月別アーカイブ: 8月 2012

『謎の少女 – 上野に来たる!!』

東京都美術館で開催中の『マウリッツハイス美術館展』が盛況のようである。もちろん目玉作品はフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』。時を隔てて語りかけてくる少女の物言いたげな視線の謎に引かれて長蛇の列が続いている。しかし会場を訪れた友人の話によると、絵の前で止まってはいけないために、その少女を眺められるのはほんの一瞬でしかないとの事。40年前の『モナ・リザ展』の時と同じである。『モナ・リザ展』の時も見れるのは約3秒。しかしその時私は15分くらい見続ける事が出来た。何故出来たのか?それは列から一歩下がってそこに立ち止まって見たのである。しかしそこには警備員がいて注意を促しているのであるが、彼はそれを私にしなかった。〈北川の、あの刺すような目は、この世を見ている目ではない〉- そう陰口を言われた私の眼差しが警備員を静かにさせたのである。しかしさすがに今回は通じないであろう。人間的に丸くなってしまったために目つきも優しくなってしまったように思われるのである。まぁそれは冗談として、私は今回は行かない事に決めた。昔日にハーグで見た時の、夢見のような記憶を大切にしたかったのである。

 

今日のフェルメールの異常な人気に火がついたのは、1996年にハーグのマウリッツハイス美術館で開催された「ヨハネス・フェルメール展」が契機である。フェルメールの全作品(三十六点ぐらい)の内、二十三点が一堂に展示され、実に45万人が訪れた。一日に計算して約5000人、それが世界中から巡礼のように訪れた事になる。私がハーグの美術館を訪れたのはその5年前。その頃はフェルメールは全くブームになっていなかった為に、今では信じ難い事であるが、私は『真珠の耳飾りの少女』と『デルフトの眺望』のある部屋で、まるでそれらを私物化するようにしてじっくりと間近で見ながら、午前の静かな時を恩籠のように過ごす事が出来たのであった。

 

その時の体験は三月に刊行した拙著『絵画の迷宮』の中のフェルメール論『デルフトの暗い部屋』に詳しく書いたが、私が画家の生地であるデルフトやハーグ行きを思い立ったのには一つの理由(旅のテーマ)があった。それは、レンブラントフェルメールゴッホモンドリアンエッシャー等オランダの画家が何故に時代や様式を超えて〈光への過剰反応〉を共に呈しているのであるか!? –  その自問を解いてみたかったのである。そして、そのキーワード的存在としてフェルメールが要に在ったのである。

 

マルセル・プルーストが〈世界で最も美しい絵画〉と評した『デルフトの眺望』、そして『真珠の耳飾りの少女』。それは確かに顔料を亜麻仁油で溶いた絵具にしかすぎない〈物〉ではあるが、かくも視覚のマジックを通して、そこに永遠性の確かな宿りが現実に在るのを見るに及んで、私の表現者としての覚悟は、そのフェルメールの部屋で固まったといえるであろう。マチスの言葉 – 視覚を通した豪奢・静謐・逸楽の顕在化を自らの作品に課す事を、私はそのフェルメールの部屋で決めたのである。その部屋で、「美とは、毒の一様態としての表象である。」「二元論」「矛盾した二相の重なり」「物象としての光」「神性を帯びた光」・・・・などとブツブツつぶやきながら、次第にフェルメールに最も近い存在として浮かんで来たのは「エチカ」の著者であるスピノザであった。スピノザの「遍在して神は宿る」の考えを視覚的に表現したのがフェルメールの絵画の実質である。私は、そう結論づけ、そして私はフェルメールの絵を評するものとして、「汎神論的絵画」という言葉を思い立ち、私の自問はその時に全て解いたのであった。その意味でも私のオランダ行の旅は表現者として得る物の多い旅であったといえよう。本物の絵画に触れる事は一種の聖地巡礼のようなものである。会するのは、絵を通してのもう一人の自分である。そこに介する作品はカノンであり、澄んだ鏡である。だから、ことフェルメールに限っては少なくとも私は、喧噪の中で見ようとは思わないのである。

 

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『永遠の少年 – レイ・ブラッドベリ』

SF界の巨匠レイ・ブラッドベリが亡くなった。九十歳を過ぎて尚も新作を書き続けて生涯現役を貫いた驚異の人である。ブラッドベリの世界を愛する日本人ファンも多く、翻訳書がかなり出ているが、私は『黒いカーニバル』という短編集が最も好きである。ブラッドベリはSF作家である以前に本質的に詩人であった。だから翻訳者にも高い能力が要求されるが、私はわけても伊藤典夫氏の訳が好きである。『黒いカーニバル』所収の中でも「みずうみ」「ほほえむ人びと」などは最も惹かれた作品であるが、「みずうみ」などは言葉による時間転移の巧みさにおいて、ある意味で川端康成を超えるものがあるのではあるまいか。—– 私はそれ程に「みずうみ」を評価し、折に触れ再読を重ねて来た。

 

ブラッドベリとの出会いは20歳の頃、つまり私が銅版画を作り始めた頃であった。私はその瑞々しい表現世界に潜むイノセントが孕む毒に影響を受け、それを銅版画に取り入れる事を試行した。三島とボードレールからの影響で「午後」という作品は生まれたが、ブラッドベリの「ほほえむ人びと」は、私に「微笑む家族」という作品を作らせた。この作品は、当時の日本の美術界を引っ張っていた美術評論家・土方定一氏の目にとまり、氏が館長を勤めていた神奈川県立近代美術館の収蔵に入った。銅版画を始めて二作目の作品が早くも評価された事で、私は銅版画への自信を一気に深めたわけであるが、それもブラッドベリのおかげである。ブラッドベリの感性の中には、年を取らない「永遠の少年」が最後まで住んでいたが、ピカソが残した言葉「芸術とは幼年期の秘密の部分に属するものの謂である」にならえば、ブラッドベリもまた言葉の正しい意味での真の芸術家であったといえよう。

 

或る時、私は間近に迫った個展の為にオブジェを制作していて、ふと無性にレイ・ブラッドベリへのオマージュを作りたい衝動が立ち上がって来た。私には度々ある事であるが、突然、イメージが向こうからやって来るのである。そして気がつくと僅か三十分程で一点のコラージュが出来上がっていた。・・・ビリヤード台のような物の上に配された小さな村の縮図。それだけで「物語」の舞台は出来上がっているのであるが、私はその背景に巨大な半円状の天球図を配し、手前に不気味に浮遊する不可解な小物体を暗示的に配した。私はその作品を個展に出品はしたが、展覧会の主題とは外れた私的な作品の為に、もし購入者がいなくても自分のアトリエに掛けようと思っていた。内心、とても気に入っていたのである。しかしその作品は個展二日目に早々と売れてしまったのであった。購入されたのは、以前から私の作品を度々コレクションされているN氏。N氏は仏文学者でジャン・ジュネなどの優れた翻訳でも知られる人である。伺うとN氏もまたブラッドベリのファンとの由。この作品はN氏の書斎にピタリと収まるに相違ない。そう思うと、私はこの作品がN氏にコレクションされる事の必然を直感して無性に嬉しくなってきた。作品のタイトルにブラッドベリの名を入れていた事もあってか、N氏は作品を見た瞬間に、自らの想うブラッドベリの世界と作品が一瞬で結び付いたとの事。ブラッドベリを介して私とN氏の感性がこの瞬間に直結したのである。

 

レイ・ブラッドベリは亡くなったが、しかし氏の残した珠玉のような数々の作品は、その瑞々しいイメージの深度と独自性ゆえに、次代の人々にも読み継がれていくであろう。そして私もまた折を見ては再読を死ぬまで重ねていくであろう。レイ・ブラッドベリを読む事、それは私にとって表現者になることを志した時の初心に帰る事なのである。〈 詩人レイ・ブラッドベリの魂よ永遠なれ。〉

 

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『狂育の現場は今・・・・』

大津の中学生が悪質ないじめが原因で自殺した。マスコミが思っていた以上に繰り返し報道した事で火は燃え盛り、煙の中から飛び出して来たのは、困惑顔で迂闊さを演じ、詭弁を弄して保身に徹する教育委員会のトップと校長の、何とも人間性の欠落した姿であった。勿論これは氷山の一角にすぎず、全国の小・中・高校に遍在した病巣の根は深い。新聞などを読むと「生きろ!!」をテーマにして、識者たちが生きる事の豊かさについて年少者に呼びかけているが、その声は実際には届いていないのが実情であろう。昨今のいじめは昔と違い、文部科学省が定めた劣悪な採点制度により、事無きをもって諒とする事なかれ主義が蔓延し、教師が仕事に情熱を無くした事がその根底に一因として大きくある事は誰もが気付いている事である。その根本的な原因を廃止して改めなければ、大津の(もはや刑事事件といっていい)悲劇は繰り返されていくであろう事は間違いない。

 

しかしそれにしても、昨今の子供達は何故かくも脆くなってしまったのだろうか。いじめから自殺へと直結する発想など、昔は全く無かったと記憶する。古い話になるが、私が中学生の頃は「原爆」というあだ名の怒声天を突くような教師、元憲兵の書道教師、真珠湾奇襲に加わった美術教師などがぞろぞろといて、結果として良い意味での緊張感があった。その中でも勿論いじめはあったが、各人がそれなりに自分でその状況を突破してきたように思う。私も例外ではない。病弱な為に、朝は病院に寄ってから通学していた私に執拗な暴力をふるってくる者がいた。さすがに私は考え、攻めてくる隙をねらって足技をかけ、相手を壁側に押し倒す作戦を立て、そして実行した。「まさか!?」の油断で相手は頭をしたたかに強打し、保健室に運ばれた。以来いじめは無くなった。その相手と、昨年の同窓会で酒を飲んでいるのだから、人生はわからない。

 

私の日課は、朝の9時にアトリエの前の図書館に行く事から始まる。ここで新聞を読むのである。それは神奈川版の新聞であるが、毎日のように性犯罪の記事が載っている。そして犯人の職業のトップが〈教師〉である事に最近私は気がついた。地方版でそうならば、それは全国に比例して教師の性犯罪が多発している事になる。彼らは教師になる時に人生の安定設計図を立てた筈に相違ない。〈仕事のストレス〉が原因であると自白の際に語っているが、それが許される理由には勿論ならず、その多くが免職になっている。もう少し待てば定年。それがわかっていても暴発する程に、教師もまた追い詰められているのか・・・!?それに加えて、教師の登校拒否、さらにうつ病までを発症しているケースも多いという。私は大学4年時に教員試験を受けて高校に採用が決まったが、結局その安定の道を蹴って、不安定な作家の道の方を選んだ。プロになれる保証など勿論無いが、教師の職に就かなかった理由は唯一つ、子供達の作品に点数をつけて評価を下さなければならないという実におかしな制度に対し、自分が妥協していけないと思ったからである。二十歳頃に自分で決めた人生の選択であるが、つくづく教師にならなくて良かったと思う。その頃の眼前の〈安定〉は確かに魅力的に映りはしたが、妥協してそれを選んでいたら、今の私の眼は虚ろな洞となり、ぽんかんと街を彷徨していたに相違ない。それ程に今の教育における、平穏を装うための採点制度(注:この制度は上記した生徒への採点ではなく、学校および教師に対して設けられた五段階制度。問題を抱えない教師ほど出世する!!)は、生徒たちを歪ませ、教師を無気力化させ、ひいては教育委員会を狂育委員会へとますます変質化させていっているのである。ガンと同じく病巣は根こそぎ取らなければ、この国はますます衰弱し、奇形化の相を呈していくであろう。

 

森有礼(もりありのり)は、伊藤内閣で初代の文部大臣になった人物であるが、ドイツの教育制度を範として国家主義的な学校令を制定した人物である。それが思慮の浅い国粋主義者によって欧化主義と誤解され、憲法発布の日に森は大臣室で暗殺されている。森は云う、「教育は国家の根幹である」と。この書は額装されて今も大臣室に掛けられているが、その至言の重要さに振り返る者は誰もおらず、書は日に焼けて、今ではすっかり褪せてしまっているという。ことほどさようにこの国は、上っ面の平和の代償として、情緒面で最も狂った国に成り果ててしまったのである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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