澁澤龍彦

『実は、…私はよく知らないんですと、その男は言った!』

先日、知り合いの女性から(横浜の催場で、函館から来た画商という人が閉店セ-ルで3日間だけ西洋版画を商っていて、レンブラントの風景版画が45万円で売っているので、その版画を買おうかと思っているのですが、すみませんが、もし出来たら見に行ってもらえますか?催日は明後日迄です…)という連絡が入った。…打てば響くを信条としている私は、興味もあって直ぐ見に行った。…催場で一目見て思った。「こりゃあいけない、贋作だ!」と。…一見、誰もが知るレンブラントである。インクも強弱があるし、古色も帯びている。…しかし間違いなく贋作である、そう確信して見ていると、店の中から紳士然とした風格のある男が微笑を浮かべながら近づいて来て、こう言った。(このレンブラント、なかなかの掘り出し物だと思いますよ、如何ですか?)と。

 

…私は男に問うてみた。…(版画の左下にエディション(限定)番号48/100と書いてありますが、これは誰が書いたのですか?)と訊くと、男は平然と(レンブラントの当時の画商です)と答え、意味不明なまばたきを2回した。(……その時の心理を映すこの男の癖なのか?)………確かに画商の始まりはレンブラントが亡くなった頃のオランダを祖とする17世紀後半からであるが、しかし私はこう言った。(あれですよね。このエディションという制度は、確かピカソの画商だったヴォラ-ルあたりが始めた制度で、間違いなく20世紀初頭が始まりですよね)と。…一瞬、男の目が泳いだ。私は続けて(昔、オランダのレンブラントの家を美術館にした所で、本物の版画から撮影してカ-ボンティッシュというドイツの写真製版技法で完全に再現した版画を、確か1枚5000円くらいで売店で売っていて、私も数点買って持っていますよ!)と言うと、男は静かに(……実は私は、よく知らないんですよ)と言って、静かに店の奥へと消えていった。

 

………版画に古い年月を感じさせる古色であるが、以前に澁澤龍彦のエッセイを読んでいて感心した事があった。…それは浮世絵の贋作に古色をつけるテクニックであるが、何と、昔の汲み取り式トイレ、通称「ぼっとんトイレ」の真上の天井に吊るしておくと、自然な古色を次第に帯びてくるのだという。…しかも、年中湿気の多い北陸地方(おぉ私の故郷!)が、実にリアルな古色を出してくるのだという。…ここまで追究して贋作を作っている連中は、ある意味たいしたものだと、思ってしまう。

 

昔、ロンドンに住んでいた時に、テムズ川に架かるタワ-ブリッジ傍で朝早くから開催している骨董市(通称、泥棒市)に出掛けた事があった。…そして朝未だ来の薄暗い中で、手紙の束と一緒に在ったレンブラントの風景を画いた銅版画を4000円で入手した事があった。店主はレンブラントの事など知らないらしく(兄さん、これ昔のペン画だよ!)と言う。…後でサザビ-ズの知人に無料で鑑定してもらったら、初刷りの掘り出し物であり、今もアトリエの中に大切に仕舞ってある。

 

…日本の骨董市も玉石混交の現場である。…以前に三島由紀夫の直筆原稿という触れ込みで店頭にそれが堂々と出してあった。一目見て三島のあの流麗な筆致から遠い贋作であるが、先のレンブラントの時と同じくリアルさを出す為に、この時は編集者が書き直しで入れた朱の文字が何ヵ所かに入っていた。これで贋作者は墓穴を掘っているのであるが、知らない人は、その朱色に興奮してしまうのであろう。…断言するが、完璧な三島由紀夫の文章に、朱の文字で編集者が文字を入れる事などあり得ない。…その贋の原稿は確か28万円(考えぬかれた数字!)だったが、その次に来たら無かったので、どなたかが買ってしまったのであろう。(…合掌)  昨日画いたばかりの、色が綺麗な、しかし高価なアニメ-ションフィルムも要注意である。…店頭に出る事は稀であるが、フィルムの裏を見て、彩色された絵に亀裂が入っていないのはかなり怪しい。

 

 

ワンランク上になると高価な書画骨董の類である。人気のある西郷隆盛の書は、特に贋作が多い。…見分け方の一つであるが、西郷の癖でチョンと跳ねる箇所を、西郷は決まってボトンと野太く書く。しかし、そこが危ない。

…贋作者は、西郷のファンがそこを注視するのを熟知しているので、あえて目立つようにボットンと太い点を黒々と置く。こうなると、生半可な知識と悪知恵の化かし合いである。

 

 

……30年ばかり前の話であるが、パリで一番大きな骨董市で知られる「クリニャンク-ルの蚤の市」を歩いていた時の事。20世紀後半の代表的な美術家で、妖しい球体関節の人形の作者でも知られるハンス・ベルメ-ルの版画の明らかな贋作が、その日はやたらと随所の店で目立ち、不審に思った事があった。…しかも何より不可解なのは、そのサインが明らかに本物だったからである。…私のアトリエにもベルメ-ルの代表的な銅版画が何点か在るので、その特徴的なサインの筆跡は記憶に入っており、間違いのない本物のサインだと私は断定出来る確信があるのである。…贋の版画に記された、しかしサインだけは本物とは…?その正体や如何にである。

 

 

……こういう時には、パリの裏も表も熟知している友人の到津伸子女史に訊くにしくはない。彼女は30年以上パリに住み、様々な人物との交流が深い。…その日の夕刻にサンミッシェルのカフェに呼び出して、真相を知っているか?と訊いてみた。…彼女は即答で知っている!と答えた。…それかあらぬか、生前(晩年)のベルメ-ルの家も彼女は訪れていたのであった。

 

(まるで彼は逃亡者のように荒んでいたわ。麻薬の中毒で廃人に近くなっていた彼につけこんで、悪い画商がベルメ-ルの贋作を量産し、金と引き換えに、ベルメ-ルに本物のサインを書かせていたわけよ)。…なるほど、それで昼見た謎がたちまち解けたのであった。……その真相を知った後に感じたのは、しかし苦い感慨であった。…ベルメ-ルは好きな作家だっただけに、やりきれないものが残ったのであった。……………次回は、『人魂に魂を入れてしまった男の話』を書く予定です。乞うご期待。

 

 

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『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『十月・神無し月の五つの夜話―澁澤龍彦から勅使川原三郎まで』

①……今や四面楚歌に窮したプ―チンが新たに発令した100万人規模の兵士追加動員令。しかし死んでたまるかと、この愚かな兵役命令を嫌って国外に脱出するロシア人達の車列の長さ。……ロシア各地方の役場が慌てて発行したずさんな召集令状には、年寄りや病人も入っていたというが、あろうことか既に亡くなって久しい死者にまで発行されたという杜撰さ。……それを知った私は想像した。旧式の銃を担いで村役場前に集合した、蒼白くうっすら透けてさえ視えるその死者達の不気味な群れを。そして私は昔読んだ或る実話を思い出した。

 

……それは、今から118年前の日露戦争時の話である。日露併せて22万人以上の死者が出たこの戦争が終った後に、日本軍の戦史記録者が記した記録書にはロシア兵の捕虜が語った興味深い言葉が残っている。

 

「日本軍が突撃して来る時の凄さは本当に怖かった。屍を踏みつけて来るその様は怒濤のようであった。中でも一番怖かったのは白い軍服を着た一団であった。撃っても撃っても倒れないので、遂に我々は恐怖で狂ったようにその前線から逃げ出した。……」という記述。これは一人の証言でなく、何人もの捕虜達が語っている記録である。……もうおわかりであろう。日露戦争時の日本の軍服は茶褐色(カ―キ色)で統一されており、白い軍服を着た一団などは存在しない。……そう、彼らは戦死した死者達が一団となって突っ込んでくる幻影を視たのである。しかし、一人でなく沢山の捕虜達が同時にその白い軍服の兵士達を視たという事は、……幻でありながら、実在もしていた……という事である。

 

 

②先日、10月2日から鎌倉文学館で開催される『澁澤龍彦展』のご案内状が奥様の龍子さんから届いたので、初日の2日に観に行った。しかし先ずは久しぶりに澁澤龍彦さんの墓参をと思い、菩提寺の浄智寺が在る北鎌倉駅で下車した。

 

……駅前の広場に出た瞬間に、30年以上前の或る日の光景が甦って来た。それは澁澤さんの三周忌の法要の日で、その広場には沢山の人が集まっていた。俗な組織や団体とは無縁の、つまりは群れない個性的な一匹狼の面々ばかりなので愉しくなって来る。私はその時、確か最年少であったかと思う。……顔ぶれを思い出すままに書くと、種村季弘出口裕弘巌谷國士高槁睦郎吉岡実四谷シモン金子国義池田満寿夫野中ユリ……それに舞踏、写真、文芸編集の各関係者etc.……その中に中西夏之さんの姿が見えたので「中西さん、一緒に行きましょうか」と声をかけ、浄智寺を目指して歩き出した。折しも小雨だったので、この先達の美術家との相合傘であった。

 

中西さんに声をかけたのには訳があった。……最近刊行された中西さんの銅版画集の作品について思うところがあったので、いい機会なので訊いてみようと思ったのである。その時に語った言葉は今も覚えている。「この前、銅版画の作品集を拝見して思ったのですが、銅版画家が発想しがちな積算的な制作法でなく、真逆の引き算的な描法で現した事は試みとして画期的だったと思いましたが、版を腐蝕する時にどうして強い硝酸でなく、正確だが表情が大人しい塩化第二鉄液を選んで制作してしまったのですか?……中西さん、もしあれを薄めた硝酸液で時間をかけて腐蝕していたら、あのような乾いた無表情なマチエ―ルでなく、計算以上の余情と存在感が強く出て、間違いなく版画史に残る名品になっていましたよ。」と。

 

…………中西さんは暫く考えた後で「あなたの言わんとする事はよくわかります。実は作り終えた後に直ぐにその事に気がついていました」と語った。……やはり気づいていたのか、……私は自分の表現の為にも、その是非を確かめたかったのである。……私達が話している内容は中西夏之研究家や評論家には全くわからない話であろう。……私達は今、結果としての表象についてではなく、そのプロセスの技術批評、つまりは表現の舞台裏、云わば現場の楽屋内の表現に関わる事を確認していたのである。……その後、私達は作る際に立ち上がって来る、計算外の美の恩寵のような物が確かに存在する事などについて話し合いながら鬱蒼とした木々に囲まれた寺の中へと入って行った。

 

しかし奥に入っても、誰もいないので、不思議な気分になった。神隠しのように皆は消えたのか?蝉時雨だけが鳴いている。…………そう思っていると、中西さんがゆっくりした静かな声で「……どうやら私達は寺を間違えてしまったようですね」と言った。話に没頭するあまり、澁澤さんの法要が行われる浄智寺でなく、その手前にある女駆け込み寺で知られる東慶寺の中にずんずん入って行ってしまったのである。浄智寺に入って行くと既に法要が始まっていて、座の中から私達を見つけた野中ユリさんが甲高い声で「あなた達、何処に行ってたの!?」が読経に交じって響いた。…………想えば、あの日から三十年以上の時が経ち、中西さんをはじめ、この日に集っていた多くの人も鬼籍に入ってしまい、既に久しい。

 

……澁澤さんの墓参を終えた後に、三島由紀夫さん達が作っていた『鉢の木会』の集まりの場所であった懐石料理の『鉢の木』で軽い昼食を済ませて、由比ヶ浜の鎌倉文学館に行った。

三島の『春の雪』にも登場する、旧前田侯爵家別邸である。

 

澁澤龍彦展は絶筆『高丘親王航海記』の原稿の展示が主で、作者の脳内の文章の軌跡が伺えて面白かった。先日観た芥川龍之介の文章がふと重なった。

 

……この日の鎌倉は、海からの反射を受けて実に暑かった。永く記憶に残っていきそうな1日であった。

 

 

 

 

③……話は少し遡って、先月の半ば頃に、線状降水帯が関東に停滞した為に夕方から土砂降りの時があった。……このままでは先が読めないし危険だと思い、アトリエを出て家路を急いでいた。雨は更に傘が役にたたない程の物凄い土砂降りになって来た。……帰途の途中にある細い路地裏を急いでいると、先の道が雨で霞んだその手前に、何やら奇妙な物が激しく動いているのが見えた。……まるで跳ねるゴムの管のように見えた1m以上のそれは、激しい雨脚に叩かれて激昂して跳ねている一匹の蛇であった。雨を避ける為に移動するその途中で蛇もまた私に出逢ったのである。

 

……細い道なので、蛇が道を挟んでいて通れない。尻尾の後ろ側を通過しようとすれば、蛇の鎌首がV字形になって跳ぶように襲って来る事は知っている。私の存在に気づいた蛇が、次は私の方に向きを変えて寄って来はじめた。……私は開いた傘の先で蛇の鎌首を攻めながら、まるで蛇と私とのデュオを踊っているようである。……やがて、蛇は前方に向きを変えて動きだし、一軒の無人の廃屋の中へと滑るようにして入っていった。暗い廃屋の中にチョロチョロと消えて行く蛇の尻尾が最後に見え、やがて蛇の姿が消え、無人の廃屋の隙間から不気味な暗い闇が洞のように見えた。

 

 

 

 

 

④…3の続き。

蛇に遭遇した日から数日が経ったある日、自宅の門扉を開けてアトリエ(画像掲載)に行こうとすると、隣家からIさんが丁度出て来て、これから散歩に行くと言うので、並んで途中まで歩く事にした。

 

 

 

 

 

Iさんは私と違い、近所の事について実に詳しい。……そう思って「Iさん、先日の土砂降りの日に蛇に出会いましたよ。暫く雨の中でのたうち回っていましたが、やがて、ほら、あの廃屋の中に消えて行きましたよ」と私。すると事情通のIさんから意外な返事が返って来た。「いや、あすこは廃屋じゃなくて人が住んでいますよ」。私は「でも暗くなった夕方も電気は点いていないですよ」と言うと、「電気が止められた家の中に女性が一人で住んでいて、時々、狂ったような大声で絶叫したり、また別な日にそばを歩くと、ブツブツと何かに怒ったような呪文のような独り言をずっと喋っていて、年齢はわかりませんが、まぁ狂ってますね。」と話してくれた。

 

私は、あの土砂降りの雨の中、その廃屋の中に入っていった一匹の蛇と、昼なお真っ暗な中に住んでいる一人の狂女の姿を想像した。……あの蛇が、その女の化身であったら、アニメ『千と千尋の神隠し』のようにファンタジックであるが、事は現実であり、その関係はいっそうの不気味を孕んでなお暗い。芥川龍之介の母親の顔を写真で見た事があるが、母親は既に狂っていて、その眼は刺すように鋭くヒステリックであった。……与謝蕪村に『岩倉の/狂女恋せよ/ほととぎす』という俳句がある。蕪村の母親は芥川龍之介の母親と同じく、蕪村が幼い時に既に狂っていて、最後は入水自殺であった。

 

……ともあれ、その廃屋の中に一匹の蛇と一人の狂女が住んでいるのは確かのようである。……昔、子供の頃に、アセチレンガスが扇情的に匂う縁日で『蛇を食べる女』の芸を観た記憶がある。芸といっても手品のように隠しネタがあるのでなく、女は実際に細い蛇を食べるのである。だからその天幕の中には生臭い蛇の匂いが充ちていた。……周知のように、蛇の交尾は長く、お互いが絡み合って24時間以上、ほとんど動かないままであるという。……ならば、もしあの蛇が雄ならば、狂女もずっと動かないままなのか?……。文芸的な方向に想像は傾きながらも、その後日譚は綴られないままに、私は今日も、その暗い家の前を通っているのである。

 

 

 

⑤先日放送された『日曜美術館』の勅使川原三郎さんの特集は、この稀人の多面的に突出した才能を映してなかなかに面白かった。番組は今年のヴェネツィアビエンナ―レ2022の金獅子賞受賞の記念公演『ペトル―シュカ』(会場はヴェネツィア・マリブラン劇場)の様子や、勅使川原さんの振り付けや照明の深度を探る、普段は視れない映像、また彼がダンス活動と共に近年その重要度を増している線描の表現世界などを構成よくまとめた作りになっていて観ていて尽きない興味があった。

 

……その線描の作品は、荻窪のダンスカンパニ―『アパラタス』で開催される毎回の公演の度に新作が展示されているのであるが、1階の奥のコ―ナ―に秘かに展示されている為に意外と気付く観客が少ないが、私は早々とその妙に気付き、毎回の展示を、或る戦慄を覚えながら拝見している一人である。……踊るように〈滑りやすい〉トレペ紙上に鉛筆やコンテで描かれたそれは、一見「蜘蛛の糸のデッサン」と瀧口修造が評したハンス・ベルメ―ルを連想させるが、内実は全く違っている。ベルメ―ルが最後に到達したのは、幾何学的な直線が綴る倒錯したエロティシズムの犯意的な世界であったが、勅使川原さんのそれは、ダンス表現の追求で体内に培養された彼独自の臓物が生んだような曲線性が、描かれる時は線状の吐露となって溢れ出し、御し難いまでの強度な狂いを帯びて、一応は「素描」という形での収まりを見せているが、この表現への衝動は、何か不穏な物の更なる噴出を辛うじて抑えている感があり、私には限りなく危ういものとして映っているのである。(もっとも美や芸術やポエジ―が立ち上がるのも、そのような危うさを帯びた危険水域からなのであるが)。……想うに、今や世界最高水準域に達した観のある彼のダンス表現、……そして突き上げる線描の表現世界を持ってしてもなお収まらない極めて強度な「何か原初のアニマ的な物」が彼の内には棲んでいるようにも思われて私には仕方がないのである。

 

……三島由紀夫は「われわれはヨ―ロッパが生んだ二疋の物言う野獣を見た。一疋はニジンスキ―、野生自体による野生の表現。一疋はジャン・ジュネ、悪それ自体による悪の表現……」と評したが、あえて例えれば、彼の内面には、ニジンスキ―とジャンジュネのそれを併せたものと、私が彼のダンス表現を評して「アルカイック」と読んでいる中空的な聖性が拮抗しあったまま、宙吊りの相を呈しているように私には映る時がある。……以前に松永伍一さん(詩人・評論家)とミケランジェロについて話していた時に、松永さんは「完璧ということは、それ自体異端の臭いを放つ」と語った事があるが、けだし名言であると私は思ったものである。そして私は、松永さんのその言葉がそのまま彼には当てはまると思うのである。……異端は、稀人、貴種流謫のイメ―ジにも連なり、その先に浮かぶのは、プラトン主義を異端的に継承したミケランジェロではなく、むしろ世阿弥の存在に近いものをそこに視るのである。

 

……さて、その勅使川原さんであるが、東京・両国のシアタ―Xで、今月の7日.8日.9日の3日間、『ドロ―イングダンス「失われた線を求めて」』の公演を開催する。私は9日に拝見する事になっていて今からそれを愉しみにしているのである。また荻窪の彼の拠点であるダンスカンパニ―『アパラタス』では、勅使川原さんとのデュオや独演で、繊細さと鋭い刃の切っ先のような見事な表現を見せる佐東利穂子さんによる新作公演『告白の森』が、今月の21日から30日まで開催される予定である。そして11月から12月は1ヶ月以上、イタリア6都市を上演する欧州公演が始まる由。……私は最近はヴェネツィアやパリなどになかなか撮影に行く機会が無いが、一度もし機会が合えば、彼の地での公演を、正に水を得た観のある彼の地での公演を、ぜひ観たいと思っているのである。

 

 

 

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『Pensione Accademia―Venezia』

①オミクロンの猛威で人心が暗く鬱々としている昨今であるが、それを払うようなニュ―スが先日、海外から飛び込んで来た。樋口一葉、三島由紀夫、浅草十二階、永井荷風……等と並んで、このブログでも度々登場して頂いているダンスの勅使川原三郎氏が、ヴェネツィア・ビエンナ―レ・ダンス部門2022で金獅子賞を受賞という知らせが入って来たのである。氏の今までの実績や実力を考えれば当然と云えるが、やはりこれは快挙であろう。生前に親しくさせて頂いた池田満寿夫氏や棟方志功氏はヴェネツィア・ビエンナ―レ版画部門の国際大賞を受賞しているが、またそのお二人とは違った印象が、勅使川原氏のこの度の受賞にはある。たぶん、空間芸術のみの美術の領域と、勅使川原氏のように空間と時間軸を併せ持った表現との、それは違いであろうか。それとも同時代を生きている事の、それは違いででもあろうか。私はご縁があって、8年前から荻窪の『カラスアパラタス』で、氏と佐東利穂子さんによる絶妙な、そして毎回異なった実験性を追求した身体による美の顕在化、美の驚異的な詩的叙述を目撃して来たが、氏の、そして佐東さんとのデュオが如何なる高みまで登り詰めて行くのか、興味が尽きないものがある。

 

 

……勅使川原氏の金獅子賞受賞の知らせが入って来た時、まさに偶然であるが、アトリエの奥にしまってあった、初めてのヴェネツィア行の時、私が厳寒の冬のヴェネツィアで二週間ばかり滞在していたホテル―Pensione Accademiaのパンフが出て来たので、往時をまさに想いだし、次回の撮影の時はまた泊まろう!……と思っていた時であったのは面白い偶然である。運河に面したこのホテルは、もとロシア領事館だった建物で、庭に古雅を漂わせた彫刻が在り、何より部屋が広く、静かで、しかも安いという穴場のホテルなので、このブログの読者には、機会がある時はぜひにとお薦めしたい宿である。アカデミア橋近くに在る、須賀敦子さんが常宿にされていた『ホテル・アリ・アルボレッティ』も瀟洒で良いが、私がお薦めする宿は更に静かである。念のために住所を書いておこう。

 

 

1―30123 VENEZIA-Dorsoduro 1058-ITALIA

 

 

……私が最初にヴェネツィアを訪れた時(今から30年前)は、今のようなネット通信のない時だったので、住んでいたパリの部屋から電話で直に滞在の予約が簡単に出来、こちらの希望する条件も詳しく話せ、何より彼方のヴェネツィアからの肉声や空気感が伝わって来て、まさに旅の始まりといった趣があったものであるが…………。ヴェネツィアを訪れるならば、ぜひ冬の季節をお薦めしたい。……私はかつて『滞欧日記』なるものを書いているが、そこには次のようないささか古文調で書いた記述がある。「……1991年2月5日、薄雪の舞う中、夜半に巴里リヨン駅を立ち、一路ヴェネツィアへと向かう。深夜、雪その降る様いよいよ盛んなり。スイスの国境を越え、アドリア海へと至り、早朝にヴェネツィア・サンタルチア駅に着く。眼前に視る。薄雪を冠した正に現実が虚構の優位へと転じ、妖なるも白の劇場と化している様を。」

 

……またこうも書いている。「冬のヴェネツィアの荘厳さは、正にリラダン伯爵のダンディズムを想わせるものがあって実に良い。それに比べ、夏の真盛りのヴェネツィアは、腐敗を露にし、全身で媚びた娼婦のそれである」と。……これは今から想うに、私の好きな高柳重信の短詩「月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵」……から連想して書いたものであろう。とまれ、次回のヴェネツィア行は、冬のカルナヴァレの時に撮影に行き、フェルメ―ルが使用した暗箱を再現した器材を使って、原色の内に息づく狂気を引き出そうと思う。写真家の川田喜久治さんは、「ヴェネツィアでは、作品とするに足る写真を撮る事は実に難しい」と言われた事があるが、その至難の切り裂ける角度のまさぐりを、私は次回の撮影行の課題としているのである。

 

 

 

 

②昨日、東京都庭園美術館に行き、開催中の『奇想のモ―ド・装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』展を観た。……庭園美術館学芸員の神保京子さんからお年賀と一緒に展覧会のご招待状が届いたので、この日を愉しみにしていたのである。

 

 

 

 

 

神保さんは特にシュルレアリスムと写真の領域に深く通じ、東京都写真美術館の学芸員の時に企画された『川田喜久治―世界劇場』展はあくまでも唯美的で、かつ危ういまでの毒があり圧巻であった。今まで観た展覧会の中でも特筆すべき完成度の高さであったと記憶する。……その時に私は初めて川田さんと神保さんにお会いして以来であるから、思えばお二人とは永いお付き合いになる。川田さんの写真は、以前に北鎌倉の澁澤龍彦さんのお宅で写真集『聖なる世界』(1971年刊行)を拝見した時に端を発しているが、その重厚な深みある川田さんの表現世界を、神保さんは見事に展覧会としてプロデュ―スされ、その手腕とセンスの冴えは正に〈人物〉である。そして、今回の庭園美術館での切り口も、シュルレアリスムとモ―ドを融合し、そこに「狂気」「奇想」という芸術表現に元来必須なものを絡ませ、この展覧会を、最近稀に視る内容へと鮮やかに演出したものであった。

 

ダリ、マン・レイ、デュシャン、コ―ネル、エルンスト……など既に歴史に入って久しい彼らの作品が、モ―ドを切り口とする事で鮮やかに別相へと転じ、むしろその本質が浮かび上がって来ることに私は唸った。ある意味、それらは今日現在形の新作となるのである。……以前から私は、展覧会の企画の妙は比較文化的な視点で着想するか否かで決まると度々このブログでも書いているが、その事が正解である事を、この展覧会は見事に証しているのである。その事を示すように会場はたくさんの来館者で埋まり、盛況であった。

 

 

 

 

以前に練馬区立美術館で開催された『電線絵画展』の企画をされた学芸員の加藤陽介さんと、昨年末に美術館でお会いして、開催中の『小林清親展』(1月30日迄開催中)を拝見する前にお話ししたのであるが、「むしろ美術愛好者や来館者の方が、美術館の企画者よりも先をよんでいる」という、加藤さんの言葉には、企画者としての鋭い分析があると私は思った。……昨今、ネットによる情報化が進み、美術館不要論なるものまで出ているが、それはあまりに不毛なものがある。要は、馥郁とした、そして先を仕掛けるセンスを持った学芸員のいる美術館にはたくさんの人が訪れるのである。……人は、やはり現物が展示してある善き展覧会を、間近で観たいのである。……今回の図録に神保さんが興味深い論考を執筆されていて、私はそれも勉強になり、多くの示唆を頂いた。

 

……それにしても、今回の展覧会図録は実に造本が美しい。そう思って見ると、やはり青幻舎が作ったものであった。青幻舎の代表取締役へと、すっかり偉くなってしまった田中壮介氏は、私が編集人の第一人者として推す人であるが、京都に行かれてからもお元気なのであろうか?東京時代は青山にあった青幻舎に遊びに行き、お仕事の邪魔をしたものであったが、……氏とは何故か無性に話したくなる時がある不思議な人である。今度、京都に行く機会があるときは、ぜひ深夜まで話そうと思う。とっておきの怪談話などをしてみたいのである。……というわけで次回のブログは、泉鏡花の怪談夜話、祗園の芸妓が深夜に語ってくれた怪談実話、ヴェネツィアの今も現存する謎の舘の話などを……書く予定。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『かくもグロテスクなる二つの深淵 ― ゴヤ×川田喜久治』

ゴヤ

……ここ最近の私のブログは、イタリアやパリを舞台にした内容だったので、このコロナ禍で海外に行けないために、良い気分転換になって面白かった!というメールを何通か頂いた。とは言え私が書く旅の話は、善き人々にお薦め出来るような明るいガイドブックではなく、不思議な話や奇怪な話を扱った実体験、云わば『エウロ―ペの黒い地図』といったものであろうか (※エウロ―ペは「ヨ―ロッパ」の語源)。しかし、だからこそ面白いと人は言ってくれる。まぁ、それに気をよくした訳ではないが、今回はスペインからこのブログは始まる。

 

 

………………………………………………その時、私が乗った飛行機は南仏の上空を飛び、ピレネ―山脈を越え、一気にスペインへと入った。今まで緑の豊饒に充ちていた大地の色が、突然、荒涼とした赤へと一変する。「ピレネ―を越えたら、そこはもうヨ―ロッパではない」という言葉が頭を過る。眼下はもはやバルセロナである。

 

バルセロナ、……ここに来るには、1つの旅の主題というものを私は持っていた。この地に古くから伝わる呪文のような言葉「……バルセロナには今もなお、一匹の夢魔が逃れ潜んでいる。」という言葉の真意を掴む為に、ともかく現場を訪れなくては!という想いで、私はこの地に来たのであった。……ちなみに夢魔という特異な怪物は、深夜に女性の寝室に忍び入り関係を持つが、その女性が宿した子供は天才になる」という伝承がある。……参考までに『夢魔』という絵を描いた画家ヘンリー・フュ―スリ―の作品をあげておこう。

 

 

 

 

 

 

……美術史を俯瞰して観ると、スペインは特異な立ち位置にある。ルネサンスの影響やそれ以後の繋がりを絶って、謂わば単性生殖的にこの国からは、特異な美の表現者が輩出しているのである。ピカソダリミロガウディ ……。私は特異なその現象と、この呪文めいた言葉に何らかの関連を覚え、地勢学、地霊との絡みも合わせて、この現場の地で考えてみたかったのである。そして、その中心にガウディを配し、夢魔の潜み息づいている場所を暗いサグラダ・ファミリア贖罪聖堂に見立て、1ヶ月ばかりの時をバルセロナで過ごした。……結論はそれなりに出し、幾つかの文藝誌や自著の中にそれを書いた。しかし、私はあまりに近代から現代に焦点を絞り過ぎていた観があったようである。……アンドレ・マルロ―の秀逸な『ゴヤ論―サチュルヌ』の最終行「……かくして近代はここから始まる。」という暗示に充ちた一文を加えるべきであった。……それをマドリッドのプラド美術館に行き、ゴヤの『黒い絵』…画家が晩年に描いた14点からなる怪異と不条理と謎に充ちた連作を目の当たりにして、それを痛感したのであった。1つの極論を書くならば、ピカソ、ダリ、ミロ、ガウディ……といった画家のイマジネ―ションの原質は、ゴヤのそれから放射された様々な種子に過ぎなかったと、今にして私は思うのである。一例を挙げればピカソの『ゲルニカ』をゴヤの『黒い絵』の横に配せば、私の言わんとする事が瞭然とするであろう。その深度において『ゲルニカ』は、『黒い絵』に遠く及ばない。ダリ然り、ミロ然り、ガウディ然り……である。極論に響くかも知れないが、しかしゴヤの『黒い絵』の前に実際に立った人ならば、私の言わんとする事に首肯されるであろう。ゴヤを評して「……かくして、近代はここから始まる。」と書いたマルロ―の視座がプラドに到ってようやく実感出来たのである。ことほどさようにゴヤは重く、何より強度であり、そのメッセ―ジに込めた、この世の万象を「グロテスク」「妄」「不条理」とするその冷徹な眼差しは、近・現代を越えて遥か先、つまりこの世の終末までも透かし視ているのである。……私は、このプラドでの体験を経て、ゴヤが晩年の『黒い絵』と同時期に描いた、その主題が最も謎とされている銅版画集『妄―ロス・ディスパラ―ティス』のシリ―ズを欲しいと思った。しかし、他の版画はスペインにあっても、『妄』のシリ―ズは無かった。……そして先のブログで書いたパリのサンジェルマン・デ・プレに移って間もなく、私は近くにある版画商の店で、まるで導きのようにして『妄』の連作版画の内の七点を購入したのであった。私はゴヤの凄さと、その深度を知ってからは、数年間は熱に浮かされたようなものであった。……しかし、現代の表現者の中に、しかもこの日本で、その遺伝子と言おうか、ゴヤに通じる存在を知ったのは、これもまた導きであろうか。……その存在こそが、写真術師―川田喜久治氏なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川田喜久治

……写真術師・川田喜久治氏の事を知ったのは、北鎌倉にある澁澤龍彦氏の書斎であった。私は氏の写真集『聖なる世界』に初めて接し、その深い黒のマチエ―ルに驚嘆し、かつて私も訪れた事のある、ボマルツォの怪異な庭園や、このブログでも書いたイゾラ・ベッラの奇想なバロックの世界の危うさと妖しさ、それらが深部に精神の歪んだグロテスクの相を帯びて、写真集の中に見事に封印されているその様に、言葉を失った。そして、写真という妖かしの術が持つ可能性の一つの極をそこに視たと直観した。

 

それ以前には、暗黒舞踏の創始者―土方巽を被写体にした細江英公氏の写真集『鎌鼬』を第一に推していた私であったが、川田氏の『聖なる世界』は、それを揺るがすに十分な強度と艶を持って現れたのである。……写真集『鎌鼬』は、種村季弘氏の紹介で面識のあった土方巽夫人の元藤燁子さんから初版本を頂いており、私は帰宅してから『鎌鼬』を開き、その日に目撃した川田喜久治氏の作品との異なる黒について想い、幾つかの考えが去来した。

 

……川田喜久治氏の写真作品を強引ではあるが一言で言えば、ポジ(陽画)にして、その内実に孕んでいるのはネガ(陰画)で立ち上がる世界であると言えようか。誰しも経験があるかと思うが、白黒が反転したネガフィルムに映っている世界は何故あのように不気味なのであろうか。見知っている親しい筈の家族も不気味、風景も、群像もみな不気味である。ある日、私は川田氏にその話をした事があった。……想うに、世界の実相とはあの不気味さに充ちた世界(まさに異界)であり、光は、世界のその実相を隠す為に実は在るのではないか?……という話である。

 

……さて、その川田喜久治氏の個展が今、東麻布の写真ギャラリー『PGI』で、まさに開催中(4月10日迄)である。タイトルは『エンドレスマップ』。……先日、私は拝見したのであるが、このコロナ禍の時期を背景にして観る氏の作品は、正に光によって刻まれた黙示録、しかも、様々なプリント法を試みた実験の現場としても画廊は化している。個展のパンフに記された川田氏の文章「………それぞれのプリントから表情や話法のちがいを感じながら、魂の震えに立ち止まることがあった。寓話になろうとする光も時も、共鳴する心と増殖を始めていたのだ。いま、寓話の中の幻影は、顔のない謎へと移ってゆく。」

 

……この自作への鋭い認識を直に映した、今、唯一お薦めしたい貴重な展覧会である。

 

 

 

川田喜久治作品展『エンドレスマップ』

会期2021年1月20日(木)―4月10日(土)

日・祝休館 入場無料

11時~18時

会場・『PGI』東京都港区東麻布2―3―4 TKBビル3F

TEL 03―5114―7935

 

日比谷線・神谷町駅2番出口から徒歩10分

大江戸線・赤羽橋駅から徒歩5分

南北線・麻布十番駅からも可能。

 

 

 

 

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『Isola Bellaの白い孔雀』

この度のコロナ騒動で具体的に判明した事が一つある。それは、世界とはすなわち私達個々の内なる幻想・幻影の映しに他ならず、世界はあたかも回り舞台に描かれた下手くそな書き割りの絵、茶番、虚像で成り立っているという事である。世界はかくも脆く、故に夢見のように儚い悲喜劇とせつなさに充ちている。このせつなさの先に、詩人の西脇順三郎が云ったポエジ―と諧謔が在り、この世を全て移動サ―カスと見れば、フェリ―ニの詩情に充ちた映像のように俯瞰的に面白く、妙味を持って世界が裏側(繕いだらけの張りぼて)から見えて来る。……少なくとも世界とはそのように私には映っている。……ならば、窮屈な今を離れて、少し前の旅の記憶について今日は書こうと思い立った。

 

……今から30年前、1年間の間であったが、ゆっくりとヨ―ロッパを巡る旅に出た事があった。旅の前半の拠点はパリであったが、その間にスペイン、イタリア、オランダ、ベルギ―……と廻り、後半は拠点をロンドンに移し、ミステリ―の生まれた舞台…暗い霧の中に在って、ひたすらイメ―ジの充電に浸る日々であった。……その様々な旅の記憶の中で、今日のブログに書きたいのは、ミラノからスイスへと行く途中にあるマジョ―レ湖の事である。今の渇いた殺風景な日本から、せめてイメ―ジを翔ばすには、たっぷりと水気を含んだ広大な湖こそ相応しい。

 

 

 

 

マジョ―レ湖へと私を導いたのは2冊の本(ゲ―テの『イタリア紀行』と澁澤龍彦の『ヨ―ロッパの乳房』)であった。ミラノからスイスに向かう列車に一時間ばかり乗り、ストレ―ザという駅で下車。緩い坂道を下って行くと正面に「珠玉の美しさ」と云われた広大な湖が見えて来る。その湖畔には、夢の中にでも出てきそうな巨大なホテル「グランドホテル・ディ・イル・ボロメ」(画像掲載)が在る。ヘミングウェイがこのホテルに泊まり『武器よさらば』を執筆した場所としても、ここは知られている。

 

 

 

 

湖畔に来ると数艘のモ―タ―ボ―トがあり、中央に見えるイゾラ・ベッラ島、また近くの島を廻る旅人の為に漁師たちが舟を動かすのである。……メインであるイゾラ・ベッラ島は、今もミラノに住む貴族・ボッロメオ家の所有であるが、かつてナポレオンも泊まったという巨大な宮殿は見学が可能であり、夥しい数の貝殻で造られたグロッタの部屋や、庭に出ると真昼時の光を浴びた広大なバロックの庭園や、頂上の高みに白い一角獣を配した彫像群が在り、雪をいだいた連峰を遠くにみるマジョ―レの湖面に映えて美しい。

 

……私は、この島のレストランから郵便が出せる事を知り、澁澤龍彦夫人の龍子さんに昔のマジョ―レ湖を撮した葉書に感動のままに文字を書いた。……「澁澤氏の『ヨ―ロッパの乳房』の描写のままに実景もまたあまりに美しく、氏の文が誇張なく綴られた、誠に1篇の詩である事を痛感しました。私はここに来て、実景と文章における距離の計り方を知り、何かを掴んだように思います。この経験は得難いものとなりました。必ずや帰国してから活きると思います。明日、またミラノに戻ります。」……記憶では、およそ、そのような内容の手紙であったかと思う。……帰国してから活きる、この予感は当たり、文藝誌の『新潮』に書いた、フェルメ―ル論やピカソ・ダリ・デュシャンを絡めた書き下ろしの中編をはじめ、文章を書く機会が多くなっていくのであるが、私はこの島での僅かな滞在ではあったが、何かエスプリと艶のごときものを掌中に収め獲た旅となった。

 

……さて、このイゾラ・ベッラ島には、この島の美しさを具現化したような白い孔雀がバロックの庭に優雅に遊び、私をして非現実の世界へと軽やかに誘った。……今、この孔雀の事を思い出しながら、このブログを書いているのであるが、その意識とは別に、先ほどから脳の中の何処からか突き上げてくるものがあり、たちまちそれは四行の短い詩文となったので、忘れないうちにこのブログの中に記しておこう。

「イゾラベッラの白い孔雀は/真夜中にその羽を広げる。/マジョ―レの湖面に/幻の満月を映すように。」

……オブジェの制作の時も同じであるが、それ(イメ―ジの胚種)は、向こうから突然やって来て、私はそれをあたかも釣り上げるようにして立ちあげるのである。今、マジョ―レ湖の旅の記憶を思い出すままに書いていると、突然、詩が出来上がったのであるが、〈旅人〉〈その記憶〉という立ち位置は、何か自在に表現へと向かわせるものがあるようである。とまれ、この度のコロナ騒動が収まったら、このマジョ―レ湖とイゾラ・ベッラ島への旅は、ぜひお薦めしたい旅なのである。……次回は、パリ編のモンマルトル墓地で私が体験した非現実的な話を書きたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、以前から予告していた私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が沖積舎から刊行された。11月の高島屋の美術画廊Xでの個展が好評のうちに終わるや、すぐに頭を切り換えて、オブジェの作り手から言葉の人となり、12月の末には最後の詩の原稿を書き上げた。1月初めに社主の沖山隆久さんに原稿を渡し、その月末に詩集は完成したのである。恐るべきその速さ!……私も沖山さんも生き急いでいるのである。詩集は550部の限定出版であり、既に多くの詩人や、また私の関係者の方に献呈した為に、詩集の残部は早くも残り90冊を切ってしまった。

 

……かつての中原中也や宮沢賢治が行った詩集の販売方法を受け継ぐわけではないが、購入をご希望される方は、3000円(内訳・詩集価格2750円〈税込み)+送料込み)を、現金書留で下記の私の住所にお送り頂けると、詩集の見開き頁にその方のお名前を銀で直筆して日付を書き込み、お手元にお送りします。……なお、安全と確実さを期したいので、文字は崩し書きでなく読める形、また万が一の不明文字の確認の為に電話番号の記載をよろしくお願いいたします。

 

現金書留の送り先: 〒222―0023 横浜市港北区仲手原1―21―17 北川健次
なお、販売部数が少ない為に完売・絶版になりましたら現金書留は返却致します。また、完売のお知らせは、すぐにこのブログでお知らせします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『加納光於展・開催さる』

先日の14日、鎌倉近代美術館で開催中の加納光於展のオープニングに出掛けた。加納さん、名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美術家の中西夏之さん、深夜叢書の齋藤愼爾さん、美学の谷川渥さん、そして詩人の阿部日奈子さん他、久しぶりにお会いする方々が数多く訪れていた。

 

中でも中西夏之さんとお会いするのは澁澤龍彦氏の何周期目かの法事の時以来であるから、何年ぶりであろうか。その時は、北鎌倉は雨であった。皆がそぞろに寺へと向かう中、私と中西さんは相合い傘でその列を歩いていた。途中、話が中西さんの銅版画の近作に及び、私はこの20才年上の天才に苦言を申し上げた。「・・・あの作品に使ったアクアチント(松脂の粒)の粒子をもっと細かくして、薄い硝酸液で時間をかけてゆっくりと腐食して,インクにもう少し青系を加えれば、側面から濡れた叙情性が入り、主題と絡まって、版画史に残る名作になる筈でしたが、何故乾いた作品にしてしまったのでしょうか!?」という問いである。すると中西さんは「・・・その事は刷った後で気付きました」と語った。あぁ、中西さんもやはり気付いていたのか。・・・そう思いながら、私たちは次の話題に移っていった。

 

・・・ふと見ると、前を歩いていた人達が見えない。中西さんは論客である。私もよくしゃべる。話にお互いがのめり込んでいて、私たちは迷ってしまい、東慶寺が見えたので、その門に入り、奥へと入って行った。・・・いつしか雨が止んで、蝉しぐれがかまびすしい。しかし、・・・人影はまるで無い。中西さんが静かに一言、「私たちはどうやら、行くべき寺を間違えてしまったようですね。」・・・私たちは来た道を戻り、あてもなく歩いていると浄智寺の門が見えた。おぉ、そうだった!!・・・澁澤さんの墓はここに在るのであった。既に法事が始まっていて、皆、厳粛な顔をしている。遅れた私たちにコラージュ作家の野中ユリさんが、「遅いわねぇ、何処に行っていたのよ!!」と、真顔で叱られてしまった。話は戻るが、個人的な意見を更に述べさせて頂ければ、私はもっと中西さんに、独自の版画思考(手袋の表裏を返したような反転の思考)で、もっと版画(特に銅板画)を作って欲しかったと、つねづね思っている。この国の版画家たちにあきらかに欠けているのは、知性、ポエジー、エスプリ、独自性、・・・つまり表現に必要なその一切の欠如であるが、先を行く先達として、荒川修作、加納光於、若林奮・・・といった各々の独自性の中に、中西さんの版画の独自性が特異な位置としてあれば、よほど興があり、又、中西さんの表現世界も、より厚みが増したであろう。

 

まだ美大の学生の時に、当時の館長であった土方定一氏に呼ばれてこの鎌倉近代美術館を訪れたのが初めてであったが、その頃のこの美術館は、土方さんの力もあって、海外の秀れた作品が見れる企画が続いて活況を呈していたものであるが、今は老朽化が激しい。驚いた事に、鎌倉に長く住んでおられる加納さんの個展は初めてとの由。十年前に見た愛知県立美術館での加納さんの個展は充実していたが、今回は展示に今一つの工夫とセンスの冴えが欲しかった。展示はそれ自体がひとつの加納光於論であり、解釈であらねばならない。特に加納さんのオブジェは私とは異なり、素材へのフェティッシュなまでの想いの強さは無く、無機的。一緒に作品を見ていて美学の谷川渥さんとも話したのであるが、加納さんの作品には、そこに実質としての主体が無く、ありていに言えば、『アララットの船あるいは空の蜜』に代表されるように、それは観念の具であり、何ものかが投影された、それは影でしかない。その影としてのありように、加納さん独自の知性とポエジーの冴えがあり、作品は云はば主語捜しの謎掛けである。しかし、展示の仕方が、あまりにも無機的な、博物館のようで今一つの工夫が見られなかったために、無機的なものが相乗して、「見る事とは何か!?」というアニマが立っておらず、又、「間」を入れたスリリングな興が立たず、それに会場は寸切れのように狭く、ともかくも残念に思った次第である。美術館は葉山の方に一本化されて移るらしいが、色彩にこだわっておられる加納さんの展示は、むしろ明るい葉山でこそ開催されるべきではなかっただろうか!!

 

加納さんと私の資質の違いを示す話を書こう。・・・・・・以前に横須賀線の電車で、加納さんと私は同じ横浜方面へと向かう為に席に座って話をしていた。すると突然、加納さんは私に「あなたは、作品に秘めた本当の想いが他者に知られては、たまるかという想いはありませんか・・・?」と問うてきた。私は閃きのままに、次なる構想が立ち上がると、それをガンガンと人にも伝える。果たして、後にそれを本当に作るかどうかは不明であるが、とにかく言葉が、未だ見えないイメージを代弁するかのように突き上げて出るのである。その私を以前から見ていて、加納さんは遂に問われたのであろう。そして私は返答した。「全開にして語っても、なお残る謎が私の作品にはあります。それが私の作品の真の主題です」と。加納さんは寡黙の人。私は◯◯である。

 

この御二人の先達に、私は各々の時期において少なからぬ影響を受けて来たものである。そして御二人の作品も私はコレクションしている。中西さんのオリジナル作品『顔を吊す双曲線』を私が所有している事を中西さんに告げると、とても嬉しそうな表情を浮かべられ、私もまた嬉しかった。この作品は今もなお、私に対して挑戦的であり、私がこの作品の前に立つ時は、手に刀を持っているような感覚を今も覚えてしまうのである。・・・・とまれ、加納光於展は始まったばかり。源平池を眺めながら、古都鎌倉の秋にしばし浸るには、ちょうど良い時期ではないだろうか。

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『プラトリーノの遠い夏』

曇っているが蒸し暑い。じめじめした不快な夏が続いている。こういう時は、カラッと晴れた事を書こう。イタリアの七月の遠い日の事を書こう。

 

澁澤龍彦の『滞欧日記』(河出書房)を開くと、1981年7月15日の日付のある日には次のような一文がある。「・・・プラトリーノ荘の場所を万知子に聞いてもらったら、直ぐわかったので、さっそく車で行く。ボローニャ方面へ行く道で、山道にさしかかる。いい所だ。道にPratolinoの標識あり。道の右側に大きな門。運転手が番人を呼んで説明するが駄目らしい。チップを渡そうとしたが受け取らない。どうにも仕方がない。門だけ開けてくれて、ここから500メートルほど行ったところに巨像があるという。塀のくずれたところから広大な庭を覗き込むが、巨像らしきものは見えない。おそらく鬱蒼たる杉の林の中に隠れているのであろう。坂斉君の望遠レンズでのぞいてみたが、やはり見えない。・・・・・」

 

ここで澁澤が書いているプラトリーノ荘とは、フィレンツェの北方12キロほどにある旧メディチ家の別荘の一つ(20近くあった内の)である。そこに在る巨像とは「アベニンの巨人像」の事であり、イタリア半島の脊梁ともいうべきアベニン山脈を巨人に見立てたもの。ちなみにかのミケランジェロのイメージの中に巨人幻想のイメージがあるが、それはこの像を彼が見た事に拠るという。おそらく澁澤が訪れた日は閉園日であったのであろう。

 

私がそこを訪れたのは、澁澤の時から丁度10年後の奇しくも同じ7月15日の午後であった。広大な庭の中にメディチ家の壮麗な館が在り、杉林の中を行くと、やがて、とてつもなく大きな巨人像が見えて来た。しかし途中から立入り禁止の不粋な柵があり、2、30人ほどの観光客がうらめしげに巨人像を遠望している。見ると、巡察のパトカーが近くにあり、銃を持った二人の警官がまさに乗り込むところであった。ものものしい雰囲気の中、パトカーがゆっくりと動き始めた。人々がそれを目で追っている。私は柵の所から人々と同じように巨人像を眺めていたが、頭にふと閃くものがあった。(・・・今、パトカーが去って行ったという事は、・・・おそらくは30分間くらいはこの広大な敷地の中を巡るのであろう。・・・と、すれば、今こそはまさに好機ではあるまいか!!)

 

私は意を決して柵を乗り越え、その巨人像を目指して歩き始めた。背後に人々の驚きの声が聞こえるが、もはやそれは私の意の外である。真下に来て像を仰ぎ見ると、思った以上の大きさ、身震いする程の威圧感が私に降り注いでくる。500年以上前に作られたこの強度なイマジネーション。像の台座となっている巨岩の背後に廻ると、そこに小さな洞があった。察するに、かつてその暗がりの中に小舟を浮かべたルネサンスの貴婦人たちが恋人たちと共にそこから眼前の大きな池へと、優雅に滑り出して行ったのであろう。私はその暗い洞へと入った。するとひんやりとした冷気が私を包み、私は彼らと同化するようにして、ルネサンスの時の中へと遊ぶ想いがしたのであった。そこには不思議な気をもった風が吹いていた。

 

館の中を巡り、私は杉の林立する庭を歩いた。すると草むらの中に一枚のカードが落ちているのが目に入った。拾い上げると、真っ赤な色でAの文字が刷られている。その瞬間、まさに一瞬で作品のインスピレーションが立ち上がった。そして私は、その作品(オブジェ)に、その時から400年以上も前にこの場所を初めて訪れた日本人ー 天正遺欧使節と呼ばれた四人の少年たちのイメージを注ぎ入れようと思った。少年たちの名は、伊東マンショ千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルチノ。そう、後に悲劇が彼らに待ち受けている事も知らずに、かつてこの地の全ての光景に目を輝かせた無垢な魂にフォルムを与えようと思った。そして、そこに今一人の少年である私を加え、その時間の時の長さの中にポエジーを入れようと、その場でたちまち閃いたのであった。タイトルは『プラトリーノの計測される幼年』にしよう。そしてイメージの立ち上げの初めに先ずは、このAの文字の記されたカードを、そのオブジェに入れようと思った。その夏の日から半年後に私は帰国して、その時の閃きのままにオブジェを作った。その作品は、今は福井県立美術館の収蔵となっている。

 

暑い夏が訪れる度に、私はそのプラトリーノの夏を思い出す。そして、まるで導きの恩寵のように、何故か場違いな場所に落ちていたAの文字の記されたカードの不思議について、私は遠い感慨に耽るのである。

 

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『澁澤龍彦』

28日の夕方に北鎌倉で美術評論家の中村隆夫氏と同行の方々と待ち合わせて澁澤龍彦邸を訪うた。20数年前に初めてお伺いしてからおよそ5回目くらいの訪問になろうか。既に澁澤氏はおられぬが、奥様の龍子さんの美味しい手料理とワインを頂き、尽きない会話が続いて、けっきょく辞去したのは夜半であった。

 

かつて一度だけ澁澤氏とは銀座のバルハラデンというお店でお会いしているが、その時に見たダンディズムの極の姿は私の目に焼き付いていて離れない。二人だけの至福の時を邪魔するように入って来たのは岡本太郎であった。澁澤氏は全く岡本太郎を無視して悠然とパイプの煙をくゆらしていたが、無視された方の岡本太郎の虚ろな姿は、この男特有の自意識を根こそぎ折られたようで、彼の仮面の奥の脆い素顔を見た思いがした。内実、最も認めて欲しい人物から完全に拒否された時、人は時として、そのような表情を不覚にも露呈してしまう。

 

私が20年前に1年間ヨーロッパを廻っている時に携えていたカバンの中には、いつも澁澤氏の著書『ヨーロッパの乳房』が入っていた。そして氏が訪れたスペインのグラナダやセビリヤ・・・・、イタリアのローマや、ミラノの北にあるイゾラ・ベッラ島などに行った折りには、氏の本を開いてその描写を読み、眼前の実景と比べては、氏のエッセンスを我が物とすべく、それなりの修行のような事をした事があった。私はそれを通して眼前の奥にある「今一つの物」をつかみとる術を、それなりに掌中に収めていったように思われる。

 

夥しい数の書物に囲まれた澁澤氏の書斎は、今も研ぎ澄まされたような気韻を放って、あくまでも静かである。机上の鉛筆削り器には、削られた木屑がびっしりと詰まったままであるのを私も中村氏も共に気付いたが、そこから龍子さんの澁澤氏への想いが伝わってきて胸を打つ。この空間は今でもふらりと澁澤氏が現れて執筆をはじめても自然なくらいに、時間が永遠に止まったままなのである。かくも超然とした絶対空間。高い知性と鋭い眼識によって万象を巨視と微視との複眼で捉え得た稀人の牙城。ここにはサドの直筆の手紙や、外国で求めた硬質なオブジェ、それに危うい種々の物と共に、四谷シモン、加納光於、金子国義中西夏之池田満寿夫加山又造たちの版画がある。若輩ながら私の版画もここには在るが、それらを眺めていると、澁澤氏は版画の中でもよほど銅版画が好きであった事が見てとれる。明晰さと硬質さは氏の資質を映したものであるが、それは銅版画の本質と相通じるものがあるように私には思われる。

 

昨今の文学者や美術家はプロとして食べていくのが難しい為に、大学教授などに安定の道を求め、結局時間に追われ(たという理由で)感性の鋭さを失っている。しかし、この館の主である澁澤氏は見事に筆一本で人生を全うし、その死後には珠玉のような全集が残り、今もそしてこれからも若い世代たちにも影響を与え続けながら読み継がれている。私も何とか筆一本で今まで生きて来たが、氏の生き様は誠に範であり、力強い精神的な支柱である。かつて澁澤氏は自分の性格の最も好きな部分は何かと問われた際に、「自信」と答えている。私の答もまた同じである。「自信」ー これなくして芸術の闇に入っていく事などおよそ不可能な事であろう。夜半になり、書斎から庭を見ると、この高台からはその向こうに鵺(ぬえ)が横行しているような闇が広がり、彼方の山すそには澁澤氏が眠っている浄智寺の墓所が遠望できる。それらの全てに真っ暗な夜の帳りが下りて、いつしか鎌倉の夜は深い静まりの中にあった。

 

 

 

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『個展始まる。』

日本橋高島屋本店6階の美術画廊Xで私の個展『密室論 – ブレンタ運河沿いの鳥籠の見える部屋で』が始まった(11月19日まで)。美術画廊Xでの個展は今回で四回目。作品総数80点以上から成る大規模な個展である。この画廊は広いので、毎回、入り口にテーマに沿ったディスプレーの展示をする。今回は掲載したとおり白木の窓の中に、石にプリントしたダ・ヴィンチの衣装のデッサン、定規などを構成した。

 

展示の中心は、コラージュ作品である。このコラージュという方法論の祖はシュルレアリスムの画家マックス・エルンストをその始まりに見る人は多いが、さにあらず、実はわが国の扇面図屏風に既にその祖が見てとれる。しかし、コラージュという技法は美術の分野に在って、妙にその立ち位置が定かではない。今まで、野中ユリさんをはじめとして試みる人は多かったが、澁澤龍彦のテクストなど・・文学者の文章に共存する形が多かった。つまり一点で自立した完成度を持つコラージュ作品がほとんどわが国では皆無であったのである。今回、気概のある私は真正面から御するようにして、この技法に挑んだ。その結果はご覧になって判断して頂くしかないが、評判は上々で、展覧会としての手応えはかなり強く伝わってくる。その手応えの例として、たとえば初日に御一人で6点の作品(コラージュ・オブジェ・版画など)をコレクションとして求められた方がおられ、私を驚かせた。前回この画廊で作品をご覧になられた方々は、一変して全く別なイメージ空間が広がっている事に驚かれているが、展覧会を、或る期間に限定して開示された解体劇と考えている私にとっては当然の事である。そして、作家の多くの個展が、前回と同じワンパターンと堕していることへの私なりの批判もある。やはり表現者は常に変化し、更なる新たなイメージの領土を深めながら次々と開拓していくべきではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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