらの全てに真っ暗な夜の帳りが下りて、いつしか鎌倉の夜は深い静まりの中にあった。

 

 

 

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『個展 – 私の現在』

三週間続いた日本橋高島屋本店の美術画廊Xでの個展がようやく終了した。世の不況にも関わらず、出品点数82点の内、50点以上の作品がコレクターの方々のコレクションとなっていった。昨今の美術表現の傾向は、薄く脆く、ぼんやりしたイメージの芯のない傾向へと向かっているが、私は芸術とは強度で美と毒とポエジーこそ必須であると考えている。そしてマチスが美の理念とした言葉「豪奢・静謐・逸楽」ー つまりは、眼の至福たる事を範とし、その実践をしているという意識は強烈にある。しかし、そうは言ってもやはり実際にコレクションを決断されるというその行為に対しては本当に感謝したいと思っている。かつて池田満寿夫氏が語ってくれたように、「コレクションされるという事が、作品に対する最高の批評」なのである。

 

さて、今回も様々な方と会場でお話する機会があった。この国の最大のコレクターといっていい東京オペラシティの寺田小太郎氏は、毎回の個展でコレクションして頂いているが、今回は三点のコラージュを求められた。その後、私と寺田氏は一時間ばかり会話を交わした。この国の現在の混迷の元凶は、明治新政府において西郷隆盛の農本主義が廃された事に拠るという自説を語ると、実は寺田氏もまた同じ考えを持っておられた事に驚いた。そして日清・日露で勝ってしまった事がこの国の軌道を狂わせたという話になり・・・・寺田氏の豊富な体験談を伺って、私はずいぶんと教わる事となった。

 

有田焼十四代の今泉今右衛門氏とは、芸術作品の表象にある肌(メチエ)が如何に決定的に重要なものであるかについて、分野の垣根を超えて共通な眼差しをみられた事は意義深いものであった。メチエが持つエロティシズム・魔性・暗示されたイメージの豊饒、・・・・そして気品。ちなみに、この当然なメチエへのこだわりに眼を注いでいる美術家は、私の知る限り皆無であるといっていい。

 

さて掲載した作品写真は今回の出品作『ベルニーニの飛翔する官能』である。この作品をコレクションしたのは、短歌の第一人者、水原紫苑さんである。水原さんは、あの白州正子さんが「稀に見る本物の歌人」と高く評価した才人。このコラージュは危うく妖しいエロティシズムに充ちた難物であるが、さすがに天才の眼は、一瞬でこの作品に意味を見た。水原さんの購入が決まった後に売約済を示す赤いシールがタイトルの横に貼られた。その後、この作品を購入したかったという人が8人続いたが、その全員が女性であった事に私は作者として驚いた。男性は作品に理論的な意味付けを試みるが、女性は直感で作品の本質を見抜く。女性の感性たるや恐るべしである。

 

今一つの画像作品は、詩人の野村喜和夫氏がコレクションを決められた。野村氏は現代詩の第一人者として、昨今最もその評価が高い。先日は歴程賞を受賞し、この春は萩原朔太郎賞を受賞するなど、刊行する詩集や評論集のことごとくが注目の的となっている。野村氏は個展の度に私の作品をコレクションされているが、その選択眼は確かであり、私の作品の中でも代表作となるような重要な作品ばかりを必ず選ばれている。来年の一月には詩人のランボーを主題に絡ませた、野村氏と私の詩画集が思潮社から刊行予定となっており、作品は既に作り上げている。さて先述した水原紫苑さんや野村氏といった表現者の人にコレクションされる事には今一つの更なる楽しみがある。それは御二人に見るように、短歌や詩の中で私の作品が変容して再び立ち現れる事である。既に野村氏は今年の「現代詩手帖」の巻頭で、それを実行し、水原さんも近々の作品の中に詠まれる由。ともあれ、今年の個展は全て終了し、私は束の間ではあるが休息となる。しかし、このメッセージはしばらく休んでいた分、書きたい事が多くある。乞うご期待である。

 

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『24歳の手紙』

中長小西での個展が盛況のうちに終了した。新しく作ったばかりの新作オブジェの多くがコレクターの方々のコレクションに入り、私は表現者としての手応えを覚えながらアトリエに戻った。

 

部屋の明かりをつけると、6枚からなるFAX文が届いていた。発信先は池田満寿夫美術館。先日、個展会場に来られた学芸員の方から、池田満寿夫氏の遺品の中から私が氏に宛てて書いた手紙が出て来たという話を聞かされており、ぜひ読んでみたいという私の希望を受けて送られて来たのである。それは、新宿の中村屋で氏と初対面を果たした直後に書いた手紙であった。以後、何通もの手紙を私と氏は交わしているが、氏から届いた何通かは今も私の手元にある。・・・・読んでいく内に今の私と24歳時の私が重なり、銅版画に自分の存在の意味を見出していた頃の自分が立ち上がってくる。手紙には、写真家アジェへの想い、美術家たちの認識の低さへの怒り、自分の文体といえるものを早く確立したい事への焦り、メチエへのこだわり、今作っている作品の事・・・・などが青年らしい気負いで綴られている。この手紙を出した直後に、池田満寿夫氏は私をプロの作家にすべく、初の個展をプロデュースし、美術評論家の中原佑介氏がコミッショナーとして、私を東京国際版画ビエンナーレ展の日本の代表作家に推薦されるなど、いきなり作家としての地歩を固められたわけであるが、手紙はそれ以前の、いわゆる夜明け前の気分に充ちていて、我が事ながらいじらしい。長い時を経て突然現れたこの手紙は、「初心忘るべからず」という意味でも、実に好機な物なのかもしれない。そう、初心忘るべからず。先人達の残したこの言葉の含む意味は大きい。

 

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