池田満寿夫

「10月21日迄、日本橋高島屋で個展開催中」

……私が24才の時に、東京国立近代美術館で開催される「東京国際版画ビエンナ-レ展」の日本の代表作家の一人として選出された時に、当時ニュ-ヨ-クに住んでおられた池田満寿夫さんから祝電のお手紙が届いた事があった。その手紙の末尾に、(私はアメリカを代表する作家の一人として出品します。共に頑張りましょう。)と書いてあり、私は燃えるような気持ちで熱くなった事がある。

 

…また、その手紙には(…あなたは、これからはコレクタ-の人達と一緒に人生を生きていく事になるでしょう)と書いてあり、当時の私はその箇所だけは、些か疑問を抱いた事を覚えている。…作品は本質的に匿名である故に、具体的な人達と接点を持つべきではないと思ったのである。…しかし、個性ある作品を遺した人達の生涯の記録を読んでいくと、その人達が具体的なコレクタ-の人達と実に深い生きた物語を交わしながら、作品の質を高めていったかを知るにつれ、私の考えは変わっていった。…コレクタ-の人達もまた作品収集をするという行為を通して、その人自身の人生を豊かに紡いでいるのであり、それもまたその人達における表現行為なのだと次第に気づいていったのである。

 

…想えば、私の版画はそのほとんどが、その人達によって評価され、収集されていき、完売による絶版という形で、私のアトリエに版画作品はほとんど残っていない。…そしてそこに、私を支え続けてくれた人達との不思議な「ご縁」としか言いようのない豊穣な物語が実にたくさん残っている事を、私は時に思い出すのである。…そして、作品を収集するという行為もまた深い創造行為なのだと、私は実感を持って想うのである。

 

版画の次に、私は精力的にオブジェを作り続けて来た。その作品数は既に1200点以上であるが、アトリエに残っているのは僅かに40点くらいである。…考えてみるとこれは驚異的な事であり、表現者としてこれほど幸せな事はないとつくづく思うのである。…その1000点以上の作品は今、各々の作品との出逢いを通じてコレクタ-の人達の身近でまた新たな尽きる事のない豊かな物語を紡いでいるのである。

 

…最近つくづく思うのであるが、人生という限りある時間の中で一番大事な事は、人と人とを結んでいる「ご縁」というものではないかと思う。…ご縁という不思議な運命の筋書き。振り返ってみると、本当にその不思議な縁によって、実にたくさんの面白い出逢いがあった事を思い出し、私は豊かな気持ちになるのである。…昨今のように相手の顔も知らずにネットで不毛な刹那的触れ合いをして、次に消去を繰り返している時代にはもはや、豊かな物語を作る土壌は無いと私は見ている。…時代は寒い方へと傾斜を墜ちていっているが、私はその「ご縁」という不思議なとしか言いようのない現象のドラマにこだわり、それを大切に考えていたいと思っている。

 

…さて、日本橋高島屋での個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」が2日から始まった。…それに関して、「月刊美術」10月号の新刊で、この個展に関する展覧会評が出たので、以下にご紹介しようと思う。…個展は21日迄、休み無しで開催されている。…そして私は毎日、画廊にいて、私の作品と、その作品と出逢った人との不思議な、しかし何かに結ばれているとしか思えない、その出逢いの瞬間に立ち会うのである。…そして、その作品の次なる作者は、私からその人へとなっていくのである。

 

 

 

 

 

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「狂った空の下で書く徒然日記-2024年・狂夏」

災害級の猛暑に、ゲリラ雷雨…。そんな中を先日、馬場駿吉さん(元・名古屋ボストン美術館館長・俳人・美術評論家)と11月29日-12月14日まで開催予定の二人展の打ち合わせの為に、名古屋画廊に行って来た。ヴェネツィアを主題に、馬場さんの俳句と私のビジュアルで切り結ぶ迷宮の幻視行の為の打ち合わせである。馬場さん、画廊の中山真一さんとの久しぶりの再会。打ち合わせは皆さんプロなので、短時間でほぼ形が見えて来た。…後は、私のヴェネツィアを主題にした作品制作が待っている。

 

その前の10月2日-21日まで、日本橋高島屋の美術画廊Xで私の個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」を開催する予定。今年の2月から新作オブジェの制作を開始して7月末でほぼ70点以上が完成した。6ケ月で70点以上という数は、1ヶ月で約12点作って来た計算になるが、その実感はまるで無い。私は作り出すと一気に集中し、没頭してしまうのである。…2.5日で1点作った計算だが、しかし上には上がいる。ゴッホは2日で1点、佐伯祐三は1日で2点から3点描いていたという証言がある。…二人とも狂死に近いが、私の場合はさて何だろう。

 

 
…そんな慌ただしい中を先日、月刊美術の編集部から電話があり、横須賀美術館で9月から開催する画家・瑛九展があるので、この機会に瑛九について書いてほしいという原稿依頼があった。…さすがに忙しくてとても無理である。…何故、瑛九論を私に依頼したのか?と訊いたら、私と同じく、画家、写真家、詩人、美術評論…と多面的に彼が先駆者として生きた事、そして瑛九と関係が深かった池田満寿夫さんと、私との関係からであるという。

 

…以前に私の写真集刊行の時に、版元の沖積舎の社主・沖山隆久さんが、印刷に入る3日前に、写真80点に各々80点の詩を入れる事を閃いたので、急きょ書いて欲しいという注文依頼があった。時間的に普通なら無理な話であるが、私は不可能といわれると燃える質である。3日で80点の詩を書き上げた。…その詩を沖山さんが気にいって私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の刊行へと続き、また詩の分野の歴程特別賞まで受賞したのだから人生は面白い。

 

………(とても無理ですね)と最初はお断りしたのだが、今回も瑛九に関して次第に興味が湧いて来て、結局原稿を引き受ける事になり、一気に書き上げた。短い枚数なので逆に難しいのだが、誰も書き得なかった瑛九小論になったという自信はある。

 

 

…しかしそう多忙、多忙と言っていても人生はつまらない。忙中閑ありを信条とする私は、先日久しぶりに骨董市に行って来た。…今回はスコ-プ少年の異名を持つ、細密な作品を作り、このブログでも時々登場する桑原弘明君の為に行って来たのである。

 

…明治23年に建てられた異形の塔・浅草十二階の内部の部屋を、彼は細密な細工で作品として作りたいらしいのだが、外観の浅草十二階の写真は余多あるのに何故か、その塔の内部を撮した写真が一枚も存在しないのである。…先日は、その幻の写真を私が彼の為に見つけんとして出掛けていったのである。(彼とは今月末に、その浅草十二階について語り合う予定)。

 

 

………昔の家族や無名の人物写真、出征前に撮した、間もなくそれが遺影となったであろう、頭が丸刈りの青年の写真などが段ボールの中に何百、何千枚と入っている。…しかし、件の浅草十二階の内部を撮した写真など、見つかりそうな気配は全くない。

 

 

 

 

…私は、次から次と現れる知らない人達の写真を見ていて(…考えてみると、これは全部死者の肖像なのだな)…という自明の事に気づくと、炎天下ながら、背中にひんやりと来るものがあった。……そしてふと想った。…もしこの中に、紛れもない私の母親の、未だ見たことのない若い頃の写真が二枚続きで突然出て来たら、どうだろう。…そしてその横に私の全く知らない男性が仲好く笑顔で、…そしてもう1枚は、二人とも生真面目な顔で写っていたとしたら、さぁどうだろう⁉…と、まるで松本清張の小説のような事を想像したのであった。

 

 

…考えてみると、両親の歩んで来た物語りなど、実は殆んど知らないままに両親は逝き、今の私が連面と続く先祖達のあまたの物語りの偶然の一滴としてたまたま存在しているにすぎないのである。

 

 

 

 

 

 

…ここまで書いて、初めてアトリエの外で油蝉がかまびすしい声で鳴いているのに気がついた。………今は外は炎天下であるが、やがて日が落ちる頃に俄に空が暗転し、また容赦の無い雨が激しく降って来るのであろう。…

 

 

 

 

 

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『人魂に魂を入れてしまった男の話』

…東京の大井町線とJR南武線が交わる所に「溝の口」という駅がある。今ではすっかり様変わりして駅前通りが綺麗になってしまったが、昔は溝(どぶ)の口とよばれた、実にロ-カルな渋い場所であった。…この駅から線路沿いにしばらく歩いた所に、多摩美術大学の男子寮があり、私は18才の一年時からそこに入っていた。(…余談だが、寮に行く途中に地味な布団屋があった。後で知ったのだが、私が来るしばらく前に一人の青年がその店でバイトをしていた。…後のタモリである。私はタモリは頭がいいと思って感心した。…布団屋は暇であり、たまに仕事が入って布団を運んでも軽い楽な仕事、しかし時給は他とあまり変わらない。バイトをするなら、忙しいスタバでなく、布団屋に限る。)ま、それはともかくとして、大学に入ってすぐに私は二つの大きな挫折をあじわった。

 

一つは、日本の美術の分野を代表する作家の斎籐義重氏が多摩美で教えていたので習おうと思って勇んで入ったものの、斎籐氏は学園紛争で外部に出てしまい、目標とする人物が大学にはいなくなってしまったのである。…二つ目は、三島由紀夫の『近代能楽集』に強く感化された私は、三島に長文の手紙を書き、その最後に「貴方の美意識を舞台美術で具現化出来るのは、間違いなく私しかいないと思っています」と熱く書いて投函した。…根拠はなくても強烈な自信だけは満々とあったのである。…出してから数日して丁度届いたと思った頃、ふとテレビをひねると、三島由紀夫が決起して市ヶ谷の自衛隊駐屯基地で演説をしている、まさかの姿が中継で入って来た。そして自決。…上京して半年で、前途の目標を失ってしまったのである。(斎籐氏には後に会う機会があり、私のオブジェを高く評価してもらったが、やはり18才の生な時に語り合いたかったと思う。)……、当面の目標が断たれはしたが、しかし私は未だ18才。生きていかなくてはならない。

 

…二年生の夏に、偶然の導きで池田満寿夫氏の版画と出会い、一気に版画表現にのめり込んで行くのであるが、私はもちろんその運命を未だ知る由もない。…文芸評論、映像作家、或いは悪の道。…しかしどの道に進むとしても先ずは充電と思って、映画はフィルムセンタ-に通い、文芸はかなり読み耽った。…金が無いのでバイトは数々したが一番日当が佳かったのは、桜田門や大手町の地下鉄の送風機を取り付ける仕事で、日当5000円(今に換算すると毎日3万円くらいか)であった。…このバイトは力仕事なのに何故か多摩美と芸大の学生だけが独占し、各々の大学から30名づつくらいが、いつも組んで場所を移動しながら稼いでいた。…昨年亡くなった坂本龍一氏の本を本屋で立読みしていたら、彼もそのバイトをしていた事を知って驚いた。…(そうか、あの学生達の中に彼もいたのか…)と思うと共に、彼もその本の中で書いていたが、どの大学も紛争直後で荒廃し、何か空無な気だるい無力感が漂っていた、そんな時代であった。

 

…多摩美の男子寮は、多摩芸術学園と洗足学園音楽大学(寮も含む)の間に在った。…寮の庭から、洗足学園の女子寮の食堂が見えた。華やかな笑い声が時折聞こえても来た。…この大学は、古くは歌手の渡辺真知子や、近くは平原綾香等が出た、いわゆるお嬢様学校。…私どもの寮の食事はほとんど茶色一色。冷えたご飯に生卵を割れば、先ずは白身が沈んで次に黄身も消えるような粗食。先方の寮の食事はカラフルの一語に尽きる、…同じ人間として生まれて来た筈なのに…いささかの理不尽がそこにあった。一言で言えば、晩飯とディナーの響きの違いか。だから寮の先輩からは、こう言われたものである。(洗足女子寮の食事は見るな!…見れば自分たちが辛くなる)と。

 

…私の部屋の隣室に中村敬造さんという2年上の先輩がいた。…デビュー当時の武田鉄矢を講釈師にしたような飄々とした、何とも味のある人であった。…私達は、そして寮の誰もが、真昼時の太陽が沈むのを忘れたかのように……暇であった。…敬造さんの部屋で、(……しかし暇ですなぁ…)と私。(…まったく、何か面白い事が無いかねぇ…)と敬造さん。……私は言った。(いっそ、人魂でも出しますか!?)と。敬造さんは(人魂かぁ、それは面白いかもなぁ。しかしどうやって作るんだ?)と訊くので、(まぁ任せて下さい!)と言って、私は寮の黴びた物置小屋から細い竿を出して来てピアノ線を結んで艶消しの黒を塗り、綿に油画に使う画材のオイルを染み込ませて、アッという間に作り上げた。

 

…(で、何処に人魂を出す?)と敬造さんが言った瞬間、私達は同じ事が閃いた。…やがて夜になった。…私達は寮の塀を乗り越え、一路、隣の女子寮へと向かった。…ある部屋の前に来たものの意外と窓が高い。敬造さんが踏み台になり、私が部屋の中を見た。…しかしそこに見たのは紫煙けむる中、あぐらにコップ酒、花札の中にいる女子達の姿であった。…(北川、何が見える?)と下にいる敬造さんが小声で訊くので、私は応えた。(見ない方がいいですよ、まるで女囚、ここでは人魂を出しても意味が無い)と話して、静かに下りた。…その時であった。ボロンボロンというピアノの音が近くの窓から流れて来たのであった。…見ると、先程とは一転して真面目風な感じの女子2名が熱心にレッスンの最中であった。…(人魂はここがいい!)…私達は綿にライターで火を入れて、ゆるやかに、かつ怨めしく人魂を闇夜にゆらゆらと浮かべ、そしてさ迷わせた。

 

敬造さんが小声で言った。(しかし北川は上手いね!…まるでプロの文楽の人形師のようにリアルだなぁ!)と。(人魂の中に魂を深々と入れるんですよ。悲しく、あくまでも悲しく!)……自分たちでも感心するような哀しい人魂の揺れ具合である。(これで食べていけるのでは)私はふとそう思った。

 

……、その瞬間であった。突然バタンという、ピアノの蓋を激しく閉じる音が響いたと同時に、部屋の中から複数の叫び声がキャ~からギャ~へとけたたましく響いた。その時であった。「こら~!!」という警備員の鋭い声が響き、私どもの方へ走って来るのが見えた。…私達は咄嗟に逃げて、先ずはバタンバタンと転がる人魂を矢投げのように塀の向こうに投げ、続いて私どもの姿も瞬時に多摩美の寮がある暗闇の中へと消えた。

 

問題が起きたのは、その翌日であった。洗足学園の寮から抗議があり、放火魔らしき二人組が出没して多摩美の寮に消えたので、調べて欲しいという内容であった。寮生全員が集められたが、結局名乗り出る者はいなかった。…洗足学園側は、美大の連中はらちが明かないと見て、浸入を防ぐ為の鋭い有刺鉄線が、まるで収容所の塀のようにして、延々100メ-トル近くも張り巡らされたのであった。…敬造さんと私は反省会議を開いた。…あのようにリアルな人魂をもっと人々にあまねく見せたいが、ではそれを何処に出すか…という会議であった。…そして寮の最屋上の給水設備の所から、第三京浜へと向かう車列に向けて、人魂を出す事になり、それはその夜に決行された。

 

…私達は黒服に身を包み、人魂を闇夜に再び揺らしたのであった。効果は予想以上であった。(北川、見ろ!…車が渋滞し、車から出てきたみんながこっちを指差しているぞ!)と。方々のクラクションが鳴り響き、…私達は想像したのであった。…人魂を見たあの人達は、後々までずっと信じるかもしれない。…人魂は本当にいる!何故なら私は、あの夜に溝の口で見たのだから……と。……しかし、その時、私はまだ知らないでいた。…僅か六年後に本当の人魂を見てしまうという事を。

 

…多摩美の大学院を修了した私は、寮を出て、2つの住所を転々と移り、横浜山手の丘の上に在った「茜荘」というアパ-トに移った。…この建物は以前は連れ込み宿であったのを作り直したのであるが、玄関に料金所の名残りがあって、それとわかるのであった。出て右に行くとすぐに真っ赤に塗られた打越橋というのがあるが、そこは飛び込み自殺の名所。…茜荘を出てすぐ左には牛坂と呼ばれる暗い坂道があるが、引っ越して来てすぐに読んだ、『昭和の猟奇事件-ノンフィクション』という中に突然、その坂の事が出てきて驚いた。…なんとその坂道の途中に在った人家で、狂った若い女が家族を皆殺しに殺すという事件が起きたのであった。その話の出だしは「…食っちゃったぁ」と、その狂女がへらへらと笑いながら、踏み込んだ二人組の刑事に話す場面から書いてあった。…救いは山手へと向かう先にあるミッション系の共立女学園の存在。…しかし、ここだってわかったものではない。

 

池田満寿夫さんのプロデュ-スで初めての個展を開催したのが、私が24才の時。…その個展が始まって、確か3日目の夜、銀座の画廊から帰途につき、石川町という駅を出て、地蔵坂という坂道を上がり、途中から石段を登って家路に着くのであるが、その夜は小雨が降っていた。石段の途中の右側がロシア正教の小さな教会、左が江戸時代からの小さな墓石がたくさん立っている、その墓石の私のすぐ近い所に、ポッと鈍く光るものが突然、出現した。「…人魂か!!?」一瞬そう思った私は、その人魂の走る先を凝視した。…人魂は燐が燃えたものと俗に言うが、燐ならば無機質な物質なので林立して立っている墓石の何れかに直ぐにぶつかって消える筈。私がぞっとしたのは、その小さな人魂が、まるで意識があるように、ランダムに立っている墓石を次々と避けるように薄く光りながら流れていき、やがて墓場の先の暗闇に消えていったのであった。

 

……私が人魂を見たのは、それ1回きりであったが、学生の時に作った人魂とは全く違う、静かな不気味さがあり、今も記憶に焼き付いて離れない。…昔作った人魂は、歌舞伎の怪談で、離れた客席まで見せる為の大きな作りであり、人々はそのイメ-ジのままに今日まで到っている。……私の残りの人生の中で、今一度、あのような薄火の、しかしそれ故に芯から恐怖が伝わって来る人魂を見る機会が果たしてあるのであろうか?…ここまで書いて来て、俳句で人魂を詠んだのがないかとふと考えた。…意外になく、只一作だけあったのを私は思い出した。…「ひと魂でゆく気散じや夏の原」である。気散じとは気晴らしの意味。…ひとだまになって、それでは夏の原っぱをぶらりとゆこうかという、風狂達観の意味がこめられた作である。…作者はいかにもの人。葛飾北斎の辞世の句である。

 

 

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「哀しくて、やがて嬉しき神保町の巻」

……JRお茶の水駅から明治大学のある坂を下って行くと、世界最大の古書の街、神保町古本屋街である。その最初に在る古書店の名を「三茶書房」という。今もこの店の前に立つと来し方を思い出す。……昔、未だ美大の学生だった20才の頃、この店の二階にあるガラスケ―スの中に、版画家の池田満寿夫さんと、わが国を代表する詩人・西脇順三郎氏による詩と銅版画のオリジナル作品14点が入った詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本)を見つけたのである。〈その頃で定価は確か40万円前後であったか。〉興奮した私は「これを見せてくれませんか?」と言うと、年老いた店主が一言「駄目です、だってあなたには買えないでしょ!」との冷たい突き放し。……悔しかった、しかし「買えなくても、見せるくらいどうなんだ、次代の若者を育むのも、本屋の勤め、それが文化じゃないのか」と言いたかったが、言えなかった。……どうみても、長髪の着たきり雀の貧乏学生、口をつぐんで、私は店を出た。震える程に悔しかった。

 

……… しかし人生はわからない。それから僅か4年後に、私は池田満寿夫さんと出逢い、大学院を出てそのままプロの版画家としてスタ―トしていた。そんなある日、池田さんに人生初めてのエスカルゴを食べる体験とワインのご馳走をしてもらっていた時に、学生時代の三茶書房での悔しかった話をした。池田さんは笑って聞いていたが、数日後にニュ―ヨ―クへと戻って行った。……その数日後に私の当時の契約画廊であった番町画廊の青木宏さんから「画廊に来るように」との連絡が入り、私は銀座の画廊に行った。……そこで私が青木さんから渡されたのは、池田満寿夫さんから私への置き土産だという厚い紙包みであった。……開けてみるとあろう事か、件の『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本・しかも私への献呈署名入り)であった。……私は震えた。しかし今度は感謝の気持ちとしての嬉しい震えであった。

 

 

…………学生時代、店主に嫌な事を言われながらも、三茶書房はしかしめげずに度々行っていた。そのガラスケ―スの中に、今度は江戸川乱歩直筆の書、有名な言葉「うつし世はゆめ夜の夢こそまこと」(現世は夢、夜の夢こそ真実の意)が展示されていたからである。……乱歩の熱心な読者であった私は、またしても欲しくなった。しかし、その書はあまりにも高価であって、店主に訊けば、またあの言葉が返ってくるのは必至であった。

……そう、私は乱歩の熱心な読者であった。……そればかりか、ここに掲載した一時代を作った平凡社の月刊誌『太陽』の江戸川乱歩特集では、乱歩の代表作『押絵と旅する男』に絡めたエッセイも、編集部からの依頼を受けて執筆しているのである。……この企画では、久世光彦種村季弘谷川渥団鬼六荒俣宏石内都鹿島茂、更には俳優の佐野史郎など分野を超えて、執筆者各人を探偵に見立て、様々な視点から乱歩の多面体の謎に斬り込んでいてなかなか面白い企画であった。ちなみに私が書いたテ―マは「蜃気楼」であった。

 

……時が流れていった。……前々回(9月8日付け)のブログで、私は神保町の出版社.沖積舎の沖山隆久さんが李朝の掛軸展を開催中に会社に行き、沖山さんから李朝の掛軸を一点プレゼントされた話を書いた。その際にその展示の場所で、30年以上欲しくて探し続けていた月岡芳年の最高傑作と評される残酷絵『美男水滸傳』(今回、画像掲載)を偶然見つけ、沖山さんに私の旧作の版画一点との交換トレ―ドを申し出て快諾して頂き、念願が叶った話は書いた。(芳年は代表作の英名二十八衆句の内二点も持っている。)……以前にも書いたが、江戸川乱歩、三島由紀夫芥川龍之介谷崎潤一郎諸氏も芳年の作品の熱心な収集家であった。

 

……その沖山さんの出版社・沖積舎で、李朝の掛軸展の次に開催されたのは文人画の展覧会であった。泉鏡花.谷崎潤一郎.永井荷風.西脇順三郎.……等の書が展示されているというので、個展の出品作品の制作の合間を見て、神保町へと赴いた。……沖積舎の中に入ると、西脇順三郎のというより、西脇以後の詩人達がいまだに超える事が出来ない美しい詩「天気」の「(覆された宝石)のような朝 何人か戸口にて誰かとささやく それは神の生誕の日」の直筆の原稿が表装されていて私の眼をとらえた。

 

 

……しかし、その奥に入って私は我が目を疑った。……あの学生時代以来、ずっと意識し続けていた江戸川乱歩の件の書「うつし世はゆめ……」が奥の方で泉鏡花、谷崎潤一郎の書と並んで静かに展示されていたのであった。

「沖山さん、沖山さん、……!!」と言ってから、私は前回に芳年を入手して直ぐにというのに、またしても旧作の版画との交換トレ―ドを申し出てしまったのであった。……しかし、さすがに今回は沖山さんも難色を示され、私は冷静になり、自分が無理を言っている事を自覚した。……しかも、その乱歩の書はあまりにも高価であり、もうなかなか出ない貴重な書なのである。「さすがに私は無理を言っていますね」と言って、しばらく話をしてアトリエへと戻った。……その日の夕方、作品の仕上げをしていると突然、電話が鳴った。出ると沖山さんからであった。「北川さん、先ほどの乱歩の書の話、OKですよ!」。……私は声高く御礼を伝え、翌日の昼すぎには、長年熱望していた江戸川乱歩の書「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」がしっかりとアトリエの壁面に掛かっているのであった。

 

……月岡芳年の絵もさりながら、思い返せば、あの学生時代に、三茶書房のガラスケ―スの中で展示されていて熱い眼差しを注いでいた、池田満寿夫さん、西脇順三郎氏の詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』と、江戸川乱歩の書のいずれもが私のもとに在る事の不思議。……そして私は今にしてふと想うのである。これはまるで芝居のラストの大団円のようではないかと……。つまり、人生の終章に今、……いやいやまさか……と、私は揺れているのである。

 

……さて、今月11日から30日まで、東京日本橋・高島屋6Fの美術画廊Xで個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』がいよいよ始まる。作品が完成してリストを見ていてつくづく思うのだが、不思議と作って来たという実感がないのである。私は作品を作るというよりも、閃きが先ずあり、啓示のようにしてなにものかの力が私と平行して共に作品が次第に立ち上がって来るのである。……この傾向は年々強くなり、次々とイメ―ジが前方あるいは背後から押し寄せて来て、作品が形を成していくのである。……豪奢、静謐、逸樂、……そして豊かな詩情とノスタルジア。更には実験性と完成度の高さとのスリリングな共存。

 

……今回の個展案内状を受け取った何人かの方から、今回の個展の今までにも増して質の高い予感を指摘された。それは個展を前にしての嬉しい手応えである。……10日は展示、そして11日が個展の初日。……次第に緊張が高まって来ているのである。

 

 

個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』

 

 

 

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『裏番・中原中也』

敗戦記念日の8月15日になると、毎年その頃に大戦時の悲惨な映像が流れ、幾つかの特集番組がテレビで流される。先日たまたま観たNHKの朝の番組もその1つであった。(観られた方はかなり多いと思われる)……先ず映し出されたのは、レイテ戦で日本兵が突撃し、銃火や火炎放射器で焼かれて次々と戦死していく映像であった。

 

……次に作家・大岡昇平『レイテ戦記』の一節が朗読で流された。……それは、ある上官の事を書いた文章であるが、その上官の事を実に卑怯な男で、部下からの信頼もなく、いかに惨めな姿で死んでいったかを、その上官の実名を挙げて書いたものであった。……(ちなみに、この『レイテ戦記』は詳細な資料調査に基づいたものと評価され、反戦文学の代表作と評されている)。当然多くの読者は、実名で書かれたこの上官の事を事実とし、卑怯で惨めな男と記憶してしまう。……しかし大岡昇平の『レイテ戦記』が発表(1967年から連載開始)されていらい、この事で、実に50年以上もの間、屈辱に耐えて来た人達がいた。大岡に卑怯な男と実名で書かれた上官の遺族の人達である。

 

……番組では、当時5歳くらいであった上官のお嬢さん(現在は90歳くらい)が登場し、「記憶の中の父は絶対にそのような卑怯な人ではなかった。戦地での父の真実の姿を知りたい」と話す映像が映し出された。…………しかし番組製作時に、お嬢さんの長年の無念を晴らす奇跡が起きる。……お嬢さんは、偶然或る番組でレイテ戦の生存者(現在100歳くらい)が未だ生きている事を知り、テレビ局のスタッフとその人の住居へと赴いた。……「ひょっとして、その方は父と接点があった方かもしれない」……藁をもすがる想いで、その人と面会した。(画面に映るその人は100歳に達しているとは言え、矍鑠としていて、記憶の冴えがしっかりとした人であった)。

 

……レイテ島には当時84000人の兵隊がおり(その内80000人が戦死)、配属された部隊の数もたくさん在り、両者に接点がある方が難しい。……しかし驚いた事に、その人と上官は同じ部隊であり、上官の人となりは未だしっかりと記憶に焼き付いているという。そして画面は、上官とその人、そして部隊の全員が写っている集合写真のアップとなった。(写真から、上官の温厚さの中に秘めた信念の芯の強さが伝わって来る)。……その人は語り始めた。……「上官は実に立派な方で部隊の部下からも慕われていました」「私が生きて帰れたのも上官のおかげです。上官は(私はここで死ぬが、お前は生きろ!生きて日本に帰れ!!)そう言って亡くなられました。この本の中に書かれているような卑怯な人ではありません」と、はっきりと断言したのであった。

 

……私はここに2つの奇跡を観て感動した。1つは、この生存者にまるで導きのように上官の遺族が存命中にギリギリで会えた事、もう1つは、上官がこの一兵卒の部下を日本に帰した事で、80年後に自分の汚名を晴らす事が出来、お嬢さんに、自分の戦地での実像を伝えられようとは想像していなかったに違いない、何という運命の、しかし不思議な糸の結び付きかと、私は感動したのであった。

 

……「これで長年の辛かった思いが晴れました。有難うございました」とそのお嬢さんは語ったが、最後に「死人に口はありませんからね」とも静かに語った。……それは大岡昇平に、「卑怯者で惨めな姿で死んでいった」と書かれた事に、既に死者となってしまった父は何も言い返せない事への無念を語る言葉であり、悔しさであった。この遺族の方の秘めた本心には、明らかにされたこの部下の証言を大岡に見せて、何故あのような根拠のない、悪意とも取れる文章を書いたのかを抗議文か何かをしたためるか、或いは直接会って問う事にあった事は想像に難くない。……しかし大岡は35年前の1988年に亡くなっており、この無念はもはや届かない。

 

 

……しかしここに、大岡昇平が未だ存命中に、手紙で強烈な抗議文を書いて大岡に送った当時26才の若僧がいた。……誰あろう、私である。

 

……昔、角川書店から電話が入り、大岡昇平の『中原中也』を文庫で出すので、その挿画を表紙に描いて欲しいという依頼があった。私はその本の事は知っていた。先達の、銅版画の詩人と言われた駒井哲郎さんの版画『笑う赤ん坊』を大岡の『中原中也』の単行本の表紙にしたのを覚えていたのである。中原中也の無垢さの内の御しがたい突き上げを、この版画の選択は実にピタリと合っており、表紙の挿画として突出した素晴らしい出来だと記憶していた。だから、その駒井さんと勝負しようと思い、編集者との打ち合わせを楽しみにしていたのであった。

 

……後日担当の編集者に会うと、浮かぬ顔で「実は大岡先生が、文庫の時にはこの写真を使って欲しいと言って、これを指定してきたのです」と言う。……それは中原中也が確か就職活動の必要を覚えて撮った書類に貼る為の写真で、よく知られたあの写真と違い凡庸な面相で写っている。

 

……私は「人は表紙のセンスの妙で購買を決める場合が多いので、これじゃ売れませんよ」と言った。そして「既存の写真をただ印刷するだけなら、何もあえて私がやる必要はないでしょ」とも言った。実はこの配慮は大岡自身の為でもある。どれだけ売れるか、内実、印税は大岡に限らずどの作家にとっても生命線なのである。これではすぐに絶版は必至と見た。話してみると、……編集者も本音は、この中原ではなく、あの写真を使いたいらしい。

 

まぁしかし私も生活がある。……その頃に芥川賞をとった池田満寿夫さんが、当時20代の私が画廊契約でも大変なのを心配してくれて、角川書店での挿画の仕事を前から私に紹介してくれていたのであった。だから、まぁやるしかない。

 

 

 

……とまれ大岡昇平の指定した写真を採用せず、私は、あのよく知られた写真を製版屋にまわして写真製版で作らせ、濃いセピアのインクを刷ってレイアウトをし、編集者に渡して文庫本が出来上がった(画像掲載)。……この仕事において、当然、私の中原中也への私的解釈など何も入らず、既存のままの昔からの中原中也の顔がそこに刷りあがっていた。

 

 

………それから半年くらい経った頃であったか。雑誌の『太陽』の中原中也特集号が出た。本屋で立ち読みをしていると末尾辺りに、大岡昇平の『中原中也像の変遷』と題する一文が載っていた。中也像の変遷?とは何だ?意味がピンと来ないまま、一読して私は大岡昇平に失望した。そして、大岡、呆けたか!!?とも思った。

 

その文章は実に馬鹿げた論旨で、一言で言えば、私(大岡)が身近にいてよく知っている中原中也の実像と違い、中原を知らぬ次々の世代の読者は、彼のイメ―ジを女性的な弱い像として捕らえている傾向がある。具体的な例を挙げれば、以前に私の『中原中也』の表紙画を担当した北川健次がそれである。実像を知らない甘いイメ―ジで中原中也像を作り上げた北川はまがい物である!と断じているのであった。

 

……先述した通り、私はこの中原中也の写真を全く私的解釈などで変化せず、角川の編集者に用意してもらった写真をそのまま製版屋に回し、編集者がせめてセピアの古色でと言うので、そのまま刷っただけの、昔と何ら変わらない中原中也のままである。……自分の言う事を無視した若僧と私の事が映ったのか、とにかく久しぶりに来た原稿依頼で高ぶったのか、あろう事か、昨今の誰も抱いていない女性的な中原中也のイメ―ジに変化した幻をそこに見て、私が作った表紙に、大岡は怒りのままに長いまつ毛を生えさせてしまったらしい。

 

……私は、この文章を書くに至った大岡の内面を透かし見た。……誰もが平伏する私に対し、この北川という生意気な若僧は……という想いと同時に、中原中也をよく知っているのは身近にいた私だけであるという念が日増しに増して来ており、それをこの駄文に込めたのであろう、そう思った。しかし、まがい物と活字でしっかりと書かれた事は、さすがに許しがたいものがある。呆けた相手とは言え、売られた喧嘩は、矜持として買うのが私の流儀である。さっそく私は抗議文を書く事にした。編集者から大岡の住所を訊き、便箋5枚ばかり書いて、「くらえ!!」とばかりに投函した。

 

「貴殿が小心者でないならば、また自分の書いた文章にプロの作家として自責を負う自覚があるならば、この手紙を途中で破る事なく最後まで読まれたし。この手紙文は先日書いた中原中也に関する貴殿の明らかな間違いを理路整然と正す文章である。…………」から始まる文は、最後に「私は中原中也の詩や文章の熱心な読者の一人であるが、その彼の文章の中に貴殿について書かれた文章は、小林秀雄と違い僅かしか無い事もまた事実です。最後になりますが、貴殿の小説について何か書く事は礼儀かもしれません。しかし、多くの読者がそうであるように、私は三島由紀夫松本清張の熱心な読者であり、彼らの作品や生き方から多大な影響を受けています。しかし、多くの人達がそうであるように、貴殿の小説は全く読んでいないので、何も書く事はありません。……定家卿曰く、芸道の極意は身養生に極まれりと。御身お大事に。北川健次」………………今、記憶の限りに書いているが、まぁこんな内容であった。

 

…………しばらくして、反応があったが、それは私の予期した通りの事であった。私でなく角川の編集者に怒りの矛先が行き、以来、私の挿画の仕事は無くなった。しかし良くしたものでその後に他の出版社から挿画の依頼が来た。またまがい物と書かれた雑誌『太陽』ともその後で何故か縁があり、エッセイを書いたり、また編集長から企画の相談を依頼されるようになるから、人生はわからない。

 

……さて、抗議文の中で松本清張の名前が出て来たが、これには理由がある。……大岡昇平は松本清張の文学を否定し、「彼の作品は純文学でないから認めない」と発言しているのであるが、彼はいつから純文学の裁き手になったのであろうか?……文壇では小林秀雄を我が身の借景としている事から来る、この増長とも取れる発言は、如何にも不可解であり、如何にも小さい。

 

……松本清張は『或る小倉日記伝』で芥川賞を授賞した後、周知の通り、社会派推理小説という新分野を切り開き、その分野の越境の様は拡がりを見せながらとどまる事を知らない生涯であった。純文学などという狭い意識にこだわっていては果たせないスケ―ルの幅であり、私は20代から大きな影響を受けている。……「純文学ではないから認めない」という大岡の発言を嫉妬だと断ずる人もいるが、底辺から這い上がって、一気に小説家の水準を超える作家へと上がっていった松本清張への蔑視もあるように思われる。『神聖喜劇』などの著作で知られる小説家の大西巨人氏は、大岡の発言の中に矛盾や屈折を早々と看破しているが、やはりと思わせるものがある。

 

……最後に、『レイテ戦記』に戻るが、詳細な調査として評価された面があるこの作品。実は正確な戦史でなく、実質は小説であるが、この点にそもそもの構造的な無理がある。戦史で言うなら、吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』の方が遥かに正確さと密度において優れており、吉村昭氏の『関東大震災』の方がその詳細な調査の深さにおいて群を抜いている。この度の番組で明らかになった『レイテ戦記』の虚実のほころび。……今、もし大岡昇平の研究家なる者が存在するとしたならば、このレイテ戦記の虚の部分を徹底調査して洗い直す必要があると、私は汚名を受けた遺族の方々に代わって考えるのである。

 

 

……今回のブログはマチスについて書く予定でいたが、思いがけずテレビ番組で、著者の無責任さを知ってしまい、このブログを書く事になってしまった。……さぁ次は何を書こうか、ともかくご期待頂けると有り難いです。

 

 

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『近況―春から続く展覧会の中で……』

4月24日にアップしたブログで、詩人の高柳誠氏からは新刊の詩集が、そして同じく詩人の野村喜和夫氏からは対談集(私との対談も所収)が送られて来た事はご紹介したが、先日は、いまパリに滞在中の歌人の水原紫苑さんが1月の2冊同時刊行に続いて歌集『快楽』を、そして美学の谷川渥氏が『三島由紀夫/薔薇のバロキスム』を、ちくま学芸文庫から刊行し、先日、西麻布でその刊行記念講演が開催され、私も出席した。

 

……ことほどさように、我が文芸の友人諸氏は健筆を振るってますます盛んに表現領域の開拓に意欲的であるが、……ふとその眼差しを美術の分野に転じれば、私と同じ頃に登場した版画家や画家はことごとく、その存在が薄墨のように目立たなくなってしまって既に久しい。全く発表しなくなったか、発表しても、小林旭のヒット曲「昔の名前で出ています」ではないが、同じパタ―ンの繰返し、或いは旧作を弄くっているだけで、その作家における「現在」が無い。特に版画の分野はそのほとんどが死に体のごとく、沈んだ沼の底のごとくである。しかし、その理由は判然としている。未開の版画にしか出来ない表現というのが実は多々ある筈なのに、既存の版画概念の範疇内で作り、複眼性、客観性を欠いた、つまりは批評眼が全く欠けている事に気づいていないのである。

 

「私は版画家だけにはなりたくない」と日記に記したパウル・クレ―の、その文章の強い意思の箇所に、銅版画を作り始めたその初期に鉛筆で線を強く引いた事を私は今、思い出している。…………私は、美術の分野では15年前に、自分が銅版画でやるべき事は全て作り終えたという発展的な決断の元、次はオブジェ制作に専念すべく意識を切り替え、既に1000点以上のオブジェを作り、文芸の分野では、詩作や美術論考の執筆をやら、そして写真も……と、分野を越境して制作しているので、その比較が俯瞰的にありありと見えてしまうのである。

 

私個人の展覧会に話を移せば、4月は1ヶ月間にわたって個展を福井で開催し、5月24日から6月12日迄は西千葉の山口画廊で個展『Genovaに直線が引かれる前に』を開催。……そして今月の10日から24日迄、日本橋の不忍画廊が企画した『SECRET』と題したグル―プ展で、池田満寿夫さん他6名の作家の作品と共に、私のオブジェや版画が多数出品されている。本展では、私のオブジェの中では大作と云える、イギリス・ビクトリア期の大きな古い時計を真っ二つに切断したオブジェ(画像掲載)や、銅版画『回廊にて―Boy with a goose』(画像掲載)も出品しているので、是非ご覧頂きたい。また詩も作品に併せて各々に書いているので、こちらもお読み頂ければ有り難い。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、10月11日から10月30日迄の3週間にわたって、日本橋高島屋の美術画廊Xで個展を開催する予定で、現在アトリエにこもって制作が続いている日々である。その間にも充電と称して、ブログに度々登場する、不穏な怪しい場所、ミステリアスな場所へと探訪する日々が続いている。……こちらもまた追ってブログで書いて登場する予定であるので、乞うご期待である。

 

 

……さしあたっては湿気の多い病める梅雨なので、いっそそれに相応しい阿部定事件のあった荒川区尾久の現場跡にでも行ってみようかと思っている、最近の私なのである。

 

 

 

 

 

 

 

不忍画廊『SECRET』展

会期: 6月10日~24日 (休廊日:月曜・火曜)

時間:12時~18時

東京都中央区日本橋3丁目8―6 第二中央ビル4F

TEL03―3271―3810

東京メトロ銀座線・東西線・都営浅草線「日本橋駅」B1出口より徒歩1分

東京メトロ半蔵門線「三越前駅」B6出口より徒歩6分

http: //www.shinobazu.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『大規模な個展を開催中』

……東京日本橋・高島屋本店6階の美術画廊Xで、新作オブジェ70点以上が一堂に展示された大規模な個展が、10月20日から始まった。会期は11月8日までと、まだ会期は長いが、個展前日の作品展示作業の時から観に来られる方もいて、その場で早々と数点のコレクションが決まるなど、個展の手応えが早くもあった。……そして初日の幕が開くや、奇跡的にコロナの感染者が激減しているという追い風もあり、個展を待ち望んでいた沢山の来廊者で連日、会場は賑わっている。8月、9月のコロナ感染爆発でその頃は開催も危ぶまれたが、10月に入るや、不思議なまでに信じがたい感染者激減の奇跡が現れはじめ、個展が始まると共に、遠方からの熱心なコレクタ―の方々も遙々観に来られ、久しぶりの嬉しい再会が叶っている。……正に奇跡的な好機での個展開催である。

 

 

毎年、秋に開催されている高島屋美術画廊Xでの個展は今回で13回目になる。この企画展の当初から美術部の福田朋秋さんが長年担当されていて、その眼識の高さは実に鋭く、かつ的確なので、私は福田さんに全幅の強い信頼を寄せている。2月頃から開始した制作も次第に没頭の日々が続くと、さすがに未明の混沌の中に入ってしまう時がある。……私はかなり客観的な複眼で自作を分析出来ると思っているが、それでも時として次第に、大海の中での凪に入った舟のように視えなくなってしまうのである。……そういう時に、福田さんから受ける作品への感想や確かな批評は、再びの自信を呼び起こし、最後の追い込みへと入って行くのである。

 

 

今回の個展の打ち合わせを兼ねて、福田さんがアトリエに来られたのは9月のはじめ頃であった。……アトリエに列べた数々の新作を視るや、速断で、今回の作品が今までのオブジェの中で(その数は既に1000点近くに達している)最も、自在なイメ―ジへと誘う深度と完成度の高さに達している事を指摘された時は、さすがに私も安堵を覚え、かつ確信も実感したのであった。だから、今回の個展は必ずや実現したかったのであるが、9月のその頃はまだ先が見えない感染爆発の渦中にあり、多くの展覧会が中止となっていた頃であった。しかし、私はこのブログでも度々書いて来たが、陰陽師と呼ばれるまでの強い運気と、想いが必ず叶い、手繰り寄せてしまう事が出来る予知的な神通力を持っているので、心中の何処かで期するものがあった。……今思い返せば、確かに9月のその頃、不思議に楽観視しているものがあった。……そして、個展がある10月に入るや、信じがたい現象が起こり始め、感染者激減へと動きはじめたのであった。

 

 

今回の個展は、福田さんが速断で指摘したように、今までの個展の中で最も完成度の高いものとなっており、それと同じ感想を来廊された人達も語っている。……それを証すように、画廊の中で30分以上はゆうに過ごす方が多く、完成度の高い作品が多いので、コレクションする作品を決める迄に2時間以上、作品と対峙して決められる方もおられ、作者としての手応えを実感しているのである。

 

 

昔、私がまだ20代の頃、先達の池田満寿夫さんが私に語ってくれた事がある。「作品への一番確かな批評は、批評家の言葉でなく、作品を観る人達がどれだけ時間をかけて作品の前に佇み、作品と対話するか、つまり、その時間の長さである」と。……私は会場に毎日いて、その言葉を実感しているのである。

 

 

 

 

 

……今回の個展のタイトルは『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』。……縦長の広い画廊空間を劇場に見立て、その中に70点以上のオブジェが各々に放つ幻視を鮮やかに立ち上げようというのが主題の根本にある。本展では、今まで無かった鉄や石による「立体書簡」という連作にも挑戦し、会場に異彩を放っている。……まだご覧頂いてない方は、ぜひご来場頂いて、久しぶりの再会や、嬉しい出逢いとなる事を願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』

会期:10/20~11/8  時間:10:30~19:30

会場:高島屋本館6階/美術画廊X

〒103-8265 東京都中央区日本橋2丁目4−1

お問い合わせ ㈹:03-3211-4111

 

 

 

 

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『人間―この未知なるもの』

……いよいよ明後日から9月である。しかしまだ暑い、暑すぎる。あまりの暑さで蝉も鳴かない。……さて、その明後日の9月1日と云えば、大正12年に起きた関東大震災があった日である。最近読んだサイデンステッカ―の『東京・下町山の手』に続き、田山花袋の『東京震災記』で関東大震災の実態の様を興味深く読んだ。51の章に分かれて、正にこの世の生き地獄と化した関東大震災の惨状を、生々しく活写した貴重な記録である。一瞬の運や判断の分かれ目で生死が左右される事が、実際に作者の花袋が歩き視たその描写からリアルに見て取れる。……圧死や焼死から幸い免れた人達もみな、その日の、灰塵と化した東京に沈む落日の不気味な様を見て「もはや、この世の終わりかと思った」という。関東大震災、そして連日の空襲……。それから比べたら、今回のコロナ禍などまだまだ比較にならない!という感がある。過去の大災害や毎日が死と向き合った戦禍を生き抜いた先人達の事を知ると、今のコロナ禍の程度が複眼的かつ俯瞰的に見えて来てメンタルにたいそう良い。……サイデンステッカ―、吉村昭の『関東大震災』、そして、田山花袋の『東京震災記』。興味のある方には、ぜひ読まれる事をお薦めしたい、この現状を達観へと導いてくれる著書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

……今回、お薦めしたい本がもう1冊ある。今月、三笠書房から刊行された『人間 この未知なるもの』という本である。著者はアレキシス・カレル氏。フランスの高名な外科医で、1921年にノ―ベル生理学・医学賞を受賞した人物。18カ国で訳され、既に数百万部が読まれている名著の改訂新版である。ちなみに、この本の表紙に使われている装画は、私のオブジェ作品『ハンベルグの器楽的肖像』。……タイトルとピタリと合っていて、作品が持っている幅のあるイメ―ジの何かと通低して、編集者の読みの正確さが見て取れる。

 

 

私の作品は度々、本を飾る表紙の装画に使われており、既に50冊は越えたかもしれない。須賀敦子、久世光彦、池田満寿夫、岡田温司、etc……また海外のミステリ―、詩集・歌集等々であるが、あまりこのブログで、詳しく紹介した事はない。しかし、今回この本をお薦めしようと思ったのは、著者のアレキシス氏が、極めて理性的かつ高い知性の視点から、自然科学を超えた超常的な現象にも、肯定的な記述をしているからである。少し引用してみよう。

 

「……しかし、奇妙なことのようだが、透視力は全く科学と関係がないというわけではない。大発見は知能だけの産物ではないことは明らかだ。天才は観察力と理解力があるばかりでなく、直感力とか創造的な想像力のような資質をも備えている。この直感力によって、他の人々が気づかない現象と現象の関係を見抜いて、無意識のうちに物事の関係性を感じとるのである。偉大な人物はすべて直感力に恵まれている。…(略)…直感によって発見への道をたどるのだ。こういった現象は、インスピレ―ションと呼ばれてきた。……」

 

「科学的、美的、宗教的なインスピレ―ション、そしてテレパシ―の双方に同時に関連しているように思える。テレパシ―は死にそうな時や、大きな危機に直面した時に起こる事がある。死に瀕している人や事故の犠牲者が、肉親や友人のところに現れるのだが、それは姿だけで、たいてい話をしない。しかし、時に口を開いて自分の死を告げることもある。透視はまた、遠く離れたところにいる人や風景を感じとり、細かく正確に描写することができる。テレパシ―にはいろいろなかたちがあって、透視は出来なくとも、一生に一度か二度はテレパシ―を体験したことのある人は稀ではない。……」

 

「身体を超えたものを対象とする新しい科学に属するこれらの事実は、あるがままに受け入れなくてはならない。それは現実に存在しているものなのである。そこには、人間のほとんど知られていない面、ある種の人間だけに見られる神秘的な鋭さが現れているのであろう。」……………………著者のアレキシス氏に限らず、かつてノ―ベル賞を受賞した科学者や物理学者で、このような霊性を孕んだ超常現象に挑んだ研究者は実に多くいて、知られているだけでも40人近くいる。驚くべき数である。ずいぶん以前のブログでも、私はその事実を取り上げ、いわゆる霊的現象に挑んだノ―ベル賞受賞者達の事を書いた海外の著書がある事を紹介した事があった。彼ら、物理学や科学の頂点を極めた研究者が、その叡知を駆使して終に辿り着くのが、先日にも書いたアインシュタインが着眼した「時空間の歪み」をも含めた、霊的という言葉でしか表しようのない、この不可思議な現象学の髄なのである。

 

 

……振り返れば、私はこのブログの記述を始めて10年以上の年月が経っている。想えば、早いものである。……その中で私は自分の身に起きた、不思議としかいいようのない、実際に起きた予知や透視の体験をずいぶん書いてきた。私をよく知る人は、私を評して「美術家というよりは寧ろ陰陽師」と言っている。そして私は、人生に一度か二度ではなく、あまりに頻繁に起きる、この自分に備わった予知や透視能力を通じて、この「北川健次」なる者を、昨今はもはや〈客体〉として眺めているようにさえもなっている。

 

 

……①俳優の高島忠夫夫妻の長男(生後5ヶ月)が、住み込みの家政婦に浴室で絞殺された時、私は東京から遠く離れた北陸の福井にいて、未だ12才であったが、私は朝のニュ―スで第一発見者で涙ながらに語る家政婦を見て驚愕した。……僅か5時間ばかり前の深夜に、夢の中に、浴室で女がもの凄い形相で幼児を絞殺、溺死させている映像が、それまでの他の夢の膜を破るように突然映し出され、まるでカメラがランダムに撮っているように、時に浴室の天井が揺れ乱れて映り、また女の側から視た幼児の姿、また、次は幼児から視た、自分を必死で絞めてくる女の形相がバラバラに映り、夢は突然消えたのであるが、その時に見て、まだありありと覚えている女の顔が、5時間ばかり後のニュ―スに、第一発見者として映っていたのであった。……それが、頻繁に起こる不可思議な予知的体験のプロロ―グであったと今は思う。

 

②先日、TVの「クイズ王選手権」なる番組を観ていた時の事、問題を告げる女子アナの声が流れ、「次に書かれた文章(英語)は、はたして何について書いた文でしょうか?それが示す単語(英語)を答えなさい。」と話し始めた。そしてまだ問題の文章が出される一瞬前に、私の脳裏に下りて来たのは「knock」という言葉であった。別にその問題に食いついていたわけでなく、ただknockという言葉が自然にするっと下りて来たのである。その後で、灘高だったか学生が答えたのが「knock」であり、正解であった。……何万語とある単語の中から、何故その言葉が私の頭に下りて来たのかはわからないが、そのような事があまりに度々あり、その幾つかは以前のブログでも書いて来たので、読まれた方もおありかと思う。

 

③拙著に『「モナリザ」ミステリ―』という題名の、ダ・ヴィンチについ書いた長編がある。その最終章で私は彼の生地、ヴィンチ村について書かねばならなかったのであるが、そこに行く時間が旅程でどうしても取れず、やむなく泊まっていたフィレンツェの宿で執筆する事になった。……私は頭を切り換えスイッチを入れて、その村―ヴィンチ村を透視した。……すると次第に村の入り口や、風景の情景がありありと視えて来て、先ずは柳の木の描写から始まった。……そして2時間後に文章を書き終えて脱稿した。後日に本が新潮社から出版された時、ヴィンチ村を訪れた事があるという知人の読者数人から同じ感想を言われた。「いゃあ、あのヴィンチ村、懐かしかったですよ。あの白い柳、全くその通りで、村の中も全く同じで、久しぶりに、行った時の事を想い出しましたよ」と。……前述したアレキシス氏の著書を読むと、この直感力は美的なものに使われる場合があると書かれているが、確かに私の場合、この直感力はオブジェの制作時に全開されているように思える。以前に池田満寿夫さんは私を評して「異常な集中力」と語った事があるが、それは当たっていると思う。とにかくアトリエの中では、作品が次々に浮かび、短歌や俳句の言葉を紡ぐように、神経がふるに稼働して、作品を作るのではなく、〈ポエジ―を孕んだイメ―ジ〉は向こうから瞬時にやって来るのである。……クレ―は「表現者とは、未知の闇の中から、ポエジ―を掴み出し可視化する事の出来る者の謂である」という至言を書いているが、その実感はある。……付記すれば、近代の芸術家の中でこのような能力を持っていた人物は、ジャン・コクト―マックス・エルンストにその例を視る事が出来るかと思う。

 

 

昨今の表現の世界は、インスピレ―ションの閃きを想わせる作品を殆ど見かけなくなったが、何か美の本質から外れて、軌道無しの衰退の一途を辿っているような傾向が特にある。一言で云えば、幼稚な衰弱への一途、その感があるのである。

 

 

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『作品集刊行の反響』

求龍堂の企画出版で私の作品集『危うさの角度』が刊行されて半月が過ぎた。本を入手された方々からメールやお手紙、また直接の感想なりを頂き、出版したことの手応えを覚えている。……感想の主たるものは先ず、印刷の仕上がりの強度にして、作品各々のイメ―ジが印刷を通して直に伝わってくる事への驚きの賛である。……私は色校正の段階で五回、ほぼ全体に渡って修正の徹底を要求し、また本番の印刷の時にも、二日間、埼玉の大日本印刷会社まで通って、担当編集者の深谷路子さんと共に立ち会って、刷りの濃度のチェックに神経を使った。私の要求は、職人が持っている経験の極を揺さぶるまでの難題なものであったが、それに響いた職人が、また見事にその難題に応えてくれた。昨今の出版本はインクが速乾性の簡易なもので刷られているが、私の作品集は、刷ってから乾燥までに最短でも三日はかかるという油性の強くて濃いインクで刷られている。私の作品(オブジェを中心とする)の持っているイメ―ジの強度が必然として、そこまでの強い刷りを要求しているのである。……しかし、当然と思われるこのこだわりであるが、驚いた事に、自分の作品集でありながら、最近の傾向なのか、色校正をする作家はほとんどおらず、また印刷所に出向いて、刷りに立ち会う作家など皆無だという。信じがたい話であるが、つまり、出版社と印刷所にお任せという作家がほとんどなのである。……、昔は、作家も徹底して校正をやり、また印刷所にも名人と呼ばれる凄腕の職人がいて、故に相乗して、強度な印刷が仕上がり、後に出版物でも、例えば、写真家の細江英公氏の土方巽を撮した『鎌鼬』や、川田喜久治氏の『地図』(我が国における写真集の最高傑作として評価が高い)のように、後に数百万で評価される本が出来上がるのであるが、今日の作家の薄い感性は、唯の作品の記録程度にしか自分の作品集を考えていないようで、私にはそのこだわりの無さが不可解でならない。だから、今回、その川田喜久治氏から感想のお手紙を頂き、「写真では写せない深奥の幾何学的リアル」という過分な感想を頂いた事は大きな喜びであった。また、美学の谷川渥氏からも賞賛のメールが入り、比較文化論や映像などの分野で優れた評論を執筆している四方田犬彦氏からは、賛の返礼を兼ねて、氏の著書『神聖なる怪物』が送られて来て、私を嬉しく刺激してくれた。また、作品集に掲載している作品を所有されているコレクタ―の方々からも、驚きと喜びを交えたメールやお手紙を頂き、私は、春の数ヵ月間、徹底してこの作品集に関わった事の労が癒されてくるのを、いま覚えている。

 

私のこの徹底した拘(こだわ)りは、しかし今回が初めてではなかった。……以前に、週刊新潮に池田満寿夫さんが連載していたカラ―グラビアの見開き二面の頁があったが、池田さんが急逝されたのを継いで、急きょ、久世光彦さんと『死のある風景』(文・久世光彦/ヴィジュアル・北川健次)という役割で連載のタッグを組んで担当する事になり、その後、二年近く続いたものが一冊の本になる際に、新潮社の当時の出版部長から、印刷の現場にぜひ立ち会ってほしいと依頼された事があった。これぞという出版本の時だけ印刷を依頼している、最も技術力の高い印刷所にその出版部長と行き、早朝から夜半まで立ち会った事の経験があり、それが今回役立ったのである。……久世光彦さんとの場合も、久世さんの耽美な文章に対峙し、食い殺すつもりで、私は自分のヴィジュアルの作品を強度に立たせるべく刷りに拘った。結果、久世さんの美文と、私の作品が共に艶と毒の香る本『死のある風景』が仕上がった。……表現の髄を熟知している名人・久世光彦の美意識は、私のその拘りの徹底を見抜いて、刊行後すぐに、手応えのある嬉しい感想を電話で頂いた。共著とは云え、コラボなどという馴れ合いではなく、殺し合いの殺気こそが伝わる「撃てば響く」の関係なのである。……今はそれも懐かしい思い出であるが、ともかく、それが今回役立ったのである。だから職人の人も、印刷の術と許容範囲の限界を私が知っている事にすぐに気づき、その限界の極とまで云っていい美麗な刷りが出来上がったのである。この本には能う限りでの、私の全てが詰まっている。…………まだご覧になっておられない方は、ぜひ実際に手に取って直にご覧頂きたい作品集である。

 

……さて、6月から3ヶ月間の長きに渡って福島の美術館―CCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催されていた個展『黒の装置―記憶のディスタンス』が今月の9日で終了し、8月末には作品集『危うさの角度』も刊行された。(『危うさの角度』の特装本100部限定版は、9月末~10月初旬に求龍堂より刊行予定)……そして今の私は、10月10日から29日まで、東京日本橋にある高島屋本店の美術画廊Xで開催される個展『吊り下げられた衣裳哲学』の作品制作に、今は没頭の日々を送っている。今回は新作80点以上を展示予定。東京で最も広く、故に新たな展開に挑むには、厳しくも最高にスリリングな空間が、私を待っているのである。今年で連続10回、毎年続いている個展であるが、年々、オブジェが深化を増し、もはや美術の域を越境して、私自身が自在で他に類の無い表現の領域に入ってきている事を、自分の内なる醒めた批評眼を持って分析している。「観者も実は創造に関わっている重要な存在であり、私の作品は、その観者の想像力を揺さぶり、未知とノスタルジアに充ちた世界へと誘う名状し難い装置である」。これは私独自の云わば創造理念であるが、私の作品は、今後ますます不思議な予測のつかない領域に入りつつあるようである。……その意味でも、10月から始まる個展には、乞うご期待という事を自信を持って、ここに記したいと思う。

 

 

 

 

 

 

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『次へ !!!』

不忍画郎での展覧会『名作のアニマー駒井哲郎・池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』が盛況の内に終了した。三人の作品が一堂に会すという話題性や、読売新聞の文化欄で紹介されたことなどもあり、来廊者は1000人を超えた。画廊の展覧会としては、異例の数字である。昨今の美術の分野の内容の薄さに対し、私は「芸術は精神を突く強度なものでなくてはならない!!!」という理念がある。その私の理念と、不忍画郎の荒井裕史氏のプロデューサーとしての版画への想いが合致した今回の企画が、多くの人々に支持されたのだと思う。会期の三週間の間に何度も足を運ばれる方も多くおられ、手応えのある展覧会であった。

 

詩画集『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』(普及版)

23日(日)の産經新聞の朝刊の文化欄に、5月に刊行したばかりの、詩人・野村喜和夫氏と私の共著による詩画集『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』の書評が大きく掲載された。書き手は、多摩美術大学の教授で美術評論家の中村隆夫氏。私と野村喜和夫氏がコラボレーションの形でこの本に何を込めようとしたか、そして、詩とヴィジュアルとの絡みと相関性について実に的確に書かれており、書評の域を超えた鋭い言及が成されている。産經新聞のインターネット版にも載っているので、ご興味のある方はぜひ読んで頂きたい内容である。先日、版元である思潮社から連絡があり、詩集としては異例の売行きで、完売も既に視野に見えてきているとの由。普及本は1000部であるが、先月、茅場町の森岡書店で開催した詩画集刊行記念展の時に、50部だけ特別に特装本を作った。私のオリジナル写真作品1点と、オフセット+シルクスクリーン刷りのコラージュ作品1点と野村喜和夫氏の詩のフランス語訳の凸版刷りに氏のサインが入り、本の内側にも、私と野村喜和夫氏の署名が銀文字で入った豪華版である。しかし、思潮社と野村氏と私とで配分した為に、私の方で販売可能な部数は今は僅かに5部しか残っていない。定価は三点のオリジナル作品が入って52,500円(税込み)。御希望の方は、この私のオフィシャル・サイトに申し込んで頂ければ購入が可能である。但し、残部が少ないために完売し、絶版になってしまった場合は御了承されたし。

 

個展を含め、昨年の秋から毎月、展覧会を続けざまに開催して来たが、ようやく充電の時期に入る事になった。しかし、今秋の高島屋の個展をはじめ、美術館での作品展示、更には異なるそれぞれのテーマでの個展が来年の春まで、早くも幾つか企画が入っている。私が次にどのような表現世界を展開するのか予測がつかないのが楽しみであると、展覧会に来られる方の多くが語っている。私自身も又、その意味ではスリリングな中にいる。多くの作家は、自分への批評眼の欠如ゆえに、作品が全く変わらないマンネリという澱みの中にいる。私は次なるイメージの狩猟場を求めて新たな場に移る事を自分に課している。私は有言実行の人間である。楽しみにして頂きたいと思っている。

凸版製法により刷られた野村喜和夫氏の詩・直筆サイン入り

野村喜和夫氏の詩のフランス語訳の凸版の金属製型版

 

オリジナル写真(ドイツ製:ハ-ネミュ-レ社バライタ紙使用)

 

詩画集の特装本

(私のオリジナル写真1点・コラージュ1点・野村喜和夫氏の詩のフランス語訳の凸版刷      り・サイン入りの計3点入り)定価52500円(残部5部のみ)

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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