久世光彦

「火炎地獄の夏は、ひんやりとした話を…」

①…ふと思うのだが、今の時代、もしこんな猛暑の中にク-ラーが無かったら、熱中症で毎日毎晩何万人という死者が出る事はもはや間違いない。…想像するに、火葬する焼き場が足りず、積み上げられた死体の山は、中世のヒエロニムス・ボスの絵を遥かに越えて凄惨なものとなっていたであろう。

 

……火葬場といえば、私の少年時代にこんな事があった。今でこそ火葬場はまるで結婚式場のような綺麗な造りであるが、少年時代、特に田舎の火葬場といえば山の上の暗い場所にあり、湿った緑蔭に蔦が繁っていかにも何かが出るという不気味な雰囲気があった。

 

…確か8才の頃であったが、遊びに飽きた私達ガキどもは胆試しがしたくなり、火葬場を探検しに行く事にした。人家が次第になくなって来て、そこへと続く一本の坂道が私達を誘っているようであった。…先頭にいた私は、その坂道の途上で、薄い煙があがっている角状の小さな欠片が落ちているのを見つけ、それをつまんでみた。瞬間それは指にくっつくような、絡み付くような冷たさで、思わず私はそれを捨てた。…(何だろう?)…その疑問は数年後の夏に解けた。…それは蓋をする前に棺の中に入れて死体の腐敗を防ぐ為のドライアイスだったのである。

 

 

…しかし疑問は続く。…私達が来る前に通っていったであろう何台かの霊柩車。その黒い車の中に、釘打ちされて厳重に開けられない棺の中に入っている筈のドライアイスが、何故1個だけ、あろう筈がなく棺から飛び出して何故そこに落ちていたのだろうか!?そんな事がありえるのだろうか?……夏ゆえにドライアイスは死者の体をびっしりと覆うように詰められている。…私はその一片のドライアイスを通して、顔さえ知らないその死者と………。

 

 

②度々このブログでも登場して頂いている田代冨夫さん(通称・富蔵さん)は、以前にも書いたが、鉄や真鍮などで実に超絶的な細密なオブジェを作って発表している人である。…ここ数年来、私は気心の知れた富蔵さんとは頻繁にお会いしているのであるが、場所は決まって日暮里・谷中墓地近くの老舗の蕎麦屋「川むら」で食した後で、静かなカフェで過ごすのである。少年時代の話や、幽霊の話、最近は富蔵さんの不思議な体験談など話は尽きないが、先日はこういう事があった。

 

…私がその時に持っていたのは、作家の吉村昭さん(1927-2006)の「私の普段着」(新潮文庫)と題するエッセイ集であった。

 

その中に吉村さんの少年時代(昭和9年頃)に体験したトンボ捕りの話が出て来る。吉村さんの生まれ育った町は、今、私達がいるカフェや谷中墓地の近くなのである。

 

「…谷中の墓地は、トンボ捕りの格好な地で、私は、連日のように歩きまわっていた。ある日の早朝、墓地に入ると、今は焼けてない五重塔の近くに二、三名の警察官がいて、縄が張られていた。異様な雰囲気で、恐るおそる縄の張られた中をうかがってみると、墓石のかたわらの松から白いものが垂れさがっているのが見えた。白い着物を身につけた若い女性で、白い帯を松の枝にかけて、縊死している。…素足の伸びきった先端がわずかに地面にふれていて、私はトンボ捕りどころではなく、逃げるようにその場を離れた。……」

 

 

吉村さんの少年時代の話は、次に谷中墓地内に眠る徳川慶喜の墓所で、人目を避けて営まれていた男女の切迫した暗くて熱い営みの目撃談へと続くのであるが、…つまり、この墓地はかつてはエロスとタナトス(死の本能・衝動)の真剣な舞台であり、現場だったのである。

 

(………ここ谷中の墓地は桜の名所。ほとんどが桜で松の木は数本有りや無しや。…しかも五重塔(放火の為に今は塔は無い)の礎石は今もそのまま残っている)。…ここのカフェは次にお茶が出てくる。…私達は出された熱いお茶を呑みながら、殆ど同時に同じ事を考えていたらしく、それが好奇心の強い私達の目に表れていた。

 

…店を出て向かったのは、その松の木であった。…五重の塔跡に近づくや、富蔵さんが(在った!)と言って指を差した。盆栽などにも造詣が深いので植物の見分けもさすがに瞬時である。…しかし枝分かれした部分(つまり白い帯をかける場所)がかなり高い。およそ9m以上も上に在るのである。(果たしてここなのかな?)……その時、友が以前に教えてくれた知識(松の木は20年で2m伸びる)が卒然とよみがえって来た。…私達は現在から逆算して当時の枝分れの場所を推理して、およそ2m位の高さにそれが在った事を推定した。…ならば、90年前に吉村少年が目撃したそれとピタリと符合する。

 

……ここか、ここで吉村昭さんはその縊死の現場を目撃し、そういう体験の蓄積が、三島由紀夫久世光彦が評価した名作『少女磔刑』やその他の密度の濃い作品へと羽化していったのだと私は思った。

 

 

 

 

…富蔵さんと私は、その若い女性が90年前にこの松の木の下で深夜に紐を掛けるに至ったであろう、その時代の物語りについて、結論などない事を知りながらも話し合ったのであった。

 

 

 

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『作品集刊行の反響』

求龍堂の企画出版で私の作品集『危うさの角度』が刊行されて半月が過ぎた。本を入手された方々からメールやお手紙、また直接の感想なりを頂き、出版したことの手応えを覚えている。……感想の主たるものは先ず、印刷の仕上がりの強度にして、作品各々のイメ―ジが印刷を通して直に伝わってくる事への驚きの賛である。……私は色校正の段階で五回、ほぼ全体に渡って修正の徹底を要求し、また本番の印刷の時にも、二日間、埼玉の大日本印刷会社まで通って、担当編集者の深谷路子さんと共に立ち会って、刷りの濃度のチェックに神経を使った。私の要求は、職人が持っている経験の極を揺さぶるまでの難題なものであったが、それに響いた職人が、また見事にその難題に応えてくれた。昨今の出版本はインクが速乾性の簡易なもので刷られているが、私の作品集は、刷ってから乾燥までに最短でも三日はかかるという油性の強くて濃いインクで刷られている。私の作品(オブジェを中心とする)の持っているイメ―ジの強度が必然として、そこまでの強い刷りを要求しているのである。……しかし、当然と思われるこのこだわりであるが、驚いた事に、自分の作品集でありながら、最近の傾向なのか、色校正をする作家はほとんどおらず、また印刷所に出向いて、刷りに立ち会う作家など皆無だという。信じがたい話であるが、つまり、出版社と印刷所にお任せという作家がほとんどなのである。……、昔は、作家も徹底して校正をやり、また印刷所にも名人と呼ばれる凄腕の職人がいて、故に相乗して、強度な印刷が仕上がり、後に出版物でも、例えば、写真家の細江英公氏の土方巽を撮した『鎌鼬』や、川田喜久治氏の『地図』(我が国における写真集の最高傑作として評価が高い)のように、後に数百万で評価される本が出来上がるのであるが、今日の作家の薄い感性は、唯の作品の記録程度にしか自分の作品集を考えていないようで、私にはそのこだわりの無さが不可解でならない。だから、今回、その川田喜久治氏から感想のお手紙を頂き、「写真では写せない深奥の幾何学的リアル」という過分な感想を頂いた事は大きな喜びであった。また、美学の谷川渥氏からも賞賛のメールが入り、比較文化論や映像などの分野で優れた評論を執筆している四方田犬彦氏からは、賛の返礼を兼ねて、氏の著書『神聖なる怪物』が送られて来て、私を嬉しく刺激してくれた。また、作品集に掲載している作品を所有されているコレクタ―の方々からも、驚きと喜びを交えたメールやお手紙を頂き、私は、春の数ヵ月間、徹底してこの作品集に関わった事の労が癒されてくるのを、いま覚えている。

 

私のこの徹底した拘(こだわ)りは、しかし今回が初めてではなかった。……以前に、週刊新潮に池田満寿夫さんが連載していたカラ―グラビアの見開き二面の頁があったが、池田さんが急逝されたのを継いで、急きょ、久世光彦さんと『死のある風景』(文・久世光彦/ヴィジュアル・北川健次)という役割で連載のタッグを組んで担当する事になり、その後、二年近く続いたものが一冊の本になる際に、新潮社の当時の出版部長から、印刷の現場にぜひ立ち会ってほしいと依頼された事があった。これぞという出版本の時だけ印刷を依頼している、最も技術力の高い印刷所にその出版部長と行き、早朝から夜半まで立ち会った事の経験があり、それが今回役立ったのである。……久世光彦さんとの場合も、久世さんの耽美な文章に対峙し、食い殺すつもりで、私は自分のヴィジュアルの作品を強度に立たせるべく刷りに拘った。結果、久世さんの美文と、私の作品が共に艶と毒の香る本『死のある風景』が仕上がった。……表現の髄を熟知している名人・久世光彦の美意識は、私のその拘りの徹底を見抜いて、刊行後すぐに、手応えのある嬉しい感想を電話で頂いた。共著とは云え、コラボなどという馴れ合いではなく、殺し合いの殺気こそが伝わる「撃てば響く」の関係なのである。……今はそれも懐かしい思い出であるが、ともかく、それが今回役立ったのである。だから職人の人も、印刷の術と許容範囲の限界を私が知っている事にすぐに気づき、その限界の極とまで云っていい美麗な刷りが出来上がったのである。この本には能う限りでの、私の全てが詰まっている。…………まだご覧になっておられない方は、ぜひ実際に手に取って直にご覧頂きたい作品集である。

 

……さて、6月から3ヶ月間の長きに渡って福島の美術館―CCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催されていた個展『黒の装置―記憶のディスタンス』が今月の9日で終了し、8月末には作品集『危うさの角度』も刊行された。(『危うさの角度』の特装本100部限定版は、9月末~10月初旬に求龍堂より刊行予定)……そして今の私は、10月10日から29日まで、東京日本橋にある高島屋本店の美術画廊Xで開催される個展『吊り下げられた衣裳哲学』の作品制作に、今は没頭の日々を送っている。今回は新作80点以上を展示予定。東京で最も広く、故に新たな展開に挑むには、厳しくも最高にスリリングな空間が、私を待っているのである。今年で連続10回、毎年続いている個展であるが、年々、オブジェが深化を増し、もはや美術の域を越境して、私自身が自在で他に類の無い表現の領域に入ってきている事を、自分の内なる醒めた批評眼を持って分析している。「観者も実は創造に関わっている重要な存在であり、私の作品は、その観者の想像力を揺さぶり、未知とノスタルジアに充ちた世界へと誘う名状し難い装置である」。これは私独自の云わば創造理念であるが、私の作品は、今後ますます不思議な予測のつかない領域に入りつつあるようである。……その意味でも、10月から始まる個展には、乞うご期待という事を自信を持って、ここに記したいと思う。

 

 

 

 

 

 

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『満開の桜に寄す』

名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美学の谷川渥さん、それに東大の国文学教授のロバート・キャンベルさん等、多士済々の方々がたくさん会場に来られて、盛況のうちに新作個展が終了した。個展の手応えが大きく、企画者の森岡督行さんからは、さっそくまた来年の個展の依頼の話を頂いた。森岡書店のレトロモダンな空間は、私のオブジェが面白く映える空間である。また新しい試みをしたいと思う。

 

個展が終了した翌日、東京国際フォーラムで開催中の『アートフェア東京』に行く。今回も海外を含めて多くのギャラリーが、自分たちの推す作家の作品を出品しているが、玉石混交の観があり、そのほとんどが芸術の本質からはほど遠い(石)として映った。その石の群れの中に在って、唯一光彩を放つ〈玉〉として映ったのは、またしても「中長小西」であった。またしても・・・・と云うのは、数年前のアートフェアで中長小西が出品していた天才書家・井上有一の、それも彼におけるトップレベルの作品や瀧口修造のそれを見て以来、私がアートフェアの印象をこのメッセージに書く際に必ず登場するギャラリーが「中長小西」だからである。その中長小西の今回の出品作家の顔ぶれは、斎藤義重山口長男白髪一雄松本竣介ジャスパー・ジョーンズモランディピカソフォンタナジャコメッティデュシャン、そして今回は私の作品も出品されている。未だ存命中の私の事は差し引くとしても、それにしても堂々たる陣容であり、他の画廊を圧して揺るがない。私の作品も含め、その多くに早々と「売約済み」が貼られ、如何に眼識のあるコレクターの人達の多くがこの画廊を意識しているかが伝わってくる。かつての南画廊、佐谷画郎以来、ギャラリーの存在が文化面にも関わってくるような優れた画廊は絶えて久しいが、オーナーの小西哲哉氏は、その可能性を多分に秘めている。若干四十一歳、研ぎ澄まされた美意識を強く持った、既にして画商としての第一人者的存在である。

 

昨年の秋に「中長小西」で開催された私のオブジェを中心とした個展は大きな好評を得たが、その小西氏のプロデュースで次なる個展の企画が立ち上がっている。未だ進行中のために多くは語れないが、その主題は、今までで、ドラクロワダリラウシェンバーグの三人のみが挑んだものであり、難題にして切り込みがいのあるものである。ここまで書いてピンと来た方は相当な美術史の通であるが、ともあれ今後に御期待いただければ嬉しい。

 

その日の午後に、国立近代美術館で開催中のフランシス・ベーコン展に行く。予想以上に面白い作品が展示されていて、かつてテートギャラリーでベーコンの絵を見て、ふと「冒瀆を主題とした20世紀の聖画」という言葉を吐いたのを思い出す。教皇を描いたベラスケスやマイブリッジの連続写真などが放つアニマをオブセッショナルなまでに感受して、その振動のままに刻印していくベーコンの独自な表現世界。今回の展示で秀れていたのは、展示会場で天才舞踏家・土方巽の「四季のための二十七晩」の映像が上映されていた事であった。この演出法はまことにベーコンのそれと共振して巧みであった。ずいぶん昔であるが、私は土方巽夫人の燁子さんとアスベスト館の中で話をしていて、急に燁子さんが押し入れの中から土方の遺品として出して来て私に見せてくれた物があった。それはヴォルスやベーコンの作品の複製画を切り取ってアルバムに貼り、そこに自動記述のように書いた、彼らの作品から感受した土方巽の言葉の連なりであった。その中身の見事さ、鋭さは三島由紀夫のそれと同じく、「表現とは何か!?」という本質に迫るものであった。私はそれを夫人からお借りして持ち帰り熟読した事があったが、そこから多くの事を私は吸収したのであった。そのアルバムが、今、ガラスケースの中に展示されていて、多くの人が熱心に見入っている。このアルバムの意味は、次なる舞踏家たちへの伝授の為に書かれたものであるが、精巧な印刷物として形になり、文章も活字化されて伝われば、一冊の優れた“奇書”として意味を持つ本となっていくに充分な内容である。ともあれ、このベーコン展はぜひともお薦めしたい展覧会である。

 

個展が終わると同時に、今年の桜が急に満開となってしまって慌ただしい。桜はハラハラと散り始めの時が私は一番好きである。今回は、桜の下に仰向けに寝ころばり、頭上から降ってくる桜ふぶきを浴びるように見てみようと思っている。梶井基次郎の小説のように、春に香る死をひんやりと透かし見ながら・・・・。

 

追記:先日、慶應義塾大学出版会から坂本光氏の著書『英国ゴシック小説の系譜』という本が刊行された。表紙には私のオブジェ『Masquerade – サスキア・ファン・アイレンブルグの優雅なる肖像』が、装幀家の中島かほるさんの美麗なデザインによって妖しい光を放っている。久世光彦氏との共著『死のある風景』(新潮社刊)以来、私の作品を最も多く装幀に使われているのは中島かほるさんである。この本はなかなかに興味深い。味読して頂ければ嬉しい。

 

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『勘三郎と内蔵助』

中村勘三郎さんのこの度の逝去に際し、あらためて人生の意味とは、その長さではなく密度と生き様である事を痛感した。舞台は度々拝見したが、今年の新橋演舞場での勘九郎襲名披露公演での口上が最後となってしまった。間近でお見かけしたのは久世光彦さんの葬儀の時であった。遺影の前に座っていて焼香のために並ぶと、数人前に勘三郎さんがいた。舞台では大きく華やいで見えるが、実際はかなり小柄であるのに驚いた。そういえばすぐ近くに森光子さんもいたが、舞台で共演したお二人がほぼ同じ時期に逝くのも何かの縁であろうか。政治家で、その死が惜しまれる人は昨今皆無であるが、役者は惜しまれてこそ命である。勘三郎としての円熟は果たせなかったが、この人が放つ「粋」と「艶」は、それを出し切っての生涯であったかと思う。生き急ぐように駆け抜けた見事な生涯であった。

 

人生を駆け抜けた・・・といえば、この時期はやはり1702年に起きた「赤穂事件」が思い浮かぶ。昨日、慶応義塾大学で開催中の瀧口修造展に行くために三田へと向かったが、途中で「泉岳寺」に眠る浪士たちの墓が見たくなり立ち寄った。私は四十七士の中では、最も奮闘した不破数右門と、上野介に太刀(槍ともいう)を浴びせ絶命させた武林唯七が好きであるが、やはり大石内蔵助(1659-1703)の墓前では立ち止まってしまう。その大石の辞世の歌「あら楽し思ひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」は、主君の浅野内匠頭の辞世の歌「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせん」の現世への未練がましさと比べると晴れ晴れとした心情が見事に刻まれていて心地良い。本来、辞世の歌とはあまり芸術的なレトリックを凝らさず、明快単純こそが好ましい。歌の31文字は俳句の17文字と比べると、その字数が多い分、つい本音が出てしまう。しかし本音を封印して後世に虚構や意地を放つのが辞世の歌の、云はば要領なのであろう。その意味でも、この大石の辞世の歌は目的を達成した自分や浪士たちの心境を映した名歌として、あまりにも有名である。しかし、しかし・・である。歴史好きな私としては、この大石の歌が、かつて何処かで聞いたものと重なって響くのが気になっていた。それで、個展も終わった束の間の閑を利用して調べてみた。すると、ある戦国武将の辞世の歌に辿り着いた。それは、信長と共に私の最も好きな武将である上杉謙信(1503-1578)である。謙信の辞世の歌は「極楽も地獄も先は有明の月ぞ心にかかる雲なき」である。如何であろうか・・・。たまたまだよと言う方もおられるかもしれないが、しかし両者を結ぶ人物が一人だけいる。それは江戸前期の儒学者、山鹿素行(1622-1685)である。彼は官学である朱子学を批判したため、一時、赤穂藩にお預けとなっていた折、若き日の大石たちに兵学を講じ、その際に行動学の美しい範として上杉謙信について熱く語った事は想像に難くない。その証しの一つが、大石が討ち入りの際に使った山鹿流の陣太鼓である。

 

討入りを果たした後に浪士達は四つの藩にお預けとなったが、その浪士たちが残した手紙の中に「虚しい・・・」という一文がある。ここに赤穂事件の真実が透かし見えるが、既に大石の意識は後世の評価にその目があった。「・・・・・浮世の月にかかる雲なし」を大石が切腹前のいつ頃に詠んだかは不明であるが、名プロデューサー大石内蔵助の本領がここに在る。上杉謙信からのパクリとは決して言えない見事な「引用の詩学」であると、私は思うのである。

 

 

泉岳寺の中門。空襲から免れて当時の遺構を今に留めている。

 

 

今も線香の煙が絶えない大石内蔵助良雄の墓

 

 

討入りの本懐を果たした後で、泉岳寺のこの井戸で吉良上野介の首を洗ったと云われている。碑は明治時代の俳優ー川上音二郎の建立。

 

 

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『浅草の幻影』

1994年の5月に刊行した月刊誌『太陽』は江戸川乱歩の特集であった。この時の切り口はなかなか面白く、怪人二十面相に合わせて二十名の作家が探偵よろしく各々のテーマで乱歩の迷宮に挑んでいる。荒俣宏(窃視症)、高山宏(暗号)、赤瀬川原平(レンズ嗜好症)、団鬼六(ユートピア)、久世光彦(洋館)、鹿島茂(サド・マゾ)・・・・etc。そして私も原稿を依頼されて〈蜃気楼〉を主題に書いている。最初電話が編集部から入った時、私に与えられた主題は、実は〈洞窟〉であった。〈洞窟〉ならば『パノラマ島奇譚』になってしまう。私はその主題をお断りして、「蜃気楼だったら書きますよ」と提案した。〈蜃気楼〉を主題に乱歩の代表作『押絵と旅する男』について書いてみたかったのである。

 

『押絵と旅する男』の舞台は明治23年に浅草に建立され、大正12年の関東大震災で崩壊した浅草凌雲閣(通称十二階)である。高さは67メートルあり、その屋上からの眺めは絶景であったらしい。幻惑を求める人々は帝都にいながらにして乳色の官能に霞む、さながら白昼夢のような光景を堪能していたようである。乱歩はその小説の中で記している。

 

「あなたは十二階へお登りなすったことがおありですか?ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ」と。

 

美術大学の学生として私が上京したのは昭和45年。浅草十二階が崩れ去って半世紀近い年月が流れていた。しかし・・・浅草には、その残夢のような奇妙な建物が立っていた。昭和三十二年に十二階を模して建てられた浅草仁丹塔である。画像を御覧頂きたい。この写真はちくま文庫の「ぼくの浅草案内」からの引用であるが、撮影したのは著者である小沢昭一氏である。今は消えた都電を前景に、その背景にそびえ立つ建物が仁丹塔である。白く彩色されたその高塔はまさにキッチュなもので、浅草の雰囲気と奇妙に馴染んでいた。しかし、今日のスカイツリーのような話題性も当然無く、それを見上げて眺めやる人もおらず、時間の隙間にそれは消えていきそうであった。そして・・・事実、時の忘れ物として取り壊されるという噂も立ち上っていた。—–或る日、その仁丹塔をしげしげと眺めている男がいた。男は思った。「あの建物の中は果たして・・・・どうなっているのだろうか」と。—–そして男は思い立ったように、その塔へと向かった。その男とは・・・・私である。

 

塔の入口手前には、奇妙な世界への関門のように、〈蛇屋〉が店を開いており、ガラスケースの中には、数匹の蝮(まむし)が黒々ととぐろを巻いていた。入口から中へと入っていくと全くの無人で螺旋状に階段が上へと続いていた。構造的には配線盤が在るだけの、印象としては巨大なテーマパークの残骸のようである。更に上へと登る。すると・・・上の方からパタパタという奇妙な音が落ちて来た。真白い空間の中を上っていくと、そこに見たのはいささか現実離れのした光景であった。二羽の白い鳩がパタパタと羽撃きながら、出口を求めて空(くう)を彷徨っているのであった。真白い建物の中の真白い二羽の鳩。何故このような所に!?入口から何かに誘われるように迷い込んだのであろうが、まるでそれは〈浅草〉が持っているからくりめいた妖しい気が、私にふと見せた幻惑のように、その時は映ったのであった。まっさらな白い幻影のような、しかし眼前に今在る現実の光景。しかし、それから先の記憶がまるで無く、唯その時の光景だけが、乾いたパタパタという羽音と共に今も記憶の内にありありと在る。

 

記憶は時を経て、今ようやく作品という形で、それは形象化されようとしている。真白い張りぼてのような仁丹塔の中で見た真白い鳩の光景・・・。そして時を経て訪れたヴィチェンツア、パドヴァ・ヴェネツィア・・・の冬の旅の記憶。それらが絡まって秋の個展の為のオブジェやコラージュに今、変容しているのである。幾つか用意されている個展の中の或るタイトルは『密室論  - ブレンタ運河沿いの鳥籠の見える部屋で』である。私は記憶の中から今しあの二羽の鳩を空へと解き放つような想いで制作に没頭しているのである。

 

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『新刊 – 死のある風景』

先月に拙著『絵画の迷宮』が新人物往来社から刊行されたばかりであるが、続いて、『死のある風景』が同社から刊行された。2006年に急逝された久世光彦氏の遺稿と、私のオブジェと写真を絡めた共著である。実質的に久世光彦氏の最後の本でもあり、それに共著という形で関わった事に奇しくも何らかのご縁のようなものを覚えている。

 

表紙は、ブックデザインの第一人者として知られる鈴木成一氏が担当。私の写真作品『ザッテレの静かなる光』を、下地に銀を刷り、その上に四色の黒の階調を重ねるという手のこんだ工程を経て、イメージが深い情趣の高まったものに仕上がった。表紙の帯には〈「あの世」と「この世」の境はいったいどこにあるのだろう。「死者」と「生者」の境はあるのだろうか。〉という一文が入り、極めて今日的なメッセージとなっている。かつて無い死のオブセッションなるものが日本中を席巻している今、いっそ、さまざまな貌を見せる〈死〉のカタチと正面から対峙してみるのも一興ではあるまいか!?この『死のある風景』は、それにもっとも相応しい本となっている。本書には、久世光彦氏の91篇のエッセイと、私の作品19点を所収。全面見開きの写真も多く入っており、作者として、その印刷の美しい仕上がりをとても気に入っている。

 

 

向田邦子・久世光彦という、〈昭和〉の貴重な、そして陰翳に富んだ美文の書き手が次々と逝ってしまった。向田さんは飛行機事故による爆死、久世氏は自宅での急逝であったが、共に一瞬の「死」が、その才能を寸断した。凄まじくもあるが、うらやましくも映る死のカタチである。西行のような桜の花の下の死も良いが、〈魔群の通過〉のような死も私には案外相応しいかとも思っている。ともあれ久世氏の最後のメッセージが詰まった本書をじっくりと味読して頂ければ、共著者としてこんなに嬉しいことはない。

 

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『死のある風景』

原発の再稼働の是非をめぐって様々な意見が入り乱れているが、どうもこの国の人々は、自明な大前提の事を忘れているように思われる。それは、この日本という国が、いざという時に逃げ場の無い極く小さな限られた〈島国〉であるという事である。

 

1986年4月に旧ソ連のウクライナ共和国の原発で起きたチェルノブイリ原発事故の事は記憶に生々しい。大気中に放射能が飛散した広域な現場は25年以上経った今も死の墓場であり、人々の影すらない。しかし、そこは地続きの大陸であり、被災者は遠方へと避難が可能であった。それにひきかえ、四囲を海に囲まれた我が国にはそれが出来ない。故にドイツ・フランス他の諸国と同一原理で語る以前に、もし地震が発生し、同様の事が生じた場合、もはやその時点で〈滅び〉しか目前にはない事を、SFの話ではなく、現実(事実、その第一波は起きた!!)の事として記憶するべきであろう。現在も、3.11の日に流れ出た大量の汚染水は海底の泥に混じり、小魚から回遊魚への汚染は確実に広がって、日本の近海をじわじわと封じ込んでいる。そして、それを除染する方法を私たちは持ち得てはいない。

 

私たちは地震による津波によって、原発が一瞬で砕けた様をありありと見た。そして今度は想定域が西へと下って関東・東海・そして関西へと、次なる悲劇の誕生が、具体的な〈今、そこにある危機〉として在る事を誰もが知っている。その渦中に在って、原発の再稼働は、人間がかくも愚かである事の実証でしかない。この記述すらも〈風評〉と断ずる者がいるとしたら、その御仁はよほど現実を直視する勇気と理性を持たない御仁であろう。隣国の主席はかつて日本を指して〈意識レベルがあまりにも低く、国家として体を成していない〉と酷評したが、精神の立脚点を自らに持たないこの国の民は皆、怒ることすら知らず、唯、他人事のように苦笑するだけであった。

 

周知のように、幕末から明治維新へと至る改革を可能にしたのは、言うまでもなく米・英・仏を中心とした外圧が発端にあったからである。今、この国に押し寄せている外圧と云えば、それは地震・原発によるオブセッショナルな感覚かもしれない。このまま行けば、逃げ場を持たない日本に待ち受けているのは、全面的な放射能被曝によって化した、住む場所を無くした焦土である事は、〈想定内〉の具体的な現実である。〈本当にエネルギーは不足しているのか!?〉という疑念がある中、今は代替エネルギーへの転化に専念すべきであろう。

 

さて、暗い話が続いたので、次は自分の事を明るく語ろう。先日刊行した拙著『絵画の迷宮』に続いて4月中旬には久世光彦氏との共著『死のある風景』が刊行予定である。明るくと言ったが、何とリアルなタイトルである事か!!先日出版社に行き、その本に載せる私の写真作品を選出する作業を行った(掲載した画像)。そしてその次には、詩人の野村喜和夫氏の詩集(ランボーを主題とした)に絡めて私の写真作品を載せるために、深夜にそのための写真撮影を行っている。〈この本は、今年中に思潮社より刊行予定〉。

 

最近の私は機会を見つけては津波の、あの怖るべき映像を見ながら、500年前にダ・ヴィンチが記した、大洪水によって人類が死滅していく叙景文の描写のそれとを比べている。そこから文章を立ち上げて、次なる書き下ろし執筆の、真近に迫った開始を計っているのである。ダ・ヴィンチの文は、私達の知るあの津波の映像と重なるように生々しく活写したものである。そのダ・ヴィンチは手稿の中で「間違いなく人類は水によって滅びる。」と予言している。現代の人々は中世よりも現代の方が文明において勝っていると思い上がっている。しかし現実は、人類が生んだ最大の知的怪物(ダ・ヴィンチ)の想像した予見の掌中に悲しくも、また愚かにも収まっていこうとしている。ダ・ヴィンチがその水による終末論を主題としたのが、彼の絶筆『洗礼者ヨハネ』なのである。

 

 

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「『絵画の迷宮』が刊行されました。」

前々回のメッセージでお知らせした拙著『絵画の迷宮』が、遂に刊行されました。ご興味がある方はぜひ御一読下さい。ご購入は、全国の主要書店、あるいは地方にお住まいの場合はお近くの書店まで書名『絵画の迷宮』、著者名 – 北川健次、出版社 – 新人物往来社、を申し込んで頂ければ入手可能です。〈アマゾンでも可能。〉定価は750円(税込み)です。2004年に新潮社から刊行した拙著『「モナ・リザ」ミステリー』に、その後発見した衝撃的な新事実を書き加えた、云はば〈完全版〉が今回刊行した本です。登場するのは、ダ・ヴィンチフェルメールピカソダリデュシャンの計五人の芸術家。そこに夏目漱石三島由紀夫雪舟法然少年A(神戸連続殺人)、スピノザなどが多彩に絡み、美術論を越えてミステリー・紀行文としても楽しめます。本書は新聞や雑誌の書評でも多く取り上げられ、“我が国におけるモナリザ論の至高点”と高く評価されましたが、探偵が既に迷宮入りとなった完全犯罪を追いつめるように書き込んであり、私の文章の仕事における自信作です。

 

 

昨年末から、福井県立美術館の個展図録・写真集『サン・ラザールの着色された夜のために』・そして今回の『絵画の迷宮』と三冊の本が出た次第。続いて四月には、新人物往来社から久世光彦氏と私の共著『死のある風景』が単行本で刊行される為、現在ひき続き担当編集者と共に校正に入っています。この本は新潮社の「週刊新潮」で数年間連載し話題となったものを集めたもの。久世氏が御存命中に刊行された単行本に所収した内容とは別な文を集めて構成。こちらもご期待いただければ嬉しい限り。死のメチエとノスタルジーをヴィジュアル化すべく、私のオブジェや写真も多数入ります。

 

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『本が二冊刊行間近!!』

 

拙著『「モナ・リザ」ミステリー』が新潮社から刊行されたのは、2004年の時であった。美学の谷川渥氏や美術家の森村泰昌氏をはじめ多くの方が新聞や雑誌に書評を書かれ、“我が国におけるモナ・リザ論の至高点”という高い評価まで頂いた。しかし本を刊行してから数年して、私はとんでもない発見をしてしまったのであった。

 

今までの美術研究家たちの間では、ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」と呼ばれる、あの謎めいた作品について何も書き記していない、というのが定説であった。しかし私は、あれほどの作品である以上、作者は必ずや何か書き記しているに相違ないとふんで、徹底的にレオナルドの手記を調べたのであった。評論家とは異なる画家の現場主義的な直感というものである。そして・・・遂にそれと思われる記述を、その中に見つけ出したのであった!!これはレオナルド研究の最高峰とされるパリのフランス学士院でも、未だ気付いていない画期的な発見であると思われる内容である。そして、その内容は驚愕すべき記述なのである。しかし、私の「モナ・リザ」の本は既に出てしまっている。私は発見した喜びと共に、本が出る前に何故気がつかなかったのかを悔やんだ。又、後日にもう一つの新事実までも「モナ・リザ」に見出してしまい、ますます完全版を出す事の必要を覚えていた。・・・それから七年が経った。

 

一冊の本が世に出るには、必ずそこに意味を見出してくれる編集者との出会いがある。私にとって幸運であったのは、歴史物の刊行で知られる出版社- 新人物往来社のK氏が、その発見に意味を見出し、たちまち刊行が決まった事であった。今回は文庫本である為に発行部数も多く、若い世代にも読者の幅が広がるので、刊行の意味は大きい。福井県立美術館の個展で福井のホテルに滞在している時、また森岡書店での個展の合間を見ては執筆を加えており、先日ようやく校正が終った。そして私は文筆もやるが写真もやるので、表紙に使うための画像をアトリエの中で撮影し、全てが刊行を待つばかりとなった。本の刊行は3月2日が予定されている。又、同社からは続けて四月に私と久世光彦氏との共著『死のある風景』も新装の単行本で刊行される事になっている。新潮社から出した時は、『「モナ・リザ」ミステリー』というタイトルであったが、今回は加筆した事もあり、タイトルを『絵画の迷宮』に変えた。とまれ、刊行は間もなくである。ご期待いただければ嬉しい。

 

 

 

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『この本、「光の王国」が面白い!!』

私が勝手に「平成の寺田寅彦」と呼んでいる分子生物学者の福岡伸一氏が、秀逸なフェルメール論『フェルメール・光の王国』という本を刊行した。私も以前に紀行文の取材でパリのパサージュに関する執筆を頼まれた、ANAの機内誌「翼の王国」に長期連載していたものを一冊にまとめたものである。『デルフトの暗い部屋』というフェルメール論を、私は10年以上前に文芸誌の「新潮」で発表したが、それは、フェルメールの謎に光を当てるために、レーウェンフックスピノザを重要な存在として登場させたものである。福岡氏の視点もいささか重なったものがあるが、氏の独自な切り口には共振するものがある。本質にまったく言及していないフェルメール論は数多くあるが、久しぶりに、フェルメールの絵画が持つ不思議な引力の秘密に迫り、その正体を解かんとする労作である。ぜひ御一読をお薦めしたい。

 

さて、最近、12月から来年にかけて私の本の刊行予定が次々と入り、打ち合わせが続いて個展の時以上に多忙な日々となっている。一つは28日から始まる福井県立美術館での個展のカタログの校正チェック。それから、まもなく沖積舎から刊行される私の写真と詩を切り結んだ、今までにない形の写真集『サン・ラザールの着色された夜のために』の早急な制作進行。そして今月急に入って来た、拙著『モナリザ・ミステリー』の文庫化の話と、久世光彦氏との共著『死のある風景』を新装化した再版の話である。それとは別に詩人・野村喜和夫氏の詩と私の作品を絡めた詩画集(思潮社刊行)の為の打ち合わせと作品制作。1月の個展(森岡書店)のための新作・・・。このように続々とお話を頂くのはありがたく、私は各々に期待以上に応えたいと思っている。プロの骨頂とプライドにかけて。しかもこれとは別に、展覧会に絡めて福井新聞に私の半生記『美の回想』の連載(八回)を書き始めている。師走という程に年末は忙しい。『モナリザ・ミステリー』は新たに発見した事も書き加える為、執筆もある。風邪など引いている場合ではない。写真集は早々と購入予約も入り始めており、ありがたい!!!とにかく〈頑張りたい〉の日々を今、慌ただしく生きている。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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